戸松秀典「憲法」(弘文堂2015)
「普通の」憲法の教科書って、『ぼくのかんがえたさいきょうのけんぽう』なノリが強くて、そのノリについていけないと読みづらかったりします。
そういった教科書に対して、戸松秀典先生のこの本では、あくまでも日本の裁判所において形成されている憲法秩序を析出することに専念しています。
私の見落としがなければですが、たとえば、基本的人権の『定義付け』みたいなものは書かれてなくって、個別の人権が裁判でどのように実現されているかを具体的な裁判例からみていく、というアプローチをとっています。
また、通常、憲法が問題になるのって、むき出しの憲法そのままではなく、何らかの法律やら行政行為に絡んで問題になることが多いんですが、そのことを強く意識した記述になってます。
判例べったりの教科書って、他の法分野だとあまり良い評価はできないんですけど、なぜか憲法のこの本に関しては、すんなり読めました。
自然権思想のような、実証しようのない概念から基礎づけられるよりも、現に裁判所でどのように実現されているかをみたほうが、等身大の人権の実像がよく理解できるからかもしれません。
普通の教科書だと、「人が人たるがゆえに当然に享有する権利」と格調高く定義付けしておきながら、実際の裁判例を記述する段階では、利益衡量論やら立法裁量論やらで制約されるとか書いてあったりして、その定義づけはどこまで通用するんだろうかと思ったりもするし。
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話はかわりますが、たとえば『吸血鬼は「十字架」に弱いかどうか』を実証することはできるかといえば、まあできないですよね。
なぜなら、吸血鬼は空想上の存在であり、十字架に弱いかどうかは、それぞれの物語の設定によって異なるからです。
シソウノーラーが林檎を噛んだら血がでるかどうか、といった実証可能性のあるものとはわけが違う。
歯槽膿漏 + 林檎 + 噛む ⇒ 血が出る。
十字架に弱い設定のほうが物語が面白くなるならそうすればいいし、逆に、一般には十字架に弱いと言われてるのに実は弱くなかったという設定のほうが面白くなるなら、そうすればいいし。
好きに決めればいいじゃん、てことです。
吸血鬼は十字架に弱い ←そうですね。
吸血鬼は十字架に弱くない ←そうですね。
これまでの裁判例によって形成された憲法秩序を脇において、いきなり『人権とは○○である!』と強気で定義付けされても、『吸血鬼は十字架に弱くなければならない!十字架が弱点でないのはおかしい!』と言ってるのと、同じ匂いを感じてしまうのです。
これが、『人権とは○○であると定義したほうがみんな幸せになれるから、そういう設定にしようよ。』という言い方ならまだ実益あると思うんです。その定義で幸せになれるか、というレベルで議論ができるので。
【そういう物言い】
ホッブズ『リヴァイアサン』 〜彼の設定厨。
が、『人権とは○○である!』といってしまうと、『いや私の定義によると××である!』『いやいや私の定義によると△△である!』となって、少なくとも実定憲法からはみ出さない限りは、優劣のつけようがなくなってしまいます。
これを自然権思想で優劣付けようとすると、さらに『私の自然権によると』、『いやいや、私の自然権によると』と、実証しようのない概念論争が勃発して、より混乱が深まると思うのです。
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そういったわけで、憲法上の議論をするのであれば、少なくともその前に、本書を読んで、裁判所において形成されている憲法秩序がどのようなものであるのかを把握しておくのがいいのではないかと。
もちろん、判例の見解にすべて従う、ということではないけども、現状認識を固めておくのは必要なことなはずです。
なお、当ブログでは吸血鬼をネタ扱いしすぎなため、いずれ『日∨連』(にちぶいれん、日本ヴァンパイア連合会)から、なんらかの抗議があるかもしれません。
【吸血鬼イジリ】
なぜ吸血鬼は自分の血を吸わないのか。 〜AI時代の吸血士のための生存戦略セミナー
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戸松秀典先生ご自身による執筆動機が書かれたものがありますので、ご参考まで。
というか、私のふざけた紹介文読むよりも、どう考えてもためになります。
<論説> 法実務と憲法 : 『憲法』執筆の動機と目的(学習院法務研究10号(2016))
また、憲法素人の方は、同じく戸松秀典先生による入門書もありますので、こちらもおすすめしておきます。
戸松秀典「プレップ憲法 第4版」(弘文堂2016)
戸松秀典「プレップ憲法訴訟」(弘文堂2011)
【入門書レベルで同じノリな】
大屋雄裕「裁判の原点:社会を動かす法学入門」(河出書房新社2018)
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