2019年12月30日

俺のいちごミルクフォルダが火を噴くぜ 2019

 何のためにこんなこと始めたのか、もはや分かりません。

 いちごミルクで一年をふり返る、とかないですし。

 さすがに今回で終わりそうな気がします。

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posted by ウロ at 16:50| Comment(0) | 日記

2019年12月23日

税法・民法における行為規範と裁判規範(その2)

 前回の続き、次は税法が行為規範かつ裁判規範であるという点について検討します。

税法・民法における行為規範と裁判規範(その1)

 それぞれの記述を再掲しておきます。

A 田中二郎「租税法(第3版)」(有斐閣1990) 57頁
 「法規そのものの意義、性質についていえば、私法関係は、原則として、当事者の自主自律に委ねられ、私法法規は、当事者間で問題を解決することができない場合の裁判規範の性質を有するものであるのに対し、租税法規は、それに従って課税が行われるべき行為規範であると同時に裁判規範でもあること(租税法は、元来、当事者の話合いによる取引妥協を許さない)、私法と租税法では、その規律の立場を異にするため、概念の相対性を承認する必要があること、経済取引等の私法上の効力の有無は、直ちに租税法上の課税要件の存否に影響を及ぼすものでないこと等、租税法の独自性を認める必要がある。」

B 三木義一ほか「よくわかる税法入門 第13版」(有斐閣2019) 24頁
 「民法の場合は、当事者が原則として契約の自由を行使して、紛争が生じたときに裁判所に判断してもらう規範(裁判規範)ですから、裁判官が合理的に判断できればいいかもしれません。しかし、税法は税務署と納税者に直接向けられていて、両者ともに税法に定められたとおりにしなければならず(行為規範)、しかも、納税者は申告をしなければならないのです。」


田中二郎「租税法(第3版)」(有斐閣1990)
三木義一ほか「よくわかる税法入門 第13版」(有斐閣2019)


 お題目自体はそのとおりなんでしょうが、記述Bで挙げられている「行為規範」の例に違和感。

 行為規範というのは通常、これから行為をするにあたって「こういう行為をしなさい/してはいけません」と示されるルールのことです。
 が、バリバリ行為規範性のある刑法がそうであるように、「○○したら△△の刑を処する」みたいな書き方をされることがあります。

 こういう書き方だからといって、「これは裁判規範にすぎず行為規範ではない」などと言われることはなく、行為規範としての読み替えが行われます。

 裁判規範:裁判官に対して
  ○○した人には△△の刑を科しなさい。
   ↓
 行為規範:一般人に対して
  ○○してはいけません。

 このあたりを意識して税法規範を抽出すると、「こういう取引をしたら○○税が発生しますよ」というものになるかと。
 でまあ、通常人はなるべく課税を回避したいわけで、これが行為規範として機能することになります。
 たとえば、同じ経済目的を達成するのに、甲契約なら課税される・乙契約なら課税されない、じゃあ乙契約でいくかとなったときに、税法が行為規範として働いた、ということができます。

 ところが記述Bでは、すでに取引が終わった後で、税務署と納税者が、どういう税金が発生するかを判断する場面で働く規範を行為規範だといっています。
 が、これはどう考えても、当該取引を事後的に評価する場面です。

 このようなものを行為規範だというならば、審判官が裁決書を書く「行為」に働く規範も行為規範だし、裁判官が判決書を書く「行為」に働く規範も行為規範だということになってしまいます。

 まあたしかに、「行為/裁判」という概念を言葉のニュアンスで理解するなら、記述Bのような書き方をしてしまうのかもしれません。
 裁判規範のほうは裁判て書いてあるから裁判で働く規範だな、じゃああとは全部行為規範ってことだな、みたいな。
 ここでいう「行為」というのは一体何のことなのか、ということをしっかり詰めていないわけです。

 が、わざわざ規範を二分類する意味がどこにあるか、それぞれの機能を検討することなしに割り振ることはできないはず。


 規範の分類ということで想起されるのが、新堂幸司先生が「当事者の確定」で提唱された「規範分類説」。

 これは、同じ当事者の確定であっても、手続段階によって考慮すべき事情が違う、という考え方かと思います。
 そういった観点から、それぞれの手続段階によってどのような規範が望ましいかを組み立てていくと。



  新堂幸司「新民事訴訟法 第6版」(弘文堂2019)
 (みんな第6版が出たぞー!)

 これが税法だとどうなるんだ、というと、
  ・これから取引する段階でどういう税金が発生するかを判断する規範
  ・すでに行った取引につきどういう税金が発生するかを判断する規範
とで、規範の働き方が違うのではないか、と思います。

 そうだとすると、これらはそれぞれ「事前規範/事後規範」と名付けておくのが望ましい気がします。
 私人の取引行為を軸に「事前/事後」で区分すると。


 また、上記記述では「裁判」規範と書かれていますが、当然のことながら税法上の手続は「裁判」だけではありません(記述Bの書きっぷりからすると、おそらくですが「裁判」どころか「判決」規範しか意識されていないような)。

 税法上の手続をキーワードとともにざっくり並べると、次のような感じ(調査官をどこに入れ込むか考えましたが、修正申告の勧奨をするってことで3アにねじ込みました)。

  1  私法上の取引: 私人
  2  確定申告: 私人
  3ア 税務調査: 私人(+調査官) 修正申告
  3イ 税務調査: 税務署長 更正・決定
  4  再調査の請求: 税務署長 決定
  5  審査請求: 国税不服審判所 裁決
  6  訴訟: 裁判所 判決

 1で働く規範が行為規範、6で働く規範が裁判規範と言えるとして、2〜5は何規範なのか。
 行為/裁判の二分論ではカバーしきれていません。

 ちなみに、田中成明先生は、裁判規範ではなく「裁決」規範という表現を使っています。



  田中成明「現代法理学」(有斐閣2011)

「リーガルマインドとは何か?」

 「裁決」というと、たまたま5と用語がかぶっていますが、それよりも広く、一定の機関による拘束力のある判断くらいの意味だと思います。
 で、この用語を使った場合でも、5はカバーできるとして2〜4はどうなのか。

 実際に規範の働き方をみると、1では私法上の取引をする前の段階で事前に税法規範が働いて、それ以降はその取引をどう評価するかという事後的な判定規範として働いていることになっています。

 1  私人 → 取引
 2  取引 ← 私人
 3ア 取引 ← 私人(+調査官)
 3イ 取引 ← 税務署長
 4  取引 ← 税務署長
 5  取引 ← 審判所
 6  取引 ← 裁判所
(※厳密には、たとえば訴訟であればその判断の対象は課税処分の適法性ですが、実体法上は取引の課税要件該当性の有無を判断することになるので、上記の図式でも許されるかと)
 
 そうすると、前述のとおり、規範を「事前規範/事後規範」とに区分して、1のみが事前規範であとは事後規範と理解するのがよさそう。

 もちろん、1〜3アの場面は「私人」に向けられた規範という意味で、それを「行為規範」と括ることもできるでしょう。
 が、1と2・3アでは規範の働き方が違う、ということは意識しておくべき。

 というか、私人にとって重要なのは、取引前にどういう税金が発生するかが明確であることのほうでしょう。
 実際、税法学者が課税明確主義とか借用概念論でいうところの「納税者の予測可能性」って、1の場面のことを念頭に置いて言っているはずです。
 のに、なぜか記述Bでは行為規範の例で1がでてこない。
 
 確かに、「事故に遭って不法行為債権を取得した」という場合を想定するならば、1を飛ばしていきなり2がくる、というのは分かります。
 そうだしても、行為規範として真っ先にあげるべきなのは、1の場面じゃないのかと。



 この「事前/事後」という時間軸とは別に、それぞれの手続で働く規範の内容は違うのではないか、ということが問題になりえます。

 伝統的な理解ではおそらく、「裁判規範」が法規範の中心的機能として捉えられていたと思います。
 で、それ以外の手続で働く規範は「裁判になったらどう判断されるか」という裁判規範の反映にすぎない、というような理解ではなかったかと。

 これに対して廣田尚久先生が「紛争解決規範」というものを提唱されています。

 

  廣田尚久「紛争解決学講義」(信山社2010)
  廣田尚久「紛争解決学」(信山社2006)

 裁判外の手続あるいは裁判内でも和解で働く規範は、裁判(判決)規範とは違うものがあるのではという問題意識(和解規範、調停規範、仲裁規範などなど)。
 それぞれの手続において、単なる裁判規範の反映としての規範ではなく、独自の規範がある(あるべき)のではないか、ということ。

 この考えを参考にすると、税務上も(1だけでなく)2〜5までで働く規範は6の裁判規範とは内容が違うのか(現状認識)、あるいは違うべきなのか(規範論)ということが問題となっておかしくない。

 特に、税法が「申告課税方式」をとって私人に一次的な判定を委ねていることからすると、1だけでなく2・3アも、4以降とは違った考慮が必要になるのではないか、とか。
 この限りでは、記述Bが2・3アの場面を取り上げているのは理解できます(が、1をあげないのはやはり解せない)。

 私がこのブログで「日常系税務」とかいっているのも、「紛争系」とは異なる税務があるのでは、という問題意識からの造語です。
 落とし所の具合が、審判所・裁判所まで行った場合とは違ったところにある、ということ。

【日常系税務】
税理士だって日常系税務でリーガルマインドを実践したい!

 そしてこれは、弁護士先生の書く税務本が、税務判決中心の記述になっていることへのアンチテーゼでもあります。


 しかしまあ、「租税法規は明確でなければならない」なんてことは、言わずもがな当たり前のことです。

 のに、うかつに民法をサゲたせいで、こんな野良ブログに延々とイジられ倒されることになるとは、大変ですね。

この問題、もう一つ考えなればならないことがありますが、余力があれば続きを書きます。

税法・民法における行為規範と裁判規範(その3)
税法・民法における行為規範と裁判規範(その4)
税法・民法における行為規範と裁判規範(その5)
税法・民法における行為規範と裁判規範(その6)
税法・民法における行為規範と裁判規範(その7)

2019年12月16日

税法・民法における行為規範と裁判規範(その1)

 前回の予告通り、「行為規範/裁判規範」につきイジりを入れます。
 (以下、私法と民法は互換的に用います。)

田中二郎「租税法(第3版)」(有斐閣1990)
三木義一ほか「よくわかる税法入門 第13版」(有斐閣2019)

 それぞれの記述は次のとおり。

A 田中二郎「租税法(第3版)」(有斐閣1990) 57頁
 「法規そのものの意義、性質についていえば、私法関係は、原則として、当事者の自主自律に委ねられ、私法法規は、当事者間で問題を解決することができない場合の裁判規範の性質を有するものであるのに対し、租税法規は、それに従って課税が行われるべき行為規範であると同時に裁判規範でもあること(租税法は、元来、当事者の話合いによる取引妥協を許さない)、私法と租税法では、その規律の立場を異にするため、概念の相対性を承認する必要があること、経済取引等の私法上の効力の有無は、直ちに租税法上の課税要件の存否に影響を及ぼすものでないこと等、租税法の独自性を認める必要がある。」

B 三木義一ほか「よくわかる税法入門 第13版」(有斐閣2019) 24頁
 「民法の場合は、当事者が原則として契約の自由を行使して、紛争が生じたときに裁判所に判断してもらう規範(裁判規範)ですから、裁判官が合理的に判断できればいいかもしれません。しかし、税法は税務署と納税者に直接向けられていて、両者ともに税法に定められたとおりにしなければならず(行為規範)、しかも、納税者は申告をしなければならないのです。」



 まず、民法は裁判規範(であって行為規範でない)という点について。

 ちょっと考えればわかるんですけど、たとえば、

・契約しようとしている相手方がどうやら未成年者っぽいが、そのまま契約してもいいんだろうか。
・約款をつくりたいがどういう内容なら大丈夫だろうか。

といった場合に、民法の規律を確認し、その内容によってとるべき行動が影響を受けるわけですよね(例として不法行為をあげてもいいのですが、さしあたり契約の例で揃えます)。

 これは、民法が「行為規範」として機能しているってことじゃないんですか。

 もし仮にですけど、民法世界に「任意規定」しか存在せず、すべてを合意で規定しつくせるのであれば、民法が行為規範として機能する出番は少ないのかもしれません。
(※合意がない事項には任意規定が適用される、という意味では任意規定も行為規範性があると思います。が、これを言ってしまうと上記記述を全否定することになって、そこでお話が終わってしまうので、任意規定には行為規範性はない、ということにしておきます。)

 が、現代において、「強行規定」の存在を一切気にせず自由に契約締結できる法領域なんて、ほぼないと思う。

 労働契約、借地借家契約、消費者契約のような「特別法」がある領域を思い浮かべるまでもなく、すべての契約には、背後に「信義則」による枠がはめられています(公序良俗でもいいですが)。
 ので、どこまでいっても、民法の規律を意識せずに契約することなんて不可能。

  どこまで走っても追いかけてくる、夜の月のように(詩的表現)

  人も歩けば強行規定に当たる(犬派に配慮)


【動物配慮系】
パラドキシカル同居 〜或いは税務シュレディンガーの○○
【動物非配慮系】
イタチ、巻き込み。 〜家なき子特例の平成30年改正

 もし、見渡す限り任意規定しかない法領域を妄想したとして(神エネルのいうフェアリーヴァース)、そこではもはや民法は行為規範どころか裁判規範ですらなくなります。
 すべてを合意で決められるのならば、裁判で裁判官は、民法を一切参照せずに合意解釈をやるだけなので。

 美味しいところだけ食べようと皮を剥いていったら、中身が何もなくなってしまったみたいな、そんなおもしろ動物動画ありましたよね。


 話はズレますが、この行為規範/裁判規範の問題、刑法における「結果無価値論/行為無価値論」でも同じような話がでてきます。

 行為無価値論は結果無価値論に対して、「事前に規範が与えられず予測可能性を害する」みたいな批判をしています。

 が、規範が向けられるのが行為だろうが結果だろうが、どういう場合に処罰されるかが事前に決まっていさえすれば、我々はそれを基準に行動ができるわけです(「する」ではなく「できる」)。

 以下、各自お試しいただければいいと思いますが、

  ア 結果無価値論者の教科書を読んでから自動車を運転する
  イ 行為無価値論者の教科書を読んでから自動車を運転する

とやってみて、アと比較してイのほうが「事前に規範が与えられてるぅ〜!くぅ〜!」て感じるかっていったら、まあ感じないですよね。
 規範が「行為」に向けられているからといって、個別具体的な結果回避行為まで特定してくれるわけではなく、それは自分で都度都度判断しなければなりません。

 もしも将来、技術が進化してカーナビに「行為無価値システム」が搭載され、運転中逐一結果回避行為をアナウンスしてくれてそれに従っている限り処罰されないというなら、「行為無価値論、素敵抱いて!」てなるんでしょうけども。
 今の技術で実現するのであれば、全国の行為無価値論者を動員して、結果回避行為を耳元で囁いてもらうしかない(囁き戦術、囁き女将)。
 が、そうなったら規範を与えてくれているのは「張り切り行為無価値おじさん」であって刑法ではない。

【与える規範】
  刑法 ⇒個人
  刑法 ⇒おじさん ⇒個人

 このおじさんのポジションをAIに代替させるのが、今後の法分野のチャレンジすべきところなんでしょうね。

 その前に「自動運転」の実用化が、おじさん開発を追い越していくんでしょうか。
 そうはいっても、自動運転中の行為規範の問題だったり、「それでも俺は自分で運転したい」という酔狂な(と言われるようになるんでしょうか)人向けの行為規範の問題が残るでしょう。
 下手な人に運転されると自動運転システム全体に支障がでる、ということで、自分で運転できるのは超難関な限定解除(自己運転)試験に受かった人だけになる未来になったりするんですかね。
 全国民が「電脳化」を強いられるような感じの。


 刑法の行為規範性については、度々紹介していますが、以前引用した辰井聡子先生の文章に全面的に共感します。

辰井聡子 「因果関係論」(有斐閣2006)


 話を税法側に少し戻すと、「借用概念」論も同じ系列の話だったりします。

 「統一説」は、税法上の概念を民法と同義に解さないと法的安定性・予測可能性が害されるとかいうんですけど、「それは気のせい」ということを以前論じました。

非居住者に支払う著作権の使用料と源泉徴収の要否について(その11)
(※タイトルと内容が一致してませんが、リンク間違いではありません)

 民法と同義だろうが別義だろうが、税法解釈上一度決めたものを変えない限りは、法的安定性・予測可能性は害されません。
 むしろ、統一説のいうように、やわらか民法解釈に税法解釈が連動してしまうと、法的安定性・予測可能性が害されかねない。

 なにせ記述Bによれば、民法には行為規範性がないことになっています。
 そんな私法規定に税法解釈が連動してしまうというのなら、予測可能性を害することこの上ない。


 以上要するに、仮に裁判規範にすぎない法規定があったとしても、それが行為前に存在するかぎり行為規範として機能してしまう、行為規範として機能しない裁判規範なんてそうそう存在しない、ということが言えると思います。

 もしそういう事態があるとしたら、民法の規定が「何らかの行為をしたら何らかの義務が発生する」(文字通り法律にそう書いてある)みたいな規定だらけ、という場合でしょう。
 これでは不明確すぎて何ら行為の基準にならないわけです。

 が、仮にそんな規定で民法が埋め尽くされていたというような悪夢を想定したとしても、「だから民法は行為規範として機能させなくていい」ということにはならないでしょう。
 この場合にいうべきことは、規定を明確化して行為規範としての機能を果たさせるべき、となるはず。


 みたいな話、どこかで読んだ記憶があるなあと思って、思い出したのが谷口安平先生の民事訴訟法の教科書。



  谷口安平「口述 民事訴訟法」(成文堂1987)
 ※(1996年改正前出版ですが総論重視の名著。例によって版元品切れ)

 訴訟/非訟の区別基準に対する最高裁の見解を批判する文脈で、次のような(仮想)条文例をあげていました。

  (仮想)民法第1条
 『私人は他の私人に対して裁判所があらゆる事情を斟酌して適切と認めるところの権利を有し義務を負う。』


 民法がこれ一箇条だけ(本当に一箇条だけ)に改正されることになったら、私人間の紛争はすべて「非訟」扱いなのかと(民事訴訟絶滅!!)。
 さすがにそうはならないだろう、というのが谷口先生のご意見。

 なかなかにファンキーな仮想例。
 こういう思考法面白い、と思って記憶に残っていたものが、こんなところにつながってくるとは。
 この手の応用も、ある種の「リーガルマインド」だと思うんですけども。

【リーガルマインドについて】
「リーガルマインドとは何か?」
税理士だって日常系税務でリーガルマインドを実践したい!


 このように「民法は行為規範でない」という言明それ自体が妥当でないのですが、その言明を「意思自治」から導くというのも変な話。

 意思自治から言えることは、契約債権は意思通りの効力が発生するという点。
 これに対して、租税債権は、望んでもいないのに一定の取引を行うことにより発生してしまう、そしてその内容は当事者が左右できるものではない、ここに契約債権との違いがあるわけです(記述Aのカッコ書きがそういう趣旨のことを言っている)。

 それはそうだとして、これがなぜ、民法の裁判規範性を肯定しつつ行為規範性を否定する理由になるのか。
 私には理屈が繋げられません。

 意思自治が全面的に働く事案では民法が適用されなくなる、ということであって、民法そのものの行為規範性が無くなるわけではありません。
 仮に、その適用されない、ということを行為規範がないと言っているのであれば、同時に裁判規範性も否定しなければならないはずです。

 ・強行規定もある世界(現実)
  ⇒民法は裁判規範であり行為規範である
 ・意思自治だけの世界(空想)
  ⇒民法は裁判規範でも行為規範でもない(というか適用されない)
 ・???? (隠しボスかよ)
  ⇒民法は裁判規範だが行為規範ではない

 ここで契約債権と書きましたが、同じ民法でも不法行為債権などの「法定債権」は、当事者が望んだから発生するわけではなく一定の事実に基づき発生するものです。
 これは租税債権と全く同じなわけで、意思自治の理屈が妥当するのは契約債権に限られます。

 なお、契約債権にしても、「表示」を重視する学説があるように、効力発生の根拠を表示の一致に求める見解(表示主義)もあります。
 強行規定から運良く逃れられたとしても、必ずしも意思自治を貫徹できるとは限らない。

 ちなみに、表示主義に従って、意思、表示、契約債権、租税債権の関係を記述すると、次のとおりとなります。

  ・表示が一致したら契約債権が発生する
  ・意思に欠缺・瑕疵があっても租税債権も一旦発生する
  ・意思の欠缺・瑕疵を理由とした無効・取消で私法債権が消滅したら更正の請求等で対応

 記述Aの「経済取引等の私法上の効力の有無は、直ちに租税法上の課税要件の存否に影響を及ぼすものでない」というのは、おそらくこういうことを言っているんだと思います(あとは「違法所得」とか)。
 ある種の、税法上の表示主義。

 意思自治弱すぎませんか。
 というか、意思自治は決して「原則」などではなくって、表示責任の「例外」ポジションなんじゃないかと。

【テイルズ・オブ・イシドグマ(TAILS OF ISYDOGMA)】
加賀山茂「求められる改正民法の教え方」(信山社2019)


 ところで、記述Bは、税法で「不確定概念」が許されないことを導くための理由付けとして出てきます(民法学上は「一般条項」というのが一般的だと思いますが、ここでは税法学上の用語にあわせます)。

  民法:意思自治あり⇒行為規範でない⇒不確定概念許される
  税法:意思自治なし⇒行為規範である⇒不確定概念許されない

 でたー、税法アゲるために民法サゲ奴。

【民法サゲ例】
私法の一般法とかいってふんぞり返っているわりに、隙だらけ。〜契約の成立と印紙税法
小林秀之「破産から新民法がみえる」(日本評論社 2018)

 が、民法だって、たとえば、どういう場合に不法行為債権が発生するか、とか、どういう場合に公序良俗違反で契約が無効になるか、とかがいくら不明確でも構わないってことではないですよね。
 それらが明確でなければ、自由に行動することができずに萎縮してしまいます。
 ので、解釈によって頑張って明確化しようとしているわけです。



山本敬三 「公序良俗論の再構成」(有斐閣2000)
大村敦志 「公序良俗と契約正義」(有斐閣1995)

 租税債権(債務)は債務者に対する一方的な不利益だから、というなら、上述のとおり不法行為債権(債務)だって同じです。
 むしろ租税債権のほうが、自らの意思で取引をした結果によるもの、という意味では任意性が高いともいえる。

 民法で「不確定概念」を採用してもいいかどうかについて、空想世界と現実世界とで論理的に導かれる結論は次のとおりとなるはずです。

 ・強行規定もある世界(現実)
  ⇒民法は行為規範でも裁判規範でもある
   ⇒不確定概念があると困るから内容を明確化しよう。

 ・意思自治だけの世界(空想)
  ⇒民法は行為規範でも裁判規範でもない
   ⇒不確定概念があろうがなかろうがそもそも適用されないから関係ない。

 ところが上記理由付けでは、次のような因果となっています。

 ・意思自治だけの世界(空想)
  ⇒民法は行為規範ではないが裁判規範ではある
   ⇒不確定概念は許される

 やはり、民法の裁判規範性を肯定しながら行為規範性を否定するところが謎です。
 もしそのような世界があるとしたら、民法の規定が、

  ・任意規定: すべて意思で上書きできる
  ・強行規定: 極めて抽象的な規定しかない

という構成の場合でしょう。
 が、現実には明確な強行規定(例:未成年者の法律行為は取り消せる)というものが存在しているわけで、このような民法世界は存在しえない。


 ここでやっと、「民法の裁判規範性を肯定しながら行為規範性を否定する」という不可解な見解の尻尾を捕まえられた気がします(動物非配慮)。
 つまり、民法の構成モデルとしては、まず、

  モデルT: 任意規定+強行規定 《○行為規範 ○裁判規範》

という現実モデルがあって、このモデルでは任意規定は意思自治で上書きできるとしても、強行規定が行為規範として機能することになります。

 ならばということで、行為規範を否定するモデルとして、

  モデルU: 任意規定のみ 《×行為規範、×裁判規範》

という空想モデルを想定してみたところ、これでは行為規範性どころか裁判規範性すら否定せざるを得ないことになってしまったわけです。

 そうすると、この中間に答えがありそう、ということで、

  モデルV: 任意規定+強行規定(不確定概念のみ) 《×行為規範 ○裁判規範》

という、現実には想定しえないモデルによるなら、行為規範性を否定しつつ裁判規範性を肯定できることになります。やったね!

 が、こんな非現実的なモデルを前提に立論することに何の意味があるのか、というと、まあないですよね。

 もし仮に、民法がこんなモデルだったとしても、民法学はおそらく、任意規定から一般的法原則を抽出して不確定概念の内容を充填していく、あるいは逆方向で、不確定概念の趣旨を個々の任意規定に反映させる、というように、できるだけ規定を明確化しようと試みるはずです(信義則と契約に関する規定の関係でご想像ください)。
 任意規定と強行規定がお互いに影響を及ぼすことなく単一法典に収まっているなんて状態、ないでしょうね。


 上記では、議論を単純化するため「不確定概念には行為規範性がない」という前提で検討しましたが、厳密にはそうとは限らない。

 たとえば、債務者の持参した代金が1円足りなかったことを理由する解除が信義則に反し許されない、と判断されたとして、これを「不意打ちだ!」と評価するとしたら、その人アレですよね。
 もちろん諸般の事情が諸々あるにしても「そりゃまあそうなるよな」と普通は思うはずです。

 このように不確定概念といえども、当事者の属する社会における「取引秩序」(と名付けておきます)から汲み取って判断することになるでしょうし、むしろ、そうすべきです。

 このへん、民法では不確定概念は許されるが税法では許されない、ということの理由として使えそう。

 すなわち、民法で不確定概念を採用しても、内容を取引秩序から汲み取ることで行為規範性を維持することは可能、他方で税法ではそのような秩序は無いし、あったとしてもそこから汲み取るべきではない、といった感じ。
 あくまで契約債権との対比に限りますが。

 いずれにしても、意思自治を理由に行為規範性がないというのはおかしいし、それを理由に不確定概念が許される、というのもおかしい、というのが私の見立て。


 上述した私法⇒税法の連動の話、何も「借用概念」の場面に限りません。
 普通に、物を売ったら所得税が発生とか、物を貰ったら贈与税が発生というように、民法上の取引をすることが税法上の課税要件となっているわけです。

 のに、「民法は裁判規範でしかないけど税法は行為規範でもあるから明確であるべき」(キリッ)とかいうの、バケツの底が抜けてる感が強い。

 税法自体をどれだけ明確にしてみたところで、民法が「ゆるふわ系要件」だらけだったら、結局どういう場合に課税要件を満たすかがふんわりふわふわになってしまいます(なんか美味しそう)。

 「不明確概念いらんわボケー!」ておもいっきりぶん投げたら、地球一周してきて後頭部に激突した、みたいな劇画状態。


 と、このように、私法債権と異なる「租税債権の特質」というのを抽出しようとしても、行為規範/裁判規範という枠組みでは私法債権との違いを出すことができない。

 どうにかひねり出せるとしたら、「租税債権は一旦発生したら任意に放棄できない」という処分性の問題くらいですかね。
 ただ、これすらも、『租税債権の本来の主体は「国民」であって国は国民から回収権限を付託されているだけ、だから、勝手に処分することはできない』と私法債権のアナロジーで説明することもできるわけであって。

 また、放棄できないといっても、徴収を怠って時効消滅させることによって、事実上の放棄をすること自体は可能っちゃ可能。
 これが地方税なら「住民訴訟」経由で責任追及できるかもしれませんが、国税ではそういった手段すらない。

 そうすると、私法債権全体と比べて、租税債権の特質といえるのは、立法政策上与えられている「執行上の効力」くらいしか残されていないのでは。


 さてつぎに、税法が行為規範かつ裁判規範であるという点について検討したいのですが、ここまで長くなってしまったので、来週に持ち越します。

税法・民法における行為規範と裁判規範(その2)
税法・民法における行為規範と裁判規範(その3)
税法・民法における行為規範と裁判規範(その4)
税法・民法における行為規範と裁判規範(その5)
税法・民法における行為規範と裁判規範(その6)
税法・民法における行為規範と裁判規範(その7)

2019年12月09日

田中二郎「租税法(第3版)」(有斐閣1990)

 誰だよ、「使命を果たし終えた」みたいなこと言ったやつ。
 今まで読む機会を逸したじゃないか。



 田中二郎「租税法 第3版」(有斐閣1990)
 
 確かに「第3編 租税法各論」は、平成元年までの制度の概説どまりで判例の引用も論点の記述もほぼないので、ここを読む意義は残念ながら無いかなあとは思います。

 が、「第1編 序論」と「第2編 租税法総論」はなかなかの読み応え。
 金子宏先生が乗り越えようとした山々がここにある、という感じ(偉そうにすみません)。

 金子宏『租税法 第23版』(弘文堂2019)

 「租税法と私法」という枠組みでいうと、田中先生が租税法志向なのに対して金子先生は私法志向、みたいなコントラストが読み取れたり。


 第3版は1990年出版ですが、田中先生ご自身は新版が出版された1981年の翌年、1982年にはお亡くなりなっています。
 ということで、第3版は大蔵省(当時)職員の方々が税制改正に合わせて手を加えたようです。

 継続的に税制改正を反映してくれるならそういう改訂でも意味があるんでしょう。
 が、第3版一回きりで終わらせたんじゃ意味がない。

 もし田中先生ご自身の筆が入った箇所が減っているなら、むしろマイナスともいえる。
 で、この第3版が最終版としてオンデマンドで出版され続けてしまっている。

 「はしがき」を読むと、すでに初版の段階から大蔵省職員の方々が執筆協力されているようです。
 ので、第3版で本来やるべきだったのは、田中先生が記述されていない箇所を削る作業だったはず。

 学問的意義という意味では、ダウングレードして純度の高い田中租税法大系を残しておいたほうがよかったのに(ジョブズの遺志を残す的なアレ)。

 勝手に想像するに、「第3編 租税法各論」は田中先生がほとんど書かれていない気がします。
 ので、ここを削って『租税法総論』として出版すればいいのに。


 話はちょっと違いますが、能見善久先生が四宮和夫先生の『民法総則』を改訂し続けているにもかかわらず、四宮先生単独執筆の最終版(第4版補正版)をオンデマンドで出版する、という弘文堂の所作を想起してしまいました。



 四宮和夫・能見善久「民法総則(第9版) 」 (弘文堂2018)


 ちなみに、下記記事で引用した「税法は行為規範だが民法は裁判規範にすぎない」という物言い、どうやら田中先生のこの本が出どころのようです。

三木義一ほか「よくわかる税法入門 第13版」(有斐閣2019)

 が、田中先生の時代の民法理解を無批判に現代に持ってくるの、やっぱり説明不足だと思う。

 土地法、労働法、消費者法、競争法などといった規律によって契約の自由が切り崩されている状況で、『それでも契約は自由だ』という原則がどれだけ妥当するものなのか。
 もっというと、税法の規律のせいで契約の自由が事実上制約される場面もあるわけで、民法の純粋な部分だけを取り分けて、契約は自由ということに意味があるのかどうか。

 行為規範/裁判規範の問題については、あらためて整理して記事にします。

【しました】
税法・民法における行為規範と裁判規範(その1)
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2019年12月02日

池田真朗「スタートライン債権法(第7版)」(日本評論社2020)

※2020年に第7版が出るとのこと。
 第6版は債権法改正成立直前の出版ですが、改正法の評価について第7版でどこまで突っ込んで書かれているかは気になります。表現上の手直しくらいにとどめているかもしれませんが。



池田真朗 スタートライン債権法 第7版(日本評論社2020)


 1995年に初版が出版されてから2017年で第6版。
 それだけでも、大変人気のある本だと分かります。

 実際、個々の制度の説明はとてもわかり易い、わかり易い(2回言う)。
 危険負担における「債権者」と「債務者」とか、初学者が躓きやすい箇所をしっかり解説されていたり。

 が、ガチの初学者が一冊目として通読するにはしんどいかな、というのが個人的な感想。

 というのも、本書のカバーする領域は「債権総論」と「債権各論」で、前半各論・後半総論と順序を入れ替えてはいるものの、それぞれの中身自体は民法の条文どおりの並びになっています。
 特に「債権総論」の編成なんてパーツ感が強いので、頭から読んでいくのきついと思う。

 ここまで教育的配慮を尽くしていながら構成は民法の編成どおり、というのはあえてそうしているんだと思います。
 おそらく、どの大学の講義でも使いやすいように独自の組み換えはしない、ということかなあと。

 最初に書いたとおり、個々の制度の説明はとてもわかり易い(3回目)。
 ので、たとえば米倉明先生の「プレップ民法」のような入門書を読みながら、理解できなかった制度をこの本で理解する、といった利用方法がよさそう。

米倉明「プレップ民法(第5版)」(弘文堂2018)


 個人的には「ルール創りの観点から」と題するコラムがとても面白かったです。

 2017年の債権法改正について、(改正法案の段階ですが)かなり批判的な観点から触れられています。
 学者の学理的な関心からの改正になってしまっていて市民にとってわかり易いルールにするための改正になっていない、といった感じの。

 まさしく仰るとおりで、私もこのブログでかなりイジってきたところです。

【債権法改正イジり】
ドキッ!?ドグマだらけの民法改正
時効の中断・停止から時効の完成猶予・更新へ
私法の一般法とかいってふんぞり返っているわりに、隙だらけ。〜契約の成立と印紙税法
どんな子にも親に内緒のコトがある。 〜民法98条の2の謎に迫る(迫れていない)
潮見佳男『新債権総論1(法律学の森)』『新債権総論2(法律学の森)』(信山社 2017)
潮見佳男「基本講義 債権各論1 契約法・事務管理・不当利得」(新世社2017)
後藤巻則「契約法講義」(弘文堂2017)
加賀山茂「求められる改正民法の教え方」(信山社2019)


 初学者が読む入門書、という観点からして気になった箇所をいくつか。

第18課 多数当事者の債権関係(1)

 分割債権・分割債務を同時に記述しようとして、どっちがどっちだよと悩まされる記述になっています(不可分債権・不可分債務も)。
 「債権者」とか「債務者」とかどっちのことをいっているのか、一読して分かりにくい。

 自分の頭で解きほぐすトレーニングなんでしょうか。「売主ら」とか自分で読み替えていく感じの。

 第19課の連帯債務・保証債務では債務者側が複数の場合に記述を絞っているので、同じようにすればいいのに。

第21課 債権譲渡

 譲渡通知が「観念の通知(表示)」か「意思表示」かみたいなことが書いてあるけども、それを論ずる実益が書いていないので、初学者にはなんのことやら分からないと思う。

第22課 債務引受・契約譲渡

 債務引受とか履行引受とか、譲受人・引受人が何のためにわざわざ負担を引き受けるのかが書いていないので、イメージがしにくい。

タグ:入門書 民法
posted by ウロ at 09:35| Comment(0) | 民法