井田良先生の論文集。
井田良 犯罪論の現在と目的的行為論(成文堂1996)
井田先生のご著書は、以前にも教科書等の紹介を記事にしたことがあります。
井田良「入門刑法学・総論」(有斐閣2018)ほか
井田良「講義刑法学・総論 第2版」(有斐閣2018)
井田良「講義刑法学・各論 第2版」(有斐閣2020)
さしあたって、刑法について深く勉強する必要性に迫られているわけではないです。
が、頭のいい人の鮮やかな分析を読んで思考のめぐりをすっきりさせよう、という目的で読んでみました。
【同じノリ】
白石忠志「技術と競争の法的構造」(有斐閣1994)
○
前回までの記事では、「印紙税法総論」を樹立しようという誇大妄想のために脳のリソースを無駄遣いしていました。
【印紙税法総論樹立の道程】
私法の一般法とかいってふんぞり返っているわりに、隙だらけ。〜契約の成立と印紙税法
続・契約の成立と印紙税法(法適用通則法がこちらをみている)
続々・契約の成立と印紙税法(代理法がこちらをみている)
さよなら契約の成立と印紙税法 (結局いつもひとり)
魔界の王子と契約の成立と印紙税法
二段の推定と契約の成立と印紙税法 〜印紙税法における実体法と手続法の交錯
あのもちろん、本気で主張しているのではなく。
こんな畢竟独自の見解をもって、「印紙税法学会に新風を巻き起こしてやる!」などと思っていません。
これは思考をあれこれ巡らしながらアウトプットすることで、実務で難問がでてきたときにも自力で問題を解決できる「税務思考力」を鍛えるのが目的です。
「税務系」の本でそういったゴリゴリの「思考力」を鍛えてくれるものって、なかなか見当たらなくって。良くも悪くもプラグマティック。または高尚な憲法論(あくまで私の観測範囲です)。
税法学でも、確かにこういう面白い本があったりはします。
浅妻章如「ホームラン・ボールを拾って売ったら二回課税されるのか」(中央経済社2020)
が、これは「数理」ベースでの優れた本。
法律の条文が「言語」で構成されている以上、「言語」ベースでの思考力というのが必須になります。
法解釈において「数理」は、基本的に言語の背後でバックボーンとして働かせるものでしょう。
このブログの「思考巡らし系」の記事の中に出てくる思考のヒントが、刑法学や手形法学などといった税法学以外ばかりなのは、そういった事情のせい。
ただし、いまさら手形法学、というか前田説(創造説)の考え方を印紙税法に活用するなどというのは、私個人の極めて特殊な「法癖」(法に関するフェチ)でしょうが。
前田庸「手形法・小切手法入門」(有斐閣 1983)
○
例によって、出版社のサイトやネット書店には「目次」(所収論文)が載っていません。
そういう場合は「国立国会図書館サーチ」や「CiNii Books」などで検索。
国立国会図書館サーチ
CiNii Books
「CiNii Books」の検索結果がこれ。
一応ここにも載せておきます。
・目的的行為論と犯罪論の現在
・過失犯と目的的行為論
・犯罪論体系と構成要件概念
・因果関係の「相当性」に関する一試論
・違法性における結果無価値と行為無価値−いわゆる偶然防衛をめぐって
・故意なき者に対する教唆犯は成立しするか
・火災事故における管理・監督過失
○
当然のことながら、私が中身についてどうこういえるものではないです。
ので、以下はただのド素人の感想。
・目的的行為論と犯罪論の現在
・過失犯と目的的行為論
「学説対立もの」の論文の場合、おなじ土俵に学説をならべて自説の主張と他説への批判を展開していくのが常道かと思います。
が、これら論文では、他説からの批判に対して同レベルで反論するにとどまらず、「そういうお前らだって、知らず知らずのうちに目的的行為論の前提を共有してるぞ」と、他説の中にある、目的的行為論的な側面をえぐり出しています。
いわゆる「釈迦の手のひら論文」ですね。
釈迦如来:目的的行為論
斉天大聖:その他行為論
・犯罪論体系と構成要件概念
もとが法学教室掲載ということで、若干の窮屈感を感じる(文字数的な)。
この論文よりも、本書の他の論文でも参照されている「体系的思考と問題的思考」(法学教室102号(1989))のほうが気になる。
・因果関係の「相当性」に関する一試論
死にかけの「相当因果関係説」をどうにか活かせないかを模索したもの。
相当説の枠内で、判例的な、あるいは客観的帰属の理論的な考慮を取り込めないかと。
残念ながら、この数十年後に「さよなら相当因果関係説」論文がでてフィニッシュ!
刑法における因果関係論をめぐって : 相当因果関係説から危険現実化説へ(慶應法学)
・違法性における結果無価値と行為無価値−いわゆる偶然防衛をめぐって
偶然防衛を題材にしながら、結果無価値論・行為無価値論の再定位を論じたもの。
P.157
「いかなる根拠と基準によって、違法要素のなかで「事前判断の要素」と「事後判断の要素」とを合理的に区別するか」
違法要素の中でも、事前・事後どちらか一方ではなく、事前に判断すべきものと事後で判断すべきものがあって、その適切な使い分けが必要ということですね。
「行為無価値と結果無価値という対概念に「幻惑」されることによって」などということが書いてあったりもします。
確かに、従前の「行為無価値/結果無価値」という軸では違法性の判断をうまく制御できないように思えます。自説を維持するために、互いに大事なものを捨ててしまっているようにも見えますし。
そうすると、論者の怨念がまとわりついた「行為無価値」「結果無価値」という概念自体、もう使わないほうがいいんじゃないですかね。
本来のあるべき機能に即して「事前/事後」という軸で統一してしまえばいいような。
「さよなら行為無価値・結果無価値」論文が求められている(もちろん、一定の役割を果たしたことに対する感謝の気持ちを忘れずに)。
ちなみに、この「使い分け」という発想、印紙税法で課税事項は「文書」で判断、納税義務者は「実体」で判断という印紙税法における「二分論」(畢竟独自の見解)と同様な発想です(我田引水)。
P.162
「そもそも、以前からこれほど見解がいちじるしく対立している論争問題において、いまさら「法感情に反する」という批判をいくら積み重ねても不毛といわなければならない。当然のことながら、クールな理論的分析のみが議論を進展させるのである。」
偶然防衛不可罰説に対する批判への応答。
不毛とか、もうボロクソ。
「法感情に反する」という批判の薄弱さ、この論点にかぎらないことです。
P.169
「主観的要素(とくに、未遂犯における故意)は客観的事実に還元できるのであり、その客観的要素を違法要素として捉え直すべきだともいわれる。しかし、主観的要素を客観的事実に還元できるというのは、主観的要素は(客観的事実たる)状況証拠によって認定されるという訴訟法上の認定の仕方を言い直したものにすぎない。そもそも実体法上の要件とは、まさにそのような状況証拠によって証明されるべき対象を示すものであって、ある事実がそれとは別の客観的事実からの推認によって認定されるからといって、それらの客観的事実そのものが実体法上の要件となるわけではない。」
実体法レベルの要件そのものと、それを訴訟法上何によって認定するかとの混同を諌めるもの。
ただし、この記述でいう未遂犯における故意は、あくまでも危険性判定のためのひとつの「要素」であって、「要件」そのものではないように思います。故意があれば危険性が高まることはあるのでしょうが、他方で故意がなければおよそ可罰的危険性がなくなるわけでもない。
ので、実体法/訴訟法のみならず、要件/要素の区別も大事です。
なお、印紙税法(実体法)と二段の推定(訴訟法)との関係を論じた前回の記事でも、この点を常に意識していないと、危うく混同しそうになるところでした(分けきれていないかも)。
二段の推定と契約の成立と印紙税法 〜印紙税法における実体法と手続法の交錯
○
脱線しますが、未遂犯と故意の関係について思うところ。
(危険判断における故意の位置づけに触れたいだけなので、そもそも危険性をどのように判断するか、という肝心の本体部分は脇においてます。)
A ナタデココで撫でまわしてころそう
⇒いくらそう思ってても危険とはいえないでしょう。
B Aの被害者が致死性のナタデココアレルギーだったら
⇒行為者が知らなくっても危険ではあるでしょう。
C 被害者に銃口を突きつけ引き金に手をかけるが、引き金を引く気はない
⇒つもりはなくってもさすがに危険だよ。
これら例からすると、危険性判断においては、
・行為が危険でないなら、いくら故意があっても危険にはならない。
・行為が相当に危険なら故意を考慮する必要はない。
とすべきではないでしょうか。
行為が中立的でそれだけでは危険性の有無ができない場合に、主観を考慮すればいいと。
ただ、主観を考慮するにしても、必ずしも故意そのものである必要はなく、危険性のある行為を遂行しようとする意思(行為意思)でも足ります。
また、銃器の扱いに慣れている人がそこそこの気分で実行しようとする場合と、ド素人がやる気満々で実行しようとする場合とで、ド素人のほうが危険性が高いということもないでしょう(アブねー奴、という意味では危険ですが)。
ので、危険性判断における主観の位置づけは、あくまでも補助的・付加的な役割にとどまると考えられます。
もちろん、故意がなければ未遂犯は成立しません。
が、正当防衛や共犯などを視野に入れると、危険性判断(違法性)と故意(責任)とは区別しておくのがよいかと。
あるいは、故意概念のほうを、抽象的なころすつもりで足りるとするのではなく、具体的な行為に向けられた意思とすることもありうるでしょうか。
しかしそうすると、Cの場合、危険性のある行為を認識している以上故意ありとなって、うっかり結果を発生させたら故意既遂犯となりかねない。
それはさすがに過失犯だろうという気がします。
○
では、Bで結果が発生した場合はどうか。
「ナタデココ撫で」で人をころそうとする異常な行為が「致死性のナタデココアレルギー持ち」とコラボすることで起きた奇跡。
故意の内容としては、やはり被害者が致死性のナタデココアレルギーであることの認識は要求すべきだと思うのですが、どうでしょう。
自己の行為の具体的な危険性の認識とその危険を実現しようとする意思の両方が必要ではないかと。
因果関係を「危険の現実化」とするなら、故意の内容もそれにあわせて変質させるべきではないかと思うのですが。
それをどのように規範的に根拠付けるか、特に何のアイディアも思い浮かんでいませんけども。
ではってことで、話を巻き戻して危険性判断(違法性)にもそのような認識を必須とすべきでしょうか。
被害者が抵抗することが正当防衛として正当化されないとしたらおかしいです。行為者が無自覚とはいえ、被害者がそれを甘受すべき言われはないわけで。
ので、危険性判断(違法性)レベルでは当該認識は要求すべきでないと。
○
実体法と訴訟法を区別することは大事。
なんですが、そのせいで実体法の教科書の中で事実認定のことがさっぱり触れられないとしたら、それはそれで弊害。
それぞれの陣営から、未遂犯の故意が主観的違法要素になるか否かが論じられているものの、教科書レベルだとそこで終わってしまいます。
が、その先、具体的にどのような要素をもってどのように危険性・故意を判断するのか、といった事実認定・証拠構造のところまでフォローしてほしいところ。
実体法内部で説の優劣を決めることもできるのでしょうが、事実認定レベルで使い物になるか、というのも説の優劣を決めるのに重要な要素になるはずですし(かといって、要件事実論に関する研修所見解への阿り度の高い、民法教科書みたいになるのもどうかとは思いますが)。
と、ここまで書いてきてふと思ったのが、やはり主観面は危険性という要証事実に対する間接事実・間接証拠にすぎないのではないか、という気がしないでもない。
○
さらにいうと、犯罪の実質的要素を「違法性/責任」に二分すること自体、不適切なのではないかと思わないでもない。
どちらにも居場所のない要素を「処罰条件」とかいったり、業務性・常習性などといった要素を無理やり違法性か責任に引きつけて説明したり、あるいは違法性・責任で説明しきれないものを「政策説」で根拠付けたり。
すべての犯罪要素をカバーしきれていないのではないかと。
現状論じられている全ての犯罪要素を
・行為/結果
・人/物
・事前/事後
・主観/客観
・形式/実質
などなどの切り口で分解して、あらためて組み直してみたらどうでしょう(オーバーホール刑法総論)。
たとえば、「正当防衛」にしても、現状では違法性阻却事由の中に押し込められて論じられています。
が、個々の要件ごとに事前判断が必要だったり事後判断が必要だったり、あるいは主観を考慮したり客観のみで判断したり、中身はバラバラなわけです。
バラバラといっても、それぞれの要件はそれぞれの機能を適切に果たすためにそういう考慮をしています。
にもかかわらず、それを「違法性」という一つの概念で説明しきるのは無理があるんじゃないのかと。
犯罪の処罰目的と個々の犯罪要素の間に、「違法性/責任」という中二階的な概念を挟むことで議論がクリアになる、というなら意味のあることでしょう。
が、現状では、むしろ個々の犯罪要素が適切な機能を果たすことの邪魔になっているのではないか、との認識。
今はもうないのかもしれませんが、
・違法性は主観と客観の統一体
・正当防衛は違法性阻却事由
・ので正当防衛には防衛の意思が要求される
みたいな論述。
なにかを論証しているようで何の論証にもなっていない。
違法性という概念を用いずに防衛の意思を根拠づけよ、としたほうが生産性のある議論(この対義語が不毛な議論)ができると思うんですけど(縛りプレイ)。
そもそも、犯罪の実質的要素が違法性と責任で構成されている、という点では見解が一致しているにもかかわらず、その中身で争っているという状態が私にはよく理解できません。
同じ電車の右の車窓を見ている人が「私には山が見えている」といい、左を見ている人が「いやいや山なんか見えない、私には海が見えている」と言って争っているような。
違うところを見ているんだから、当然違うものが見えるでしょうと。
違法性/責任といった立派なワードの取り合いをしている、と理解すればいいんですかね。
あまり詰めても私の能力ではまとめようがないので、このへんにしておきます。
・火災事故における管理・監督過失
あくまでも「個人責任」ベースの現行刑法の枠内で、管理過失・監督過失をどのように組み立てるかを扱ったもの。
私個人の関心事は、「組織犯罪」であることを正面から扱うことはできないか、という点にあるので、すれ違い(極々個人的な事情)。
藤木英雄「公害犯罪」(東京大学出版会1975)
○
以上、ぜひとも読んだほうがいいのですが、そうお気軽に入手できるものではないので、そういう意味ではおすすめし難い(クレイジープライスなのはこのご時世のせいではない)。
こちらなら、まだ手に入りやすいですかね。
井田良 変革の時代における理論刑法学(慶應義塾大学出版会2007)
https://www.keio-up.co.jp/kup/webonly/law/riron/sp.html
2020年05月25日
井田良「犯罪論の現在と目的的行為論」(成文堂1996)
posted by ウロ at 08:40| Comment(0)
| 刑法
2020年05月18日
二段の推定と契約の成立と印紙税法 〜印紙税法における実体法と手続法の交錯
契約の成立と印紙税法の問題に「民事訴訟法」が参戦!
【契約の成立と印紙税法】
私法の一般法とかいってふんぞり返っているわりに、隙だらけ。〜契約の成立と印紙税法
続・契約の成立と印紙税法(法適用通則法がこちらをみている)
続々・契約の成立と印紙税法(代理法がこちらをみている)
さよなら契約の成立と印紙税法 (結局いつもひとり)
魔界の王子と契約の成立と印紙税法
本当は、前回までで終わる気満々だったんです。
というか、続き物系の記事はだいたい毎回そんな感じです。
書いているうちに、勝手につながっていってしまうと。
【続き物系の記事】
税法・民法における行為規範と裁判規範(その1)
非居住者に支払う著作権の使用料と源泉徴収の要否について(その1)
武器としての所得拡大促進税制 〜労働者にとっての。
今回の記事も、前回の記事で「文書の成立の真正」との絡みに何やら怪しい雰囲気を感じ取ってしまったので、掘り下げてみるという趣旨です。
【印紙税法のお相手遍歴】
民法(意思表示理論)
中学生男子
キャッツ・アイ
法の適用に関する通則法(法律行為の成立)
借用概念
民法(代理)
剥き出しの白鳥
アシュラマン
民事訴訟法(文書の成立の真正)←New!
ちなみに、このブログで「民事訴訟法」を題材にしたのは、新堂幸司先生の本の紹介くらい。
独立のカテゴリがまだ存在しない。
※追記:できました。
【民事訴訟法】
新堂幸司『民事訴訟制度の役割』(有斐閣1993)
新堂幸司「新民事訴訟法 第6版」(弘文堂2019) 〜付・民事訴訟法と税理士
どちらかというと実体法に偏っていて、手続法それ自体をネタにすることがほとんどないですね。
「規範分類説」を召喚したこともありますが、これもその基本コンセプトを参照させていただいただけですし。
税法・民法における行為規範と裁判規範(その2)
ちなみに、「刑事訴訟法」についても、下記記事でほんのり出てくるくらい。
団藤重光『法学の基礎』(有斐閣2007)
今回も、あくまで印紙税法嬢のお相手として出てきてもらっただけ。
かぐや姫と求婚男子の関係。
なお、これまで文書か実体か、という議論をしてきたにもかかわらず、印紙税法を「実体法」と呼ぶのは紛らわしいことこのうえない。
が、「手続法」に対するものとしての、なので、そういうものとしてご理解いただければ。
○
まず前提として、民事訴訟法の教科書などで一般的に記述されている「二段の推定」まわりの知識を。
ア でてくる用語
・書証
文書の意味内容を証拠資料とする証拠調べ
・処分証書 (契約書など)
立証命題である意思表示その他の法律行為が記載されている文書
・報告証書 (領収書など))
作成者の見聞、判断、感想等が記載されている文書
・文書の成立の真正
文書が特定の作成者の意思に基づいて作成されたものであること
・形式的証拠力
文書の記載内容が作成者の思想を表現していること
・実質的証拠力
文書の意味内容が事実の証明に役立つ力
(ちなみに、この形式的証拠力と実質的証拠力という用語の使い方、対比しやすいように揃えているんでしょうが、どうにも気持ち悪い。
というのも、前者は思想を表現している/していないという「有りか無しか」なのに対し、後者は「どの程度」役に立つか、という強弱があるものです。
にもかかわらず、同じ「証拠力」という用語で揃えているのがとても気持ち悪い。)
イ 一般的な説明
民事訴訟法 第二百二十八条(文書の成立)
1 文書は、その成立が真正であることを証明しなければならない。
4 私文書は、本人又はその代理人の署名又は押印があるときは、真正に成立したものと推定する。
・文書を書証として用いるためには、文書の成立の真正を証明しなければならない(1項)。
ただ、それ自体を立証するのが難しいことから、推定規定(法定証拠法則)が設けられている(4項)。
・4項は、押印(以下、署名は略します)が名義人の「意思」に基づいてなされた場合にはたらくもの。
これに加えて判例により、印影が名義人の印章であれば、意思に基づき押印されたと推定されることになっている。
・これら推定は経験則に基づくものなので、反証により推定を妨げることができる。
【二段の推定】
T 印影が名義人の印章
↓ 推定1
U 押印は名義人の意思によって行われた
↓ 推定2
V 文書作成は名義人の意思によって行われた
・文書の成立の真正と形式的証拠力は、通常は同じことを意味している。
ただし、「習字目的」で作成された場合などは形式的証拠力を欠く。
・「処分証書」には意思表示が記載されているから、文書の真正が証明されたら「特段の事情」のないかぎり、意思表示の存在を認定できる。
○
この一般的な説明、いかにももっともらしく書いてあるんですけど、いくつかモヤるポイントが。
「習字目的」のくだり、いくつかの教科書に書かれていて、おそらくどこかに最初の元ネタがあるんだと思います。
【元ネタ系】
田中二郎「租税法(第3版)」(有斐閣1990)
それはともかく、「習字目的」云々は、二段の推定のどこに位置づけられるのか。
おそらく、上記Vの先にWが隠されていると思います。
《三段の推定》
T 印影が名義人の印章
↓ 推定1 (判例)
U 押印は名義人の意思によって行われた
↓ 推定2 (法228条4項)
V 文書作成は名義人の意思によって行われた(成立の真正)
↓ 推定3 (隠れ)
W 記載内容は名義人の思想を表現している(形式的証拠力)
このV⇒Wの推定3を妨げるものとして、習字目的が入ります。
文書の「作成」は名義人の意思によるものですが、その「内容」は名義人の思想を表したものではないと。
どの本にも「二段」と書かれている一方で「習字目的」云々も書かれていて、その関係がよく理解できていませんでした。
が、推定が「三段」あると理解すると、収まりがよくなります。
「処分証書」で文書の真正が認められれば意思表示の存在が認定できる、というのも、Vの文書の真正から認定するのではなく、Wの形式的証拠力のほうから認定する、ということですね。
通常はVとWの距離が近いからあえて明示していない、ということかもしれませんが、習字目的云々を書くなら、VとWをちゃんと分離しておいてほしい(2.5段くらいのイメージ?)。
○
このように、Vの先にWが隠れているわけです。
が、はっきりしないのが、文書を訴訟で書証(そしょうでしょしょう)として使ってよいか、という「証拠適格」のレベルでは、VまであればいいのかWまで必要なのか。
(刑事訴訟法的な意味での「証拠能力」の問題はないのでしょうが、民事訴訟法228条1項の条件を満たすか、という意味で「証拠適格」という言葉を使うことにします。)
民事訴訟法228条1項の文言からすれば、Vまでで足りるはずです。
で、成立の真正が認められれば証拠採用できて、あとの形式的証拠力・実質的証拠力の問題は実体審理で判断する、というのが簡明な処理だと思います。
が、一般的な見解がどのように理解しているのかはよく分かりません。
・成立の真正 ←証拠適格
・形式的証拠力 ←?
・実質的証拠力 ←実体審理
○
民事訴訟法内部での説明は一応こういうことになるのですが、「民法」(実体法)との関係はどうか。
次のような事例で考えてみましょう。
【事例】
Aは、起案の練習のつもりで「Bに甲土地を贈与する」旨の契約書を作成し、机の上に置いておいた(Aの押印あり)。これをみた同居人Bは、同書面に自分の署名押印をした。
まず実体法レベルの問題として、表示主義重視の見解からすると、この事例で契約が成立するのかどうか。
前回の記事では、「表示の一致」には二様の見方があると書きましたが、より精密にいうと三様に分けられます。
《表示の一致ありというには》
@ 書面上の表示が一致していればいい
A 「当事者が」その表示をしたことが必要
B 当事者がその表示を「申込み」「承諾」とするつもりだったことが必要
AとBが分岐するのは、事例のように、「表示」をしたこと自体は意思に基づいているものの、それをBに対する「申込み」とするつもりはなかった、という場合があるからです(なんとなく手形法における「交付欠缺」の論点(契約説☓発行説☓創造説)がチラつく)。
これらを事例にあてはめると、
@ ⇒契約成立
A ⇒契約成立
B ⇒契約不成立
となり、@とAは心裡留保なり虚偽表示の検討に入っていくことになります。
表示主義重視の見解が、どれで理解しているのかはよく分かりません。
が、「取引の安全を保護するため成立段階では内心に立ち入らない」という基本コンセプトからすれば、せいぜいAまでで、Bまで要求するのは「意思主義」に片足突っ込んでいる気がします。
仮にBまで要求するにしても、後ろにその意思が「真意」だったかという判断が控えているわけで、意思の切り分けに繊細さが要求されます。
【意思ミルフィーユ構造論】
@ 意思なし
A 「表示」することの意思
B その表示が「申込み」であることの意思
C その申込みが「真意」であることの意思
概念分類としてはこうやって単純に並べて書けばすむ話ですけど、事実認定として人間の内心をこんな精密に切り分けることできるんですかね。
@とAの間に「動機」もあるわけですし。
てっさ(ふぐ刺し)をうすーく切る職人の技術が求められる(ふぐスライサーでやるからいい、とか言わないで)。
気のせいかもしれませんが、またあたらしい「意思ドグマ」が誕生しますか?
【テイルズ・オブ・イシドグマ(TAILS OF ISYDOGMA)】
加賀山茂「求められる改正民法の教え方」(信山社2019)
ドキッ!?ドグマだらけの民法改正
○
さて、この軸足の定まらない民法を前提として、「二段の推定」に戻ってみましょう(上記のとおり実態は「三段」ですが、従前の用語にあわせて平文では「二段」ということにします)。
《三段の推定》(再掲)
T 印影が名義人の印章
↓ 推定1 (判例)
U 押印は名義人の意思によって行われた
↓ 推定2 (法228条4項)
V 文書作成は名義人の意思によって行われた(成立の真正)
↓ 推定3 (隠れ)
W 記載内容は名義人の思想を表現している(形式的証拠力)
《表示の一致とは》(再掲)
@ 書面上の表示が一致していればいい
A 「当事者が」その表示をしたことが必要
B 当事者がその表示を「申込み」「承諾」とするつもりだったことが必要
もちろん、二段の推定は、文書を訴訟で書証(そしょうでしょしょう)として利用できるか、にかかわるものなので、実体法とリンクしている必要はありません。
が、「処分証書」の場合に、特段の事情のないかぎり意思表示の存在の認定までいけるとされているとおり、実体法と無関係ではありません。
で、二段の推定の出口がVではなくWであることからすると、民事訴訟法の側では、表示の一致をBで理解していることになります。
処分証書はWまでいったら意思表示の存在が認定できると言っているので。
V≒A :「作成」が意思に基づく
W≒B :「内容」が意思に基づく
(全く同じかがはっきりしないので「≒」で結んでおきます。)
それゆえ、仮に民法側でAで足りるとするならば、二段の推定もVまででいいってことになります。
Wは、契約が成立した後の「効力要件」に対応すると。
《表示の一致がAの場合》
T→U→V→ 契約の成立認定
《表示の一致がBの場合》
T→U→V→W→ 契約の成立認定
○
ここまでが前座で、満を持して印紙税法の登場(民事訴訟法≒若林、印紙税法≒春日)。
はっきり明示されたものを見かけたことはないものの、印紙税の賦課決定処分の違法性が訴訟になった場合も、民事訴訟法228条の適用はあるってことですよね。
国税通則法114条⇒行政事件訴訟法7条⇒民事訴訟法と戻っていくわけで。
国税通則法 第百十四条(行政事件訴訟法との関係)
国税に関する法律に基づく処分に関する訴訟については、この節及び他の国税に関する法律に別段の定めがあるものを除き、行政事件訴訟法(昭和三十七年法律第百三十九号)その他の一般の行政事件訴訟に関する法律の定めるところによる。
行政事件訴訟法 第七条(この法律に定めがない事項)
行政事件訴訟に関し、この法律に定めがない事項については、民事訴訟の例による。
(ちなみに、不服申立ての場合の「国税通則法⇒行政不服審査法」ルートだと民事訴訟法に到達しないように思うのですが、民事訴訟的な証拠ルールは特に規定されていない、という理解でいいんですか。)
そうだとして、印紙税の訴訟において「二段の推定」はどう働くのか。
○
当然のことながら、課税庁側が「課税文書」と主張する文書が証拠として提出されます。
が、これは「書証」としてなんですかね。
というのも、「文書」を証拠申出するからといって、かならず「書証」になるわけではないからです。
・書証
文書の意味内容を証拠資料とする証拠調べ
書証というのは文書の「意味内容」を証拠とするものです。
印紙税法が文字通りのピュアピュア「文書課税」だとすると、主要事実は文書が存在していること及びそこに記載された文字そのものになります。
そうすると、主要事実を証明するための「直接証拠」として文書を用いるという側面では「検証」にあたるのではないかと。
・検証
事物の性質・形状・状況等を証拠資料とする証拠調べ
もちろん、その文字の「実質的な意義」を解釈するためには、文字の「意味内容」も証拠とする必要がでてきます。
印紙税法基本通達
(課税文書に該当するかどうかの判断)第3条
1 文書が課税文書に該当するかどうかは、文書の全体を一つとして判断するのみでなく、その文書に記載されている個々の内容についても判断するものとし、また、単に文書の名称又は呼称及び形式的な記載文言によることなく、その記載文言の実質的な意義に基づいて判断するものとする。
2 前項における記載文言の実質的な意義の判断は、その文書に記載又は表示されている文言、符号を基として、その文言、符号等を用いることについての関係法律の規定、当事者間における了解、基本契約又は慣習等を加味し、総合的に行うものとする。
そうだとすると、通常の契約関係訴訟とは「証拠構造」が異なることになります。
まず「検証」によって判定対象たる文書そのものを認定する、というか判定対象を特定する方法としては、文書の検証以外の証拠方法は許されないことになるはずです。
そして、「実質的な意義」を判定するのに必要なかぎりで「書証等」を実施すると。
書証「等」というのは、実質的な意義を判定するためなら「人証」などもありうるからです。
【印紙税法訴訟における証拠構造】
判定対象: 検証のみ
実質的な意義: 検証、書証、人証、検証
と、このように通常の契約関係訴訟と比べて書証の位置づけが後ろになります。
実体法側の都合で証拠方法が制限される、ある種の「法定証拠主義」みたいなものですかね、ちょっと違いますが。
○
なお全く関係ないですが、これ、刑事訴訟における「手続二分論」と発想が似ています。
罪責認定手続と量刑手続を分離することで、合理的な判定ができるようになるという、あの。
印紙税法でも、「判定対象を文書外の事情に求めてはならない」というルールを厳守するためには、判定対象の特定手続をそれ以外の手続から切り離すべき、といえるかもしれません。
○
こう書いていて実はよく分かっていないのが、そもそも印紙税法における「主要事実」というのが、何を指すのかということ。
上に書いたとおり、文書の存在と文字面が主要事実になるのは当然です。
では「実質的な意義」といっているものは主要事実なのかどうか。
文字面を解釈するための「間接事実」にすぎないのか。それとも規範的要件における「評価根拠事実/評価障害事実」のようなものなのか。
【実質的な意義の位置づけ】
・間接事実説
文書そのもの 主要事実
実質的な意義 間接事実
・主要事実説
文書そのもの 主要事実
実質的な意義 評価根拠事実/評価障害事実
「印紙税法は文書課税」テーゼからすると、主要事実は文書の存在と文字面だけで、それ以外は間接事実となりそうですが、どうなんでしょう。
○
書証の位置づけがこうだとして、では「二段の推定」は印紙税訴訟においてどのように機能するか。
「表示さえあれば課税」という純粋かつ単純な文書課税テーゼを貫くなら、二段の推定を働かせるまでもなく「検証」だけで課否判定することもできるはずです。
で、文字面だけでは判定できない場合に書証等に入ると。
民事訴訟法上はVまでいけば文書を書証として使えることになります(ただし、証拠適格レベルでWまで必要か、という問題があるのは前述のとおり)。
他方、印紙税法の課否判定において、契約の成立という実体が不要だというならTすら不要です。
それゆえ、書証として証拠採用されたら、自動的に課否判定ができることになります(大は小を兼ねる)。
T〜Vの判断は、民事訴訟法上、証拠採用するのに要求されているからやっているだけで、印紙税法上は無くてもよい。
せいぜい「実質的な意義」を判断するのに必要かもね、程度の事情。
訴訟法が実体法を追い越しちゃっているような。
○
契約関係訴訟では、「処分証書」に形式的証拠力が認められれば意思表示の存在が認定できるとされていました。これはいわば「直列」の関係にあります。
直列:
二段の推定⇒意思表示の認定
他方、印紙税の訴訟では、二段の推定は証拠採否の判断のために使われるだけで、印紙税法上の課否判定はまた別の系列に移ります。
並列:
・二段の推定 ⇒終わり
・課否判定
そもそも、「処分証書/報告証書」という分類自体が、契約関係訴訟が念頭におかれていて、他の訴訟類型のことは考慮されていないように思えます。
ゆえに、二段の推定や処分証書といった概念が、印紙税の訴訟において特別な効力を発揮することは考えにくい。
これは租税訴訟だから特別、なのではなく、これら概念の視野の狭さが原因です。
○
以上は「文書無価値一元論」による説明です。
他方で、私見の「文書・実体無価値二元論」によれば、要件ごとに扱いが異なることになります。
《文書・実体無価値二元論》
1 課税事項: 文書
2 文書作成目的:実体
3 納税義務者: 実体
4 課税標準: 文書
1と4は上述した「一元論」による説明が基本的にあてはまります。
文書の検証からはじまって、必要により書証や人証を行うと。
他方、2と3はそのような限定はないと。
たとえば、納税義務者とされている者が文書作成に関与したことが書面上から認定しようがないとしたら、当該文書は証拠として役にたちません。
この場合は、文書以外の証拠を持ち出す必要があります。
【納税義務者論】
続々・契約の成立と印紙税法(代理法がこちらをみている)
他方で、納税義務者の判定に文書を「書証」として利用する場合には、「二段の推定」との関係が正面から問題となります。
《三段の推定》 民事訴訟法レベル
T 印影が名義人の印章
↓ 推定1 (判例)
U 押印は名義人の意思によって行われた
↓ 推定2 (法228条4項)
V 文書作成は名義人の意思によって行われた(成立の真正)
↓ 推定3 (隠れ)
W 記載内容は名義人の思想を表現している(形式的証拠力)
《納税義務者該当性》 印紙税法レベル
ア その文書の「作成」が意思に基づくか
イ その文書の「内容」が意思に基づくか
比べてみると、「V・ア」と「W・イ」がそれぞれ対応しています。
ので、印紙税法でア説をとるなら、二段の推定でVまでいった段階で、同時に納税義務者該当性が認定できたことになります。
証拠採否のレベルとしてはもちろん実体審理レベルでも、Wまで判断する必要はないということです。
他方、イ説であればWまで行く必要があって、この場合は、通常の契約関係訴訟における処分証書と同じ扱いになります(Wまでいくのが証拠採否レベルなのか実体審理レベルなのか、という問題があるのは前述のとおり)。
ア説というのは、「習字目的」で作成しても納税義務者となることを肯定する見解なわけで、さすがにやりすぎな気がしますが、どうでしょう。
二段の推定と納税義務者論の親和性が高すぎる気がしますが、たまたまであってヤラセではないですからね。
【たまたま説】
ここがヘンだよ所得拡大促進税制 〜委任命令におけるゆらぎとひずみ
他方「文書作成目的」のほうは、そもそもその中身自体がよく分からないということは、すでに検討したとおりです。
【文書作成目的について】
さよなら契約の成立と印紙税法 (結局いつもひとり)
しいていえば、Wが内容的におおむね対応するでしょうか。
少なくとも、Wの先の「真意」までは要求しないでしょうし。
このように、「文書・実体無価値二元論」によると、印紙税法における二段の推定の役割は要件ごとに異なるという結果に。
実体法レベルの違いが手続法にも反映されている、ということですね。
《印紙税法における文書の証拠構造》
零 外形的な表示 ⇒ 課税事項、課税標準
↓
T 印影が名義人の印章
↓ 推定1
U 押印は名義人の意思によって行われた
↓ 推定2
V 文書作成は名義人の意思によって行われた ⇒納税義務者(ア説)
↓ 推定3
W 記載内容は名義人の思想を表現している ⇒納税義務者(イ説)、文書作成目的
↓
X 記載内容は名義人の真意を表現している ←不要?
○
前回までの記事は、いわば「実体印紙税法」の話でした。
今回は、そこに「手続法的視点」を導入したらどうなるか、というお話です。
ガチでやるなら『印紙税賦課決定処分取消請求訴訟における要件事実とその立証』というタイトルで本格展開すべきところ。もちろん、そんな力量はありません。
ちなみに、そのタイトルは以下の書籍のもじり。
坂井芳雄 約束手形金請求訴訟における要件事実とその立証 (法曹会1963)
これは実体法である手形法を、裁判にのっけた場合の主張・立証方法について論じた書籍。
悲しいかな、手形法も印紙税法と同様に、「ペーパーレス化」の波に飲まれて消えゆく運命。
実体法と手続法を一体として学ぶには、箱庭的なコンパクト味があってふさわしいと思うんですけども。
坂井芳雄 手形法小切手法の理解(法曹会1998)
坂井芳雄 裁判手形法(一粒社1988)
さんざん印紙税法を論じていた連載記事が、なぜか「手形法レクイエム」で締め。
【契約の成立と印紙税法】
私法の一般法とかいってふんぞり返っているわりに、隙だらけ。〜契約の成立と印紙税法
続・契約の成立と印紙税法(法適用通則法がこちらをみている)
続々・契約の成立と印紙税法(代理法がこちらをみている)
さよなら契約の成立と印紙税法 (結局いつもひとり)
魔界の王子と契約の成立と印紙税法
本当は、前回までで終わる気満々だったんです。
というか、続き物系の記事はだいたい毎回そんな感じです。
書いているうちに、勝手につながっていってしまうと。
【続き物系の記事】
税法・民法における行為規範と裁判規範(その1)
非居住者に支払う著作権の使用料と源泉徴収の要否について(その1)
武器としての所得拡大促進税制 〜労働者にとっての。
今回の記事も、前回の記事で「文書の成立の真正」との絡みに何やら怪しい雰囲気を感じ取ってしまったので、掘り下げてみるという趣旨です。
【印紙税法のお相手遍歴】
民法(意思表示理論)
中学生男子
キャッツ・アイ
法の適用に関する通則法(法律行為の成立)
借用概念
民法(代理)
剥き出しの白鳥
アシュラマン
民事訴訟法(文書の成立の真正)←New!
ちなみに、このブログで「民事訴訟法」を題材にしたのは、新堂幸司先生の本の紹介くらい。
独立のカテゴリがまだ存在しない。
※追記:できました。
【民事訴訟法】
新堂幸司『民事訴訟制度の役割』(有斐閣1993)
新堂幸司「新民事訴訟法 第6版」(弘文堂2019) 〜付・民事訴訟法と税理士
どちらかというと実体法に偏っていて、手続法それ自体をネタにすることがほとんどないですね。
「規範分類説」を召喚したこともありますが、これもその基本コンセプトを参照させていただいただけですし。
税法・民法における行為規範と裁判規範(その2)
ちなみに、「刑事訴訟法」についても、下記記事でほんのり出てくるくらい。
団藤重光『法学の基礎』(有斐閣2007)
今回も、あくまで印紙税法嬢のお相手として出てきてもらっただけ。
かぐや姫と求婚男子の関係。
なお、これまで文書か実体か、という議論をしてきたにもかかわらず、印紙税法を「実体法」と呼ぶのは紛らわしいことこのうえない。
が、「手続法」に対するものとしての、なので、そういうものとしてご理解いただければ。
○
まず前提として、民事訴訟法の教科書などで一般的に記述されている「二段の推定」まわりの知識を。
ア でてくる用語
・書証
文書の意味内容を証拠資料とする証拠調べ
・処分証書 (契約書など)
立証命題である意思表示その他の法律行為が記載されている文書
・報告証書 (領収書など))
作成者の見聞、判断、感想等が記載されている文書
・文書の成立の真正
文書が特定の作成者の意思に基づいて作成されたものであること
・形式的証拠力
文書の記載内容が作成者の思想を表現していること
・実質的証拠力
文書の意味内容が事実の証明に役立つ力
(ちなみに、この形式的証拠力と実質的証拠力という用語の使い方、対比しやすいように揃えているんでしょうが、どうにも気持ち悪い。
というのも、前者は思想を表現している/していないという「有りか無しか」なのに対し、後者は「どの程度」役に立つか、という強弱があるものです。
にもかかわらず、同じ「証拠力」という用語で揃えているのがとても気持ち悪い。)
イ 一般的な説明
民事訴訟法 第二百二十八条(文書の成立)
1 文書は、その成立が真正であることを証明しなければならない。
4 私文書は、本人又はその代理人の署名又は押印があるときは、真正に成立したものと推定する。
・文書を書証として用いるためには、文書の成立の真正を証明しなければならない(1項)。
ただ、それ自体を立証するのが難しいことから、推定規定(法定証拠法則)が設けられている(4項)。
・4項は、押印(以下、署名は略します)が名義人の「意思」に基づいてなされた場合にはたらくもの。
これに加えて判例により、印影が名義人の印章であれば、意思に基づき押印されたと推定されることになっている。
・これら推定は経験則に基づくものなので、反証により推定を妨げることができる。
【二段の推定】
T 印影が名義人の印章
↓ 推定1
U 押印は名義人の意思によって行われた
↓ 推定2
V 文書作成は名義人の意思によって行われた
・文書の成立の真正と形式的証拠力は、通常は同じことを意味している。
ただし、「習字目的」で作成された場合などは形式的証拠力を欠く。
・「処分証書」には意思表示が記載されているから、文書の真正が証明されたら「特段の事情」のないかぎり、意思表示の存在を認定できる。
○
この一般的な説明、いかにももっともらしく書いてあるんですけど、いくつかモヤるポイントが。
「習字目的」のくだり、いくつかの教科書に書かれていて、おそらくどこかに最初の元ネタがあるんだと思います。
【元ネタ系】
田中二郎「租税法(第3版)」(有斐閣1990)
それはともかく、「習字目的」云々は、二段の推定のどこに位置づけられるのか。
おそらく、上記Vの先にWが隠されていると思います。
《三段の推定》
T 印影が名義人の印章
↓ 推定1 (判例)
U 押印は名義人の意思によって行われた
↓ 推定2 (法228条4項)
V 文書作成は名義人の意思によって行われた(成立の真正)
↓ 推定3 (隠れ)
W 記載内容は名義人の思想を表現している(形式的証拠力)
このV⇒Wの推定3を妨げるものとして、習字目的が入ります。
文書の「作成」は名義人の意思によるものですが、その「内容」は名義人の思想を表したものではないと。
どの本にも「二段」と書かれている一方で「習字目的」云々も書かれていて、その関係がよく理解できていませんでした。
が、推定が「三段」あると理解すると、収まりがよくなります。
「処分証書」で文書の真正が認められれば意思表示の存在が認定できる、というのも、Vの文書の真正から認定するのではなく、Wの形式的証拠力のほうから認定する、ということですね。
通常はVとWの距離が近いからあえて明示していない、ということかもしれませんが、習字目的云々を書くなら、VとWをちゃんと分離しておいてほしい(2.5段くらいのイメージ?)。
○
このように、Vの先にWが隠れているわけです。
が、はっきりしないのが、文書を訴訟で書証(そしょうでしょしょう)として使ってよいか、という「証拠適格」のレベルでは、VまであればいいのかWまで必要なのか。
(刑事訴訟法的な意味での「証拠能力」の問題はないのでしょうが、民事訴訟法228条1項の条件を満たすか、という意味で「証拠適格」という言葉を使うことにします。)
民事訴訟法228条1項の文言からすれば、Vまでで足りるはずです。
で、成立の真正が認められれば証拠採用できて、あとの形式的証拠力・実質的証拠力の問題は実体審理で判断する、というのが簡明な処理だと思います。
が、一般的な見解がどのように理解しているのかはよく分かりません。
・成立の真正 ←証拠適格
・形式的証拠力 ←?
・実質的証拠力 ←実体審理
○
民事訴訟法内部での説明は一応こういうことになるのですが、「民法」(実体法)との関係はどうか。
次のような事例で考えてみましょう。
【事例】
Aは、起案の練習のつもりで「Bに甲土地を贈与する」旨の契約書を作成し、机の上に置いておいた(Aの押印あり)。これをみた同居人Bは、同書面に自分の署名押印をした。
まず実体法レベルの問題として、表示主義重視の見解からすると、この事例で契約が成立するのかどうか。
前回の記事では、「表示の一致」には二様の見方があると書きましたが、より精密にいうと三様に分けられます。
《表示の一致ありというには》
@ 書面上の表示が一致していればいい
A 「当事者が」その表示をしたことが必要
B 当事者がその表示を「申込み」「承諾」とするつもりだったことが必要
AとBが分岐するのは、事例のように、「表示」をしたこと自体は意思に基づいているものの、それをBに対する「申込み」とするつもりはなかった、という場合があるからです(なんとなく手形法における「交付欠缺」の論点(契約説☓発行説☓創造説)がチラつく)。
これらを事例にあてはめると、
@ ⇒契約成立
A ⇒契約成立
B ⇒契約不成立
となり、@とAは心裡留保なり虚偽表示の検討に入っていくことになります。
表示主義重視の見解が、どれで理解しているのかはよく分かりません。
が、「取引の安全を保護するため成立段階では内心に立ち入らない」という基本コンセプトからすれば、せいぜいAまでで、Bまで要求するのは「意思主義」に片足突っ込んでいる気がします。
仮にBまで要求するにしても、後ろにその意思が「真意」だったかという判断が控えているわけで、意思の切り分けに繊細さが要求されます。
【意思ミルフィーユ構造論】
@ 意思なし
A 「表示」することの意思
B その表示が「申込み」であることの意思
C その申込みが「真意」であることの意思
概念分類としてはこうやって単純に並べて書けばすむ話ですけど、事実認定として人間の内心をこんな精密に切り分けることできるんですかね。
@とAの間に「動機」もあるわけですし。
てっさ(ふぐ刺し)をうすーく切る職人の技術が求められる(ふぐスライサーでやるからいい、とか言わないで)。
気のせいかもしれませんが、またあたらしい「意思ドグマ」が誕生しますか?
【テイルズ・オブ・イシドグマ(TAILS OF ISYDOGMA)】
加賀山茂「求められる改正民法の教え方」(信山社2019)
ドキッ!?ドグマだらけの民法改正
○
さて、この軸足の定まらない民法を前提として、「二段の推定」に戻ってみましょう(上記のとおり実態は「三段」ですが、従前の用語にあわせて平文では「二段」ということにします)。
《三段の推定》(再掲)
T 印影が名義人の印章
↓ 推定1 (判例)
U 押印は名義人の意思によって行われた
↓ 推定2 (法228条4項)
V 文書作成は名義人の意思によって行われた(成立の真正)
↓ 推定3 (隠れ)
W 記載内容は名義人の思想を表現している(形式的証拠力)
《表示の一致とは》(再掲)
@ 書面上の表示が一致していればいい
A 「当事者が」その表示をしたことが必要
B 当事者がその表示を「申込み」「承諾」とするつもりだったことが必要
もちろん、二段の推定は、文書を訴訟で書証(そしょうでしょしょう)として利用できるか、にかかわるものなので、実体法とリンクしている必要はありません。
が、「処分証書」の場合に、特段の事情のないかぎり意思表示の存在の認定までいけるとされているとおり、実体法と無関係ではありません。
で、二段の推定の出口がVではなくWであることからすると、民事訴訟法の側では、表示の一致をBで理解していることになります。
処分証書はWまでいったら意思表示の存在が認定できると言っているので。
V≒A :「作成」が意思に基づく
W≒B :「内容」が意思に基づく
(全く同じかがはっきりしないので「≒」で結んでおきます。)
それゆえ、仮に民法側でAで足りるとするならば、二段の推定もVまででいいってことになります。
Wは、契約が成立した後の「効力要件」に対応すると。
《表示の一致がAの場合》
T→U→V→ 契約の成立認定
《表示の一致がBの場合》
T→U→V→W→ 契約の成立認定
○
ここまでが前座で、満を持して印紙税法の登場(民事訴訟法≒若林、印紙税法≒春日)。
はっきり明示されたものを見かけたことはないものの、印紙税の賦課決定処分の違法性が訴訟になった場合も、民事訴訟法228条の適用はあるってことですよね。
国税通則法114条⇒行政事件訴訟法7条⇒民事訴訟法と戻っていくわけで。
国税通則法 第百十四条(行政事件訴訟法との関係)
国税に関する法律に基づく処分に関する訴訟については、この節及び他の国税に関する法律に別段の定めがあるものを除き、行政事件訴訟法(昭和三十七年法律第百三十九号)その他の一般の行政事件訴訟に関する法律の定めるところによる。
行政事件訴訟法 第七条(この法律に定めがない事項)
行政事件訴訟に関し、この法律に定めがない事項については、民事訴訟の例による。
(ちなみに、不服申立ての場合の「国税通則法⇒行政不服審査法」ルートだと民事訴訟法に到達しないように思うのですが、民事訴訟的な証拠ルールは特に規定されていない、という理解でいいんですか。)
そうだとして、印紙税の訴訟において「二段の推定」はどう働くのか。
○
当然のことながら、課税庁側が「課税文書」と主張する文書が証拠として提出されます。
が、これは「書証」としてなんですかね。
というのも、「文書」を証拠申出するからといって、かならず「書証」になるわけではないからです。
・書証
文書の意味内容を証拠資料とする証拠調べ
書証というのは文書の「意味内容」を証拠とするものです。
印紙税法が文字通りのピュアピュア「文書課税」だとすると、主要事実は文書が存在していること及びそこに記載された文字そのものになります。
そうすると、主要事実を証明するための「直接証拠」として文書を用いるという側面では「検証」にあたるのではないかと。
・検証
事物の性質・形状・状況等を証拠資料とする証拠調べ
もちろん、その文字の「実質的な意義」を解釈するためには、文字の「意味内容」も証拠とする必要がでてきます。
印紙税法基本通達
(課税文書に該当するかどうかの判断)第3条
1 文書が課税文書に該当するかどうかは、文書の全体を一つとして判断するのみでなく、その文書に記載されている個々の内容についても判断するものとし、また、単に文書の名称又は呼称及び形式的な記載文言によることなく、その記載文言の実質的な意義に基づいて判断するものとする。
2 前項における記載文言の実質的な意義の判断は、その文書に記載又は表示されている文言、符号を基として、その文言、符号等を用いることについての関係法律の規定、当事者間における了解、基本契約又は慣習等を加味し、総合的に行うものとする。
そうだとすると、通常の契約関係訴訟とは「証拠構造」が異なることになります。
まず「検証」によって判定対象たる文書そのものを認定する、というか判定対象を特定する方法としては、文書の検証以外の証拠方法は許されないことになるはずです。
そして、「実質的な意義」を判定するのに必要なかぎりで「書証等」を実施すると。
書証「等」というのは、実質的な意義を判定するためなら「人証」などもありうるからです。
【印紙税法訴訟における証拠構造】
判定対象: 検証のみ
実質的な意義: 検証、書証、人証、検証
と、このように通常の契約関係訴訟と比べて書証の位置づけが後ろになります。
実体法側の都合で証拠方法が制限される、ある種の「法定証拠主義」みたいなものですかね、ちょっと違いますが。
○
なお全く関係ないですが、これ、刑事訴訟における「手続二分論」と発想が似ています。
罪責認定手続と量刑手続を分離することで、合理的な判定ができるようになるという、あの。
印紙税法でも、「判定対象を文書外の事情に求めてはならない」というルールを厳守するためには、判定対象の特定手続をそれ以外の手続から切り離すべき、といえるかもしれません。
○
こう書いていて実はよく分かっていないのが、そもそも印紙税法における「主要事実」というのが、何を指すのかということ。
上に書いたとおり、文書の存在と文字面が主要事実になるのは当然です。
では「実質的な意義」といっているものは主要事実なのかどうか。
文字面を解釈するための「間接事実」にすぎないのか。それとも規範的要件における「評価根拠事実/評価障害事実」のようなものなのか。
【実質的な意義の位置づけ】
・間接事実説
文書そのもの 主要事実
実質的な意義 間接事実
・主要事実説
文書そのもの 主要事実
実質的な意義 評価根拠事実/評価障害事実
「印紙税法は文書課税」テーゼからすると、主要事実は文書の存在と文字面だけで、それ以外は間接事実となりそうですが、どうなんでしょう。
○
書証の位置づけがこうだとして、では「二段の推定」は印紙税訴訟においてどのように機能するか。
「表示さえあれば課税」という純粋かつ単純な文書課税テーゼを貫くなら、二段の推定を働かせるまでもなく「検証」だけで課否判定することもできるはずです。
で、文字面だけでは判定できない場合に書証等に入ると。
民事訴訟法上はVまでいけば文書を書証として使えることになります(ただし、証拠適格レベルでWまで必要か、という問題があるのは前述のとおり)。
他方、印紙税法の課否判定において、契約の成立という実体が不要だというならTすら不要です。
それゆえ、書証として証拠採用されたら、自動的に課否判定ができることになります(大は小を兼ねる)。
T〜Vの判断は、民事訴訟法上、証拠採用するのに要求されているからやっているだけで、印紙税法上は無くてもよい。
せいぜい「実質的な意義」を判断するのに必要かもね、程度の事情。
訴訟法が実体法を追い越しちゃっているような。
○
契約関係訴訟では、「処分証書」に形式的証拠力が認められれば意思表示の存在が認定できるとされていました。これはいわば「直列」の関係にあります。
直列:
二段の推定⇒意思表示の認定
他方、印紙税の訴訟では、二段の推定は証拠採否の判断のために使われるだけで、印紙税法上の課否判定はまた別の系列に移ります。
並列:
・二段の推定 ⇒終わり
・課否判定
そもそも、「処分証書/報告証書」という分類自体が、契約関係訴訟が念頭におかれていて、他の訴訟類型のことは考慮されていないように思えます。
ゆえに、二段の推定や処分証書といった概念が、印紙税の訴訟において特別な効力を発揮することは考えにくい。
これは租税訴訟だから特別、なのではなく、これら概念の視野の狭さが原因です。
○
以上は「文書無価値一元論」による説明です。
他方で、私見の「文書・実体無価値二元論」によれば、要件ごとに扱いが異なることになります。
《文書・実体無価値二元論》
1 課税事項: 文書
2 文書作成目的:実体
3 納税義務者: 実体
4 課税標準: 文書
1と4は上述した「一元論」による説明が基本的にあてはまります。
文書の検証からはじまって、必要により書証や人証を行うと。
他方、2と3はそのような限定はないと。
たとえば、納税義務者とされている者が文書作成に関与したことが書面上から認定しようがないとしたら、当該文書は証拠として役にたちません。
この場合は、文書以外の証拠を持ち出す必要があります。
【納税義務者論】
続々・契約の成立と印紙税法(代理法がこちらをみている)
他方で、納税義務者の判定に文書を「書証」として利用する場合には、「二段の推定」との関係が正面から問題となります。
《三段の推定》 民事訴訟法レベル
T 印影が名義人の印章
↓ 推定1 (判例)
U 押印は名義人の意思によって行われた
↓ 推定2 (法228条4項)
V 文書作成は名義人の意思によって行われた(成立の真正)
↓ 推定3 (隠れ)
W 記載内容は名義人の思想を表現している(形式的証拠力)
《納税義務者該当性》 印紙税法レベル
ア その文書の「作成」が意思に基づくか
イ その文書の「内容」が意思に基づくか
比べてみると、「V・ア」と「W・イ」がそれぞれ対応しています。
ので、印紙税法でア説をとるなら、二段の推定でVまでいった段階で、同時に納税義務者該当性が認定できたことになります。
証拠採否のレベルとしてはもちろん実体審理レベルでも、Wまで判断する必要はないということです。
他方、イ説であればWまで行く必要があって、この場合は、通常の契約関係訴訟における処分証書と同じ扱いになります(Wまでいくのが証拠採否レベルなのか実体審理レベルなのか、という問題があるのは前述のとおり)。
ア説というのは、「習字目的」で作成しても納税義務者となることを肯定する見解なわけで、さすがにやりすぎな気がしますが、どうでしょう。
二段の推定と納税義務者論の親和性が高すぎる気がしますが、たまたまであってヤラセではないですからね。
【たまたま説】
ここがヘンだよ所得拡大促進税制 〜委任命令におけるゆらぎとひずみ
他方「文書作成目的」のほうは、そもそもその中身自体がよく分からないということは、すでに検討したとおりです。
【文書作成目的について】
さよなら契約の成立と印紙税法 (結局いつもひとり)
しいていえば、Wが内容的におおむね対応するでしょうか。
少なくとも、Wの先の「真意」までは要求しないでしょうし。
このように、「文書・実体無価値二元論」によると、印紙税法における二段の推定の役割は要件ごとに異なるという結果に。
実体法レベルの違いが手続法にも反映されている、ということですね。
《印紙税法における文書の証拠構造》
零 外形的な表示 ⇒ 課税事項、課税標準
↓
T 印影が名義人の印章
↓ 推定1
U 押印は名義人の意思によって行われた
↓ 推定2
V 文書作成は名義人の意思によって行われた ⇒納税義務者(ア説)
↓ 推定3
W 記載内容は名義人の思想を表現している ⇒納税義務者(イ説)、文書作成目的
↓
X 記載内容は名義人の真意を表現している ←不要?
○
前回までの記事は、いわば「実体印紙税法」の話でした。
今回は、そこに「手続法的視点」を導入したらどうなるか、というお話です。
ガチでやるなら『印紙税賦課決定処分取消請求訴訟における要件事実とその立証』というタイトルで本格展開すべきところ。もちろん、そんな力量はありません。
ちなみに、そのタイトルは以下の書籍のもじり。
坂井芳雄 約束手形金請求訴訟における要件事実とその立証 (法曹会1963)
これは実体法である手形法を、裁判にのっけた場合の主張・立証方法について論じた書籍。
悲しいかな、手形法も印紙税法と同様に、「ペーパーレス化」の波に飲まれて消えゆく運命。
実体法と手続法を一体として学ぶには、箱庭的なコンパクト味があってふさわしいと思うんですけども。
坂井芳雄 手形法小切手法の理解(法曹会1998)
坂井芳雄 裁判手形法(一粒社1988)
さんざん印紙税法を論じていた連載記事が、なぜか「手形法レクイエム」で締め。
posted by ウロ at 09:53| Comment(0)
| 印紙税法
2020年05月11日
魔界の王子と契約の成立と印紙税法 〜印紙税法総論・爆誕!
前回記事で述べた、印紙税法が民法と勝手にくっつこうとしている箇所。
【契約の成立と印紙税法シリーズ】
私法の一般法とかいってふんぞり返っているわりに、隙だらけ。〜契約の成立と印紙税法
続・契約の成立と印紙税法(法適用通則法がこちらをみている)
続々・契約の成立と印紙税法(代理法がこちらをみている)
さよなら契約の成立と印紙税法 (結局いつもひとり)
ここです。
(引用ここから)
事例1:《実体》なし
ア 文書:代金1000万円の不動産売買契約書
イ 文書:代金8000万円の不動産売買契約書
※そもそもこの事例、民法上、実体なしとして契約は「成立」しないのか、それとも、表示通りの契約が「成立」した上で「効力」が実体にあわせて調整されるのか、という問題があります。
なんですが、これをやりだすと前々回に論じた「効力要件」問題が再燃してしまいます(要するに、同じようなことをいろんな角度から検討しているだけなので、混線する)。
ので、ここでは契約不成立前提で話をすすめます。
事例2:《実体》代金5000万円の不動産売買契約
ウ 文書:代金1000万円の不動産売買契約書
エ 文書:代金8000万円の不動産売買契約書
※こちらも事例1同様、民法上、実体通りの金額で「成立」するのか、それとも、文書通りの金額で「成立」した上で「効力」が実体にあわせて調整されるのか、という問題があります。
が、ここでは実体通りの金額で成立した前提で話をすすめます。
(引用ここまで)
この記述の「※」のところ。
例によって、話が拡散するのを防ぐため、ルートの分岐を塞いだわけです。
が、この道筋をたどっていったらなんか繋がりそうな気がした、ので、おっかなびっくり進んでみます。
○
前回記事では、事例1を「実体なし」と決め打ちしました。
が、アにしてもイにしても、申込と承諾が一致したかのように見える契約書(物理)が存在しています。
ということはですよ、「表示主義」重視の民法通説からすると、この場合も表示の一致ありで契約は「成立」している、てことで実体「あり」になる可能性があるんですよね。
「可能性」と控えめなのは、表示の一致といっても、ただ表示が一致した契約書が存在してさえいればいいのか、それとも、そういう書面を作成したという行為は必要なのか、という問題があるからです。
《表示の一致とは》
ア 書面上の表示が一致していればいい
イ 当事者がその表示行為をしたことが必要
と、理解が二様に分かれるわけです。
通説的には、イであってアとかあり得ないから、というつもりなんでしょう。
が、署名・押印から文書の真正な成立が推定されるという「事実認定」レベルの話まで考慮に入れると、アとイは事実上ほぼ重なり合う(ここは次回掘り下げます)。
民事訴訟法 第二百二十八条(文書の成立)
1 文書は、その成立が真正であることを証明しなければならない。
4 私文書は、本人又はその代理人の署名又は押印があるときは、真正に成立したものと推定する。
で、アだとしたら出会って秒で結婚、イでもいきなり同棲レベルかと。
あの、「文書!文書!」しか言わないと思われたコミュ障印紙税法が、まさかのね。
【性格の超一致】
民法: 書面上の表示が一致していれば契約成立
印紙税法:書面に書いてあれば課税
良いように喩えましたが(ただし人による)、我々納税者からしたら「悪魔合体」よ。
契約書がある以上、実体なしとなる余地がほとんどないというのだから。
○
事例2にしても、実体が5000万円だとしていますが、表示が1000万円や8000万円だってことは、5000万円は内心の意思にすぎないわけです。
そうすると、表示通りの金額で契約は「成立」し、あとは「効力」の問題となると。
とすると、こちらでも、
【前世でも一緒だったかも】 (※キモい)
民法: 表示通りの金額で契約成立
印紙税法:表示通りの金額で課税
となって、2人のズレが消失します。
ふたりはプリキュア(後日テコ入れで増員) 〜グループ法人税制のおさらい〜
民法の実体的側面に対しては「生理的に無理」とか言っていた印紙税法が、表示的側面を見せた途端なびき出すと。
露骨!
アシュラマンだって、すべての顔を愛してほしいはずだぜ。
○
ここまで、印紙税法を支配している「文書課税」に対抗する、実体陣営からの、protest・resistを繰り広げてきました。
この陣取り合戦について、私自身の戦績評価は次のとおり。
1 課税事項: 文書
2 文書作成目的:実体(−)
3 納税義務者: 実体(+)
4 課税標準: 文書
まずは、戦線を分断したこと自体が一つの戦績かと思います。
印紙税法上のすべての要件を、文言のみで判断することはできないと。
そして、2と3は実体陣営が奪還できたはず、との自己評価。
3は文書課税の理不尽さを強めにアピールできたはずなので実体プラス、2はそこまで積極的な展開ができていない気がするので実体マイナスとなっています。
1と4はどうにも突き崩せず。
ここは、実体陣営の味方になるうる存在だと思っていた民法が、文書課税と馴れ合っていたのが敗因。
○
以上、本連載でやろうとしたことは、「文書課税」一本でやってきた総論不在の印紙税法において、「印紙税法総論」を打ち立てることでした(壮大な誇大妄想)。
なお、下記の記事が「印紙税法各論」に該当します。
【印紙税法各論】
森田宏樹『契約責任の帰責構造』(有斐閣2002) 〜印紙税法における「結果債務・手段債務論」の活用
Janusの委任 〜成果報酬型委任と印紙税法
そして私の夢は、印紙税法学者の皆さんが、文書無価値一元論と文書・実体無価値二元論の陣営に分かれて喧々諤々の議論を戦わせる、というものです。
その議論の土俵も、課税事項論、文書作成目的論、納税義務者論、課税標準論、手続論などに細分化され、それぞれの分野の専門家が現れると。
この、ペーパーレス時代にそぐわない妄想。
産まれる前から死が約束されている。
【契約の成立と印紙税法シリーズ】
私法の一般法とかいってふんぞり返っているわりに、隙だらけ。〜契約の成立と印紙税法
続・契約の成立と印紙税法(法適用通則法がこちらをみている)
続々・契約の成立と印紙税法(代理法がこちらをみている)
さよなら契約の成立と印紙税法 (結局いつもひとり)
ここです。
(引用ここから)
事例1:《実体》なし
ア 文書:代金1000万円の不動産売買契約書
イ 文書:代金8000万円の不動産売買契約書
※そもそもこの事例、民法上、実体なしとして契約は「成立」しないのか、それとも、表示通りの契約が「成立」した上で「効力」が実体にあわせて調整されるのか、という問題があります。
なんですが、これをやりだすと前々回に論じた「効力要件」問題が再燃してしまいます(要するに、同じようなことをいろんな角度から検討しているだけなので、混線する)。
ので、ここでは契約不成立前提で話をすすめます。
事例2:《実体》代金5000万円の不動産売買契約
ウ 文書:代金1000万円の不動産売買契約書
エ 文書:代金8000万円の不動産売買契約書
※こちらも事例1同様、民法上、実体通りの金額で「成立」するのか、それとも、文書通りの金額で「成立」した上で「効力」が実体にあわせて調整されるのか、という問題があります。
が、ここでは実体通りの金額で成立した前提で話をすすめます。
(引用ここまで)
この記述の「※」のところ。
例によって、話が拡散するのを防ぐため、ルートの分岐を塞いだわけです。
が、この道筋をたどっていったらなんか繋がりそうな気がした、ので、おっかなびっくり進んでみます。
○
前回記事では、事例1を「実体なし」と決め打ちしました。
が、アにしてもイにしても、申込と承諾が一致したかのように見える契約書(物理)が存在しています。
ということはですよ、「表示主義」重視の民法通説からすると、この場合も表示の一致ありで契約は「成立」している、てことで実体「あり」になる可能性があるんですよね。
「可能性」と控えめなのは、表示の一致といっても、ただ表示が一致した契約書が存在してさえいればいいのか、それとも、そういう書面を作成したという行為は必要なのか、という問題があるからです。
《表示の一致とは》
ア 書面上の表示が一致していればいい
イ 当事者がその表示行為をしたことが必要
と、理解が二様に分かれるわけです。
通説的には、イであってアとかあり得ないから、というつもりなんでしょう。
が、署名・押印から文書の真正な成立が推定されるという「事実認定」レベルの話まで考慮に入れると、アとイは事実上ほぼ重なり合う(ここは次回掘り下げます)。
民事訴訟法 第二百二十八条(文書の成立)
1 文書は、その成立が真正であることを証明しなければならない。
4 私文書は、本人又はその代理人の署名又は押印があるときは、真正に成立したものと推定する。
で、アだとしたら出会って秒で結婚、イでもいきなり同棲レベルかと。
あの、「文書!文書!」しか言わないと思われたコミュ障印紙税法が、まさかのね。
【性格の超一致】
民法: 書面上の表示が一致していれば契約成立
印紙税法:書面に書いてあれば課税
良いように喩えましたが(ただし人による)、我々納税者からしたら「悪魔合体」よ。
契約書がある以上、実体なしとなる余地がほとんどないというのだから。
○
事例2にしても、実体が5000万円だとしていますが、表示が1000万円や8000万円だってことは、5000万円は内心の意思にすぎないわけです。
そうすると、表示通りの金額で契約は「成立」し、あとは「効力」の問題となると。
とすると、こちらでも、
【前世でも一緒だったかも】 (※キモい)
民法: 表示通りの金額で契約成立
印紙税法:表示通りの金額で課税
となって、2人のズレが消失します。
ふたりはプリキュア(後日テコ入れで増員) 〜グループ法人税制のおさらい〜
民法の実体的側面に対しては「生理的に無理」とか言っていた印紙税法が、表示的側面を見せた途端なびき出すと。
露骨!
アシュラマンだって、すべての顔を愛してほしいはずだぜ。
○
ここまで、印紙税法を支配している「文書課税」に対抗する、実体陣営からの、protest・resistを繰り広げてきました。
この陣取り合戦について、私自身の戦績評価は次のとおり。
1 課税事項: 文書
2 文書作成目的:実体(−)
3 納税義務者: 実体(+)
4 課税標準: 文書
まずは、戦線を分断したこと自体が一つの戦績かと思います。
印紙税法上のすべての要件を、文言のみで判断することはできないと。
そして、2と3は実体陣営が奪還できたはず、との自己評価。
3は文書課税の理不尽さを強めにアピールできたはずなので実体プラス、2はそこまで積極的な展開ができていない気がするので実体マイナスとなっています。
1と4はどうにも突き崩せず。
ここは、実体陣営の味方になるうる存在だと思っていた民法が、文書課税と馴れ合っていたのが敗因。
○
以上、本連載でやろうとしたことは、「文書課税」一本でやってきた総論不在の印紙税法において、「印紙税法総論」を打ち立てることでした(壮大な誇大妄想)。
なお、下記の記事が「印紙税法各論」に該当します。
【印紙税法各論】
森田宏樹『契約責任の帰責構造』(有斐閣2002) 〜印紙税法における「結果債務・手段債務論」の活用
Janusの委任 〜成果報酬型委任と印紙税法
そして私の夢は、印紙税法学者の皆さんが、文書無価値一元論と文書・実体無価値二元論の陣営に分かれて喧々諤々の議論を戦わせる、というものです。
その議論の土俵も、課税事項論、文書作成目的論、納税義務者論、課税標準論、手続論などに細分化され、それぞれの分野の専門家が現れると。
この、ペーパーレス時代にそぐわない妄想。
産まれる前から死が約束されている。
posted by ウロ at 09:29| Comment(0)
| 印紙税法
2020年05月04日
さよなら契約の成立と印紙税法 (結局いつもひとり)
前回、印紙税法側にもう一回転ネジを回す、といいました。
が、そこにまっすぐに向かう前に、いくつか露払いをします。
【印紙税法学・樹立の道程】
私法の一般法とかいってふんぞり返っているわりに、隙だらけ。〜契約の成立と印紙税法
続・契約の成立と印紙税法(法適用通則法がこちらをみている)
続々・契約の成立と印紙税法(代理法がこちらをみている)
○
一般的に、契約書という形式ではなく、受注書や請書など承諾事実を証明する目的で作成される文書も「課税文書」だとされています(以下、申込側の書類を「申込書」、承諾側の書類を「承諾書」ということにします)。
通達21条は申込書すら課税文書になる(場合がある)としていますが、承諾書だけのパターンも課税されることがその前提にあります。
印紙税法基本通達
第21条(申込書等と表示された文書の取扱い)
1 契約は、申込みと当該申込みに対する承諾によって成立するのであるから、契約の申込みの事実を証明する目的で作成される単なる申込文書は契約書には該当しないが、申込書、注文書、依頼書等(次項において「申込書等」という。)と表示された文書であっても、相手方の申込みに対する承諾事実を証明する目的で作成されるものは、契約書に該当する。
2 申込書等と表示された文書のうち、次に掲げるものは、原則として契約書に該当するものとする。
(1) 契約当事者の間の基本契約書、規約又は約款等に基づく申込みであることが記載されていて、一方の申込みにより自動的に契約が成立することとなっている場合における当該申込書等。ただし、契約の相手方当事者が別に請書等契約の成立を証明する文書を作成することが記載されているものを除く。
(2) 見積書その他の契約の相手方当事者の作成した文書等に基づく申込みであることが記載されている当該申込書等。ただし、契約の相手方当事者が別に請書等契約の成立を証明する文書を作成することが記載されているものを除く。
(3) 契約当事者双方の署名又は押印があるもの
このように説かれる際、明示されていないものの、有効な申込と有効な承諾という《実体》があることが前提とされているはずです。
ノーマル: 申込+申込書 ⇒ 承諾+承諾書
申込 ⇒ 承諾+承諾書
申込+申込書 ⇒ 承諾
では、承諾書には特定の申込に対するものであることが記載されているものの、その申込みが架空のものだった場合はどうなるのか(実体としての申込がない以上、それに対応する実体としての承諾も存在しえない)。
アブノーマル: なし ⇒ 承諾書
「文書の記載だけから判定」ということからすれば、この場合も課税文書で問題ない、ということになるのでしょうか。
もしこの結論が正しいのだとすると、やはり印紙税法では民法の成立要件それ自体は要求されていない、ということになります。
書面上、契約の成立を証明する目的で作成されたことが読み取れさえすれば、そのもととなっている実体は必要ないと。
どこかやりすぎ感はありますが、文書の記載のみで判定するというならば、それが自然な帰結となるはずです。
○
この結論を回避したいというのであれば、印紙税法上も何らかの《実体》判断を導入する必要があります。
そうだとして、その実体は民法直輸入でよいのか何らかの印紙税法的変容が必要なのか、検討を要します。
以下では、記述がしやすい通常の「契約書」事例に即して検討してみます。
事例1:《実体》なし
ア 文書:代金1000万円の不動産売買契約書
イ 文書:代金8000万円の不動産売買契約書
※そもそもこの事例、民法上、実体なしとして契約は「成立」しないのか、それとも、表示通りの契約が「成立」した上で「効力」が実体にあわせて調整されるのか、という問題があります。
なんですが、これをやりだすと前々回に論じた「効力要件」問題が再燃してしまいます(要するに、同じようなことをいろんな角度から検討しているだけなので、混線する)。
ので、ここでは契約不成立前提で話をすすめます。
まず、実体なしの場合に、アイそれぞれの記載金額で課税されるかが問題となります。
実体不要説であれば、当然のごとく記載金額どおり課税されます。
実体不要説
ア 1000万円
イ 8000万円
この場合に課税されるのはまずい、ということで何らかの実体を要求することにしようと。
そうすれば、少なくとも実体なしのアイの課税は回避できます。
実体必要説
ア 不課税
イ 不課税
○
では、何らかの実体がありさえすればいいか。
事例2:《実体》代金5000万円の不動産売買契約
ウ 文書:代金1000万円の不動産売買契約書
エ 文書:代金8000万円の不動産売買契約書
※こちらも事例1同様、民法上、実体通りの金額で「成立」するのか、それとも、文書通りの金額で「成立」した上で「効力」が実体にあわせて調整されるのか、という問題があります。
が、ここでは実体通りの金額で成立した前提で話をすすめます。
事例2では、実体はあるわけですが「金額」が実体と文書とで不一致となっています。
この場合に、ウエの「課税標準」はそれぞれいくらとなるのか。
金額にかかわらず申込みと承諾がありさえすればいいのであれば、記載金額どおりの「課税標準」になるのでしょう(金額不要説)。
実体必要・金額不要説
ウ 1000万円
エ 8000万円
他方で、金額も持ち込むとした場合はどうか(金額必要説)。
この場合でも、実体と記載のどちらを重視するかでいくつかバリエーションがありえます。
が、記載をベースとしつつ実体で上限をはめる、というのが最もありうるパターンでしょうか。
実体必要・金額必要説
ウ 1000万円
エ 5000万円(実体が上限)
わかりやすく「金額」で検討しましたが、このことは「数量」などでも同じことです。
(もっというと実体「贈与」で文言「売買」などもありえますが、切りがないのでやめておきます。)
○
前回は納税義務者の判定をメインに検討し、実体判断を導入すべきだろうと書きました。
さて、本丸である課否判定についても実体判断を導入することは可能でしょうか。
法律上の手がかりとなりうるのは、通則5項の「契約の成立を証すべき文書」くらいでしょうか。
印紙税法
別表第一 課税物件表(第二条―第五条、第七条、第十一条、第十二条関係)
課税物件表の適用に関する通則
5 この表の第一号、第二号、第七号及び第十二号から第十五号までにおいて「契約書」とは、契約証書、協定書、約定書その他名称のいかんを問わず、契約(その予約を含む。以下同じ。)の成立若しくは更改又は契約の内容の変更若しくは補充の事実(以下「契約の成立等」という。)を証すべき文書をいい、念書、請書その他契約の当事者の一方のみが作成する文書又は契約の当事者の全部若しくは一部の署名を欠く文書で、当事者間の了解又は商慣習に基づき契約の成立等を証することとされているものを含むものとする。
この「証すべき」の対象が、一定の「実体」があることに向けられているのか、それともそのような実体がなくても「記載」がありさえすればいいのか、どうにも読み取れない。
それで、通達では「証明する目的で作成される文書」と言い換えたのでしょうが、それでも実体が必要なのかどうかがはっきりしない。
印紙税法基本通達
(契約書の意義)
第12条 法に規定する「契約書」とは、契約当事者の間において、契約(その予約を含む。)の成立、更改又は内容の変更若しくは補充の事実(以下「契約の成立等」という。)を証明する目的で作成される文書をいい、契約の消滅の事実を証明する目的で作成される文書は含まない。
《「契約の成立を証明する目的」とは?》
1 「成立」の実体の要否
ア 申込と承諾の一致という実体があり、かつ、それを証明する目的が必要
イ 申込と承諾の一致という実体があるかのようにみせる目的があればいい
2 「目的」の実体の要否
ウ 実体としての目的が必要
エ 目的のあることが書面上に表れていればいい
「課否判定は記載文言による」としても、それは判定の資料は記載文言に限られ書かれざる要素を持ち込むべきではない、というにとどまります。
そこから先、課税要件(証明の対象)が文書そのものなのか、それとも実体も要求されるのかは別の問題。
判定資料: 文書のみ ←ここは争いなし
判定対象: 文書 or 文書+実体 ←Fight!
個人的には、成立は実体不要で目的は実体必要(イ+ウ)、つまり、成立を見せかける目的が現実にあることが必要だと思うのですが、最終的な結論は保留します。
印紙税法基本通達
(課税文書に該当するかどうかの判断)第3条
1 文書が課税文書に該当するかどうかは、文書の全体を一つとして判断するのみでなく、その文書に記載されている個々の内容についても判断するものとし、また、単に文書の名称又は呼称及び形式的な記載文言によることなく、その記載文言の実質的な意義に基づいて判断するものとする。
2 前項における記載文言の実質的な意義の判断は、その文書に記載又は表示されている文言、符号を基として、その文言、符号等を用いることについての関係法律の規定、当事者間における了解、基本契約又は慣習等を加味し、総合的に行うものとする。
○
これとは別の例で、通達には「契約当事者以外」の者に提出する文書に関するルールがあります。
印紙税法基本通達
第20条(契約当事者以外の者に提出する文書)
契約当事者以外の者(例えば、監督官庁、融資銀行等当該契約に直接関与しない者をいい、消費貸借契約における保証人、不動産売買契約における仲介人等当該契約に参加する者を含まない。)に提出又は交付する文書であって、当該文書に提出若しくは交付先が記載されているもの又は文書の記載文言からみて当該契約当事者以外の者に提出若しくは交付することが明らかなものについては、課税文書に該当しないものとする。
(注) 消費貸借契約における保証人、不動産売買契約における仲介人等は、課税事項の契約当事者ではないから、当該契約の成立等を証すべき文書の作成者とはならない。
これは要するに、
実体:契約当事者以外の者に提出する予定で
文書:そのことが明記されている
場合は課税しないと。
なに勝手に免税しちゃってんの、てところですが、寄り添って法解釈レベルに落とし込んであげるなら、この場合には「契約の成立を証する目的で作成する文書=契約の成立を証すべき文書」に該当しない、ということなんでしょう。
○
ここで特徴的、というか意外なのは、実体と文言を両方考慮すると書いてあるということ。
実体:契約当事者以外の者に提出又は交付する文書であって、
文言:当該文書に提出若しくは交付先が記載されているもの又は文書の記載文言からみて当該契約当事者以外の者に提出若しくは交付することが明らかなもの
「であって」の後ろが文言判断になっていることからすれば、その前が実体判断なのだろうと推測できます(もしかしたら、そこまでの深読みは想定してないのかもしれませんが)。
上述した通則5項や通達12条が、どっちつかずの煮え切らない表現なのとは対照的。
ので、契約書に「銀行提出用」と明記したとしても、実体は契約当事者保管用ならば課税を回避することはできないことになります。
実体を考慮して、まるっきり記載に反する結論を導いているのが驚きです。
いつもの「文書!文書!実体無視!実体無視!」ばかり言っているお前はどこ行ったのよ。
○
しかし、なぜ急にこの場面で、実体を持ち出したのかが謎。
そしてこれが、この場面だけの話なのか、それとも印紙税法は実は全面的にこういう思想を隠し持っているということなのか。
「銀行提出用」と書いてあったら、この文言をどれだけ実質的に理解しようが「銀行提出用」以外の何物でもないわけです。
にもかかわらず、「実際に」銀行に提出するかどうかで判断をするのだと。
○
ただ注意すべきなのが、これが「納税者不利」方向への実体導入だということ。
文書課税だといって課税範囲を広げておきながら、不課税方向には突如として実体を持ち出してハードルをあげているわけです。
課税方向: 記載さえあればいい
不課税方向: 記載と実体がそろってなければ駄目
これ、全く関係ないですが「二元的行為無価値論」と構造が似ている。
犯罪が成立するには結果無価値と行為無価値両方が必要だといっておきながら、違法性を阻却する場面では結果無価値と行為無価値の両方が阻却されなければならないと主張している例のやつ。
犯罪成立には両方必要だというなら、どちらかが欠ければ違法性が阻却されるとすべきはずなのに。
【二元的行為無価値論の帰結】
犯罪成立:行為無価値+結果無価値 両方必要
違法性: なし
⇒阻却される
犯罪成立:行為無価値+結果無価値 両方必要
違法性: 行為無価値のみ
⇒阻却されない(何故だ?)
○
いずれにしても、「判断素材は記載文言」を標榜している通達3条とは、噛み合わないルール。20条にしても、課税要件該当性判断のひとつにかわりないのに。
課税を広げるためなら原則ルールは捨て置け、なんてことだとしたら、あまりにも下劣な態度ではなかろうか。
印紙税法基本通達
(課税文書に該当するかどうかの判断)第3条
1 文書が課税文書に該当するかどうかは、文書の全体を一つとして判断するのみでなく、その文書に記載されている個々の内容についても判断するものとし、また、単に文書の名称又は呼称及び形式的な記載文言によることなく、その記載文言の実質的な意義に基づいて判断するものとする。
2 前項における記載文言の実質的な意義の判断は、その文書に記載又は表示されている文言、符号を基として、その文言、符号等を用いることについての関係法律の規定、当事者間における了解、基本契約又は慣習等を加味し、総合的に行うものとする。
もしこれらをうまく噛み合わせようとするなら、課否判定を次の2つにわけることになるでしょうか。
課税文書該当性:文言判断
文書作成目的: 実体判断
ここに前回検討した納税義務者判定を並べるなら、
納税義務者: 実体判断
となると。文言判断の妥当領域をだいぶ突き崩せてきましたね。
○
なお、ここでいう「契約当事者」には、文字通りの当事者にかぎらず保証人や仲介人も含まれると書かれています。
その結果、
監督官庁・銀行提出用 「契約の成立を証する目的」なし
保証人・仲介人提出用 「契約の成立を証する目的」あり
という結論になります。
が、私には、ここまで課税上の取り扱いを異ならせる実質的な根拠が見いだせません。
率直にいえば、どちらの書面も「契約の成立を証する目的」はあるように思えますし。
何か違いがあるとしたら、本来の契約当事者からの「距離感」くらいでしょうか。
あるいは、目的が「直接的/間接的」のような、何のためか分からない違いで区別しようとしているのか。
このことからも、「契約の成立を証する目的」という文言のポリシーの薄さが透けて見えます。
○
さて、露払いが済んだところで(祓えてない?)本来書こうとしていたところに入ります。
前回仄めかしずみのところですが、《納税義務者》かどうかの判定は、当該契約の「意思主体」かどうかによるべきだと書きました。
文書作成に関与していない本人が課税されることの不当性を回避するためには、そのように解釈すべきだと。
そうだとして、本人が契約締結そのものを委任していないものの、(実体の伴わない)契約書面を本人名義で作出することだけは承認していた場合はどうなるのか。
【委任の範囲】
契約締結 ×
書面作成 ○
ここでいう「意思主体」というのが、「契約の効果を引き受ける意思がある者」という意味だとすると、意思主体ではない、ということになります。
が、本人課税が問題となった理由は本人が文書作成に関与していないからでした。そうすると、文書作成に本人が関与しているのであれば、課税されたとしてもおかしくはない。
そこで印紙税法の納税義務者としては、「文書作成の意思がある者」というところまで、意思内容を希釈化できるかどうか(創造説が手形負担意思を抽象化したように)。
実体判断を導入するにしても、民法直輸入ではなく印紙税法特有の変容が施されると。
(先週時点では、この「意思主体」の点だけ追記するつもりだったんですが、前座が異常に膨らんだ。)
○
以上、印紙税法に「法解釈論」を導入する(印紙税法学の樹立)というストレンジな試みなせいで、どうにも長くなりました。
「印紙税は文書課税」という空虚な後ろ盾以外は、何の理論的なバックボーンもないというのが印紙税法の現状、というのがここまであれこれ検討してきての感想。
民法みたく、いろんな主義やドグマでごちゃついているのはそれはそれで大変ですが、さすがに持ちネタが文書課税一本だけでやっていくのは厳しいでしょう。
【ドグマからドクマへ】
ドキッ!?ドグマだらけの民法改正
「印紙税法は文書課税」などといった裸の理論一本では、どうにも解決できない問題が種々潜んでいるわけで。
【例外:裸ネタ一本で駆け抜けた作品】
鳩胸つるん 剥き出しの白鳥 (集英社2018-2019)
○
印紙税法嬢は「私、文書課税だから」とお高く止まっているのですが、法や通達をみるかぎりどうも常に実体に支えてもらっていることが当たり前だと思っているフシがある。
それゆえ、実体が欠ける場合について無防備。うまく作動しない。
ということで、後ろ盾をつけてあげようと、こちらが頑張って民法や通則法とくっつけようとしてあげたのですが、全然馴染もうとしやがらねえ。
うまく引き合わせができなかった、私の不徳の致すところ。
ただ、今回の記事の中で、こちらが頼んでもいないのに勝手に民法とくっつきそうな箇所がありました。
ということで、私の頭がついていくのなら、もう1回だけ掘り下げてみようと思います。
が、そこにまっすぐに向かう前に、いくつか露払いをします。
【印紙税法学・樹立の道程】
私法の一般法とかいってふんぞり返っているわりに、隙だらけ。〜契約の成立と印紙税法
続・契約の成立と印紙税法(法適用通則法がこちらをみている)
続々・契約の成立と印紙税法(代理法がこちらをみている)
○
一般的に、契約書という形式ではなく、受注書や請書など承諾事実を証明する目的で作成される文書も「課税文書」だとされています(以下、申込側の書類を「申込書」、承諾側の書類を「承諾書」ということにします)。
通達21条は申込書すら課税文書になる(場合がある)としていますが、承諾書だけのパターンも課税されることがその前提にあります。
印紙税法基本通達
第21条(申込書等と表示された文書の取扱い)
1 契約は、申込みと当該申込みに対する承諾によって成立するのであるから、契約の申込みの事実を証明する目的で作成される単なる申込文書は契約書には該当しないが、申込書、注文書、依頼書等(次項において「申込書等」という。)と表示された文書であっても、相手方の申込みに対する承諾事実を証明する目的で作成されるものは、契約書に該当する。
2 申込書等と表示された文書のうち、次に掲げるものは、原則として契約書に該当するものとする。
(1) 契約当事者の間の基本契約書、規約又は約款等に基づく申込みであることが記載されていて、一方の申込みにより自動的に契約が成立することとなっている場合における当該申込書等。ただし、契約の相手方当事者が別に請書等契約の成立を証明する文書を作成することが記載されているものを除く。
(2) 見積書その他の契約の相手方当事者の作成した文書等に基づく申込みであることが記載されている当該申込書等。ただし、契約の相手方当事者が別に請書等契約の成立を証明する文書を作成することが記載されているものを除く。
(3) 契約当事者双方の署名又は押印があるもの
このように説かれる際、明示されていないものの、有効な申込と有効な承諾という《実体》があることが前提とされているはずです。
ノーマル: 申込+申込書 ⇒ 承諾+承諾書
申込 ⇒ 承諾+承諾書
申込+申込書 ⇒ 承諾
では、承諾書には特定の申込に対するものであることが記載されているものの、その申込みが架空のものだった場合はどうなるのか(実体としての申込がない以上、それに対応する実体としての承諾も存在しえない)。
アブノーマル: なし ⇒ 承諾書
「文書の記載だけから判定」ということからすれば、この場合も課税文書で問題ない、ということになるのでしょうか。
もしこの結論が正しいのだとすると、やはり印紙税法では民法の成立要件それ自体は要求されていない、ということになります。
書面上、契約の成立を証明する目的で作成されたことが読み取れさえすれば、そのもととなっている実体は必要ないと。
どこかやりすぎ感はありますが、文書の記載のみで判定するというならば、それが自然な帰結となるはずです。
○
この結論を回避したいというのであれば、印紙税法上も何らかの《実体》判断を導入する必要があります。
そうだとして、その実体は民法直輸入でよいのか何らかの印紙税法的変容が必要なのか、検討を要します。
以下では、記述がしやすい通常の「契約書」事例に即して検討してみます。
事例1:《実体》なし
ア 文書:代金1000万円の不動産売買契約書
イ 文書:代金8000万円の不動産売買契約書
※そもそもこの事例、民法上、実体なしとして契約は「成立」しないのか、それとも、表示通りの契約が「成立」した上で「効力」が実体にあわせて調整されるのか、という問題があります。
なんですが、これをやりだすと前々回に論じた「効力要件」問題が再燃してしまいます(要するに、同じようなことをいろんな角度から検討しているだけなので、混線する)。
ので、ここでは契約不成立前提で話をすすめます。
まず、実体なしの場合に、アイそれぞれの記載金額で課税されるかが問題となります。
実体不要説であれば、当然のごとく記載金額どおり課税されます。
実体不要説
ア 1000万円
イ 8000万円
この場合に課税されるのはまずい、ということで何らかの実体を要求することにしようと。
そうすれば、少なくとも実体なしのアイの課税は回避できます。
実体必要説
ア 不課税
イ 不課税
○
では、何らかの実体がありさえすればいいか。
事例2:《実体》代金5000万円の不動産売買契約
ウ 文書:代金1000万円の不動産売買契約書
エ 文書:代金8000万円の不動産売買契約書
※こちらも事例1同様、民法上、実体通りの金額で「成立」するのか、それとも、文書通りの金額で「成立」した上で「効力」が実体にあわせて調整されるのか、という問題があります。
が、ここでは実体通りの金額で成立した前提で話をすすめます。
事例2では、実体はあるわけですが「金額」が実体と文書とで不一致となっています。
この場合に、ウエの「課税標準」はそれぞれいくらとなるのか。
金額にかかわらず申込みと承諾がありさえすればいいのであれば、記載金額どおりの「課税標準」になるのでしょう(金額不要説)。
実体必要・金額不要説
ウ 1000万円
エ 8000万円
他方で、金額も持ち込むとした場合はどうか(金額必要説)。
この場合でも、実体と記載のどちらを重視するかでいくつかバリエーションがありえます。
が、記載をベースとしつつ実体で上限をはめる、というのが最もありうるパターンでしょうか。
実体必要・金額必要説
ウ 1000万円
エ 5000万円(実体が上限)
わかりやすく「金額」で検討しましたが、このことは「数量」などでも同じことです。
(もっというと実体「贈与」で文言「売買」などもありえますが、切りがないのでやめておきます。)
○
前回は納税義務者の判定をメインに検討し、実体判断を導入すべきだろうと書きました。
さて、本丸である課否判定についても実体判断を導入することは可能でしょうか。
法律上の手がかりとなりうるのは、通則5項の「契約の成立を証すべき文書」くらいでしょうか。
印紙税法
別表第一 課税物件表(第二条―第五条、第七条、第十一条、第十二条関係)
課税物件表の適用に関する通則
5 この表の第一号、第二号、第七号及び第十二号から第十五号までにおいて「契約書」とは、契約証書、協定書、約定書その他名称のいかんを問わず、契約(その予約を含む。以下同じ。)の成立若しくは更改又は契約の内容の変更若しくは補充の事実(以下「契約の成立等」という。)を証すべき文書をいい、念書、請書その他契約の当事者の一方のみが作成する文書又は契約の当事者の全部若しくは一部の署名を欠く文書で、当事者間の了解又は商慣習に基づき契約の成立等を証することとされているものを含むものとする。
この「証すべき」の対象が、一定の「実体」があることに向けられているのか、それともそのような実体がなくても「記載」がありさえすればいいのか、どうにも読み取れない。
それで、通達では「証明する目的で作成される文書」と言い換えたのでしょうが、それでも実体が必要なのかどうかがはっきりしない。
印紙税法基本通達
(契約書の意義)
第12条 法に規定する「契約書」とは、契約当事者の間において、契約(その予約を含む。)の成立、更改又は内容の変更若しくは補充の事実(以下「契約の成立等」という。)を証明する目的で作成される文書をいい、契約の消滅の事実を証明する目的で作成される文書は含まない。
《「契約の成立を証明する目的」とは?》
1 「成立」の実体の要否
ア 申込と承諾の一致という実体があり、かつ、それを証明する目的が必要
イ 申込と承諾の一致という実体があるかのようにみせる目的があればいい
2 「目的」の実体の要否
ウ 実体としての目的が必要
エ 目的のあることが書面上に表れていればいい
「課否判定は記載文言による」としても、それは判定の資料は記載文言に限られ書かれざる要素を持ち込むべきではない、というにとどまります。
そこから先、課税要件(証明の対象)が文書そのものなのか、それとも実体も要求されるのかは別の問題。
判定資料: 文書のみ ←ここは争いなし
判定対象: 文書 or 文書+実体 ←Fight!
個人的には、成立は実体不要で目的は実体必要(イ+ウ)、つまり、成立を見せかける目的が現実にあることが必要だと思うのですが、最終的な結論は保留します。
印紙税法基本通達
(課税文書に該当するかどうかの判断)第3条
1 文書が課税文書に該当するかどうかは、文書の全体を一つとして判断するのみでなく、その文書に記載されている個々の内容についても判断するものとし、また、単に文書の名称又は呼称及び形式的な記載文言によることなく、その記載文言の実質的な意義に基づいて判断するものとする。
2 前項における記載文言の実質的な意義の判断は、その文書に記載又は表示されている文言、符号を基として、その文言、符号等を用いることについての関係法律の規定、当事者間における了解、基本契約又は慣習等を加味し、総合的に行うものとする。
○
これとは別の例で、通達には「契約当事者以外」の者に提出する文書に関するルールがあります。
印紙税法基本通達
第20条(契約当事者以外の者に提出する文書)
契約当事者以外の者(例えば、監督官庁、融資銀行等当該契約に直接関与しない者をいい、消費貸借契約における保証人、不動産売買契約における仲介人等当該契約に参加する者を含まない。)に提出又は交付する文書であって、当該文書に提出若しくは交付先が記載されているもの又は文書の記載文言からみて当該契約当事者以外の者に提出若しくは交付することが明らかなものについては、課税文書に該当しないものとする。
(注) 消費貸借契約における保証人、不動産売買契約における仲介人等は、課税事項の契約当事者ではないから、当該契約の成立等を証すべき文書の作成者とはならない。
これは要するに、
実体:契約当事者以外の者に提出する予定で
文書:そのことが明記されている
場合は課税しないと。
なに勝手に免税しちゃってんの、てところですが、寄り添って法解釈レベルに落とし込んであげるなら、この場合には「契約の成立を証する目的で作成する文書=契約の成立を証すべき文書」に該当しない、ということなんでしょう。
○
ここで特徴的、というか意外なのは、実体と文言を両方考慮すると書いてあるということ。
実体:契約当事者以外の者に提出又は交付する文書であって、
文言:当該文書に提出若しくは交付先が記載されているもの又は文書の記載文言からみて当該契約当事者以外の者に提出若しくは交付することが明らかなもの
「であって」の後ろが文言判断になっていることからすれば、その前が実体判断なのだろうと推測できます(もしかしたら、そこまでの深読みは想定してないのかもしれませんが)。
上述した通則5項や通達12条が、どっちつかずの煮え切らない表現なのとは対照的。
ので、契約書に「銀行提出用」と明記したとしても、実体は契約当事者保管用ならば課税を回避することはできないことになります。
実体を考慮して、まるっきり記載に反する結論を導いているのが驚きです。
いつもの「文書!文書!実体無視!実体無視!」ばかり言っているお前はどこ行ったのよ。
○
しかし、なぜ急にこの場面で、実体を持ち出したのかが謎。
そしてこれが、この場面だけの話なのか、それとも印紙税法は実は全面的にこういう思想を隠し持っているということなのか。
「銀行提出用」と書いてあったら、この文言をどれだけ実質的に理解しようが「銀行提出用」以外の何物でもないわけです。
にもかかわらず、「実際に」銀行に提出するかどうかで判断をするのだと。
○
ただ注意すべきなのが、これが「納税者不利」方向への実体導入だということ。
文書課税だといって課税範囲を広げておきながら、不課税方向には突如として実体を持ち出してハードルをあげているわけです。
課税方向: 記載さえあればいい
不課税方向: 記載と実体がそろってなければ駄目
これ、全く関係ないですが「二元的行為無価値論」と構造が似ている。
犯罪が成立するには結果無価値と行為無価値両方が必要だといっておきながら、違法性を阻却する場面では結果無価値と行為無価値の両方が阻却されなければならないと主張している例のやつ。
犯罪成立には両方必要だというなら、どちらかが欠ければ違法性が阻却されるとすべきはずなのに。
【二元的行為無価値論の帰結】
犯罪成立:行為無価値+結果無価値 両方必要
違法性: なし
⇒阻却される
犯罪成立:行為無価値+結果無価値 両方必要
違法性: 行為無価値のみ
⇒阻却されない(何故だ?)
○
いずれにしても、「判断素材は記載文言」を標榜している通達3条とは、噛み合わないルール。20条にしても、課税要件該当性判断のひとつにかわりないのに。
課税を広げるためなら原則ルールは捨て置け、なんてことだとしたら、あまりにも下劣な態度ではなかろうか。
印紙税法基本通達
(課税文書に該当するかどうかの判断)第3条
1 文書が課税文書に該当するかどうかは、文書の全体を一つとして判断するのみでなく、その文書に記載されている個々の内容についても判断するものとし、また、単に文書の名称又は呼称及び形式的な記載文言によることなく、その記載文言の実質的な意義に基づいて判断するものとする。
2 前項における記載文言の実質的な意義の判断は、その文書に記載又は表示されている文言、符号を基として、その文言、符号等を用いることについての関係法律の規定、当事者間における了解、基本契約又は慣習等を加味し、総合的に行うものとする。
もしこれらをうまく噛み合わせようとするなら、課否判定を次の2つにわけることになるでしょうか。
課税文書該当性:文言判断
文書作成目的: 実体判断
ここに前回検討した納税義務者判定を並べるなら、
納税義務者: 実体判断
となると。文言判断の妥当領域をだいぶ突き崩せてきましたね。
○
なお、ここでいう「契約当事者」には、文字通りの当事者にかぎらず保証人や仲介人も含まれると書かれています。
その結果、
監督官庁・銀行提出用 「契約の成立を証する目的」なし
保証人・仲介人提出用 「契約の成立を証する目的」あり
という結論になります。
が、私には、ここまで課税上の取り扱いを異ならせる実質的な根拠が見いだせません。
率直にいえば、どちらの書面も「契約の成立を証する目的」はあるように思えますし。
何か違いがあるとしたら、本来の契約当事者からの「距離感」くらいでしょうか。
あるいは、目的が「直接的/間接的」のような、何のためか分からない違いで区別しようとしているのか。
このことからも、「契約の成立を証する目的」という文言のポリシーの薄さが透けて見えます。
○
さて、露払いが済んだところで(祓えてない?)本来書こうとしていたところに入ります。
前回仄めかしずみのところですが、《納税義務者》かどうかの判定は、当該契約の「意思主体」かどうかによるべきだと書きました。
文書作成に関与していない本人が課税されることの不当性を回避するためには、そのように解釈すべきだと。
そうだとして、本人が契約締結そのものを委任していないものの、(実体の伴わない)契約書面を本人名義で作出することだけは承認していた場合はどうなるのか。
【委任の範囲】
契約締結 ×
書面作成 ○
ここでいう「意思主体」というのが、「契約の効果を引き受ける意思がある者」という意味だとすると、意思主体ではない、ということになります。
が、本人課税が問題となった理由は本人が文書作成に関与していないからでした。そうすると、文書作成に本人が関与しているのであれば、課税されたとしてもおかしくはない。
そこで印紙税法の納税義務者としては、「文書作成の意思がある者」というところまで、意思内容を希釈化できるかどうか(創造説が手形負担意思を抽象化したように)。
実体判断を導入するにしても、民法直輸入ではなく印紙税法特有の変容が施されると。
(先週時点では、この「意思主体」の点だけ追記するつもりだったんですが、前座が異常に膨らんだ。)
○
以上、印紙税法に「法解釈論」を導入する(印紙税法学の樹立)というストレンジな試みなせいで、どうにも長くなりました。
「印紙税は文書課税」という空虚な後ろ盾以外は、何の理論的なバックボーンもないというのが印紙税法の現状、というのがここまであれこれ検討してきての感想。
民法みたく、いろんな主義やドグマでごちゃついているのはそれはそれで大変ですが、さすがに持ちネタが文書課税一本だけでやっていくのは厳しいでしょう。
【ドグマからドクマへ】
ドキッ!?ドグマだらけの民法改正
「印紙税法は文書課税」などといった裸の理論一本では、どうにも解決できない問題が種々潜んでいるわけで。
【例外:裸ネタ一本で駆け抜けた作品】
鳩胸つるん 剥き出しの白鳥 (集英社2018-2019)
○
印紙税法嬢は「私、文書課税だから」とお高く止まっているのですが、法や通達をみるかぎりどうも常に実体に支えてもらっていることが当たり前だと思っているフシがある。
それゆえ、実体が欠ける場合について無防備。うまく作動しない。
ということで、後ろ盾をつけてあげようと、こちらが頑張って民法や通則法とくっつけようとしてあげたのですが、全然馴染もうとしやがらねえ。
うまく引き合わせができなかった、私の不徳の致すところ。
ただ、今回の記事の中で、こちらが頼んでもいないのに勝手に民法とくっつきそうな箇所がありました。
ということで、私の頭がついていくのなら、もう1回だけ掘り下げてみようと思います。
posted by ウロ at 00:00| Comment(0)
| 印紙税法