2019年11月25日

藤木英雄「公害犯罪」(東京大学出版会1975)

 今様にいうと「環境犯罪」。
 公害に限らず「環境」という上位概念で括られる感じの。

藤木英雄「公害犯罪」(東京大学出版会1975)

 一応リンク貼ってありますけど、クレプラ(クレイジープライス)ならばさすがに買う必要はないと思います(当時の定価は980円)。

 さしあたりで藤木先生の著書を読むなら「刑法案内」で。
 2は板倉先生執筆らしくて私も未読ですけど、1のほうは原文が藤木先生なので。

 藤木英雄・板倉宏 刑法案内1(勁草書房2011)
 藤木英雄・板倉宏 刑法案内2(勁草書房2011)


 今どきの教科書では無視されがちな「誤想防衛=正当防衛説」とか主張されているんですが、ついつい説得されそうになる。
 ゴリゴリの結果無価値論から勉強をスタートさせた私ですら。

 要するに違法性と責任の役割分担の問題にすぎないのであって、適切に犯罪の成否が制御できるならば、違法性が無くなるといおうが、責任(故意)がなくなるといおうがどちらでもいいのではないか、というところまで、今は落ち着いてきています。

 ちなみに、タイトルに『案内』とあるのは、「勁草法学案内シリーズ」として括られている例のアレです。

【案内シリーズ】
内田勝一「借地借家法案内」(勁草書房2017)


 例によって、私の税理士実務にはさしあたり関わりはないです。

 なのですが、頭のいい人の書かれた文章を読むことで自分の頭をブラッシュアップする、という使い方。
 しかも、専門外の一般向けに書いてくれていますし。

【頭のいい人の文章を読む営みの例】
白石忠志「技術と競争の法的構造」(有斐閣1994)


 公害問題を目の前にして、「これでいいのか刑法理論」(当時の)といった問題意識から、新しい理論を提唱されています。
 今どきの教科書では枕詞的に安易に否定されがちな「危惧感説」とか。

 この危惧感説、今どきの教科書だと「責任主義に反し妥当でない」と軽く否定されて具体的予見可能性説の踏み台にされてしまっています(「俺を踏み台にした!? 」)。
 が、この説の主眼は、単に予見可能性を緩めるってだけの話ではないです。

 公害問題というのは、ちょっとの油断で広範囲に多大な被害が生じる可能性がある、という特徴があります。
 しかも因果経過は追いにくいし組織内の出来事だし、ということで、昔ながらの過失犯のように、具体的予見可能性まで要求していたら、ことごとく予見可能性が否定されてしまって、そして被害が拡大してしまうおそれがあると。

 そこで、危惧感にまで予見可能性を下げてもいいことにしましょうと、他方で、広がり過ぎな部分は結果回避義務のほうで調整をかけることにすると。
 というように、予見可能性を過失における独立の要素として捉えるのではなく、結果の重大性や結果回避義務との相関で要求水準がかわってもいいじゃん、というのが危惧感説の言わんとすることなんだと、私は思いました。

 ので、予見可能性を緩めている部分だけを取り出して批判するのは、正面からの批判になっていない。
 もっというと、因果関係論や組織犯罪論などといった、他の要素も含めた上での検討をしないといけないんじゃないかと。

 こんなことちゃんと書いてくれている教科書なかったじゃん、と思って、そういえば井田良先生が危惧感説を支持されていたなあ、と思い出して教科書を読み直したら、「結果回避義務関連性」という表現でしっかり書かれていました。

 読み込み足らず。

井田良「講義刑法学・総論 第2版」(有斐閣2018)


 しかしこの考え、ノリが我妻先生の「相関関係説」に似ていますよね。
 「違法性」の問題として論じられていたり考慮要素は当然違うし、ということではありますが。

 1つの要素を固定的に捉えるのではなく、他の要素との関係で可変する感じが似ている。

 ちなみに、相関関係説では「刑罰法規違反」を要素として取り込んでいるのですが、刑法上の過失との関係はどういうことになるんでしょうか。

 我妻榮「事務管理・不当利得・不法行為」(日本評論社1937)


 こういう本を読むにつけ、すべての犯罪に共通する要件を打ち立てるの無理がある気がします。
 今の「刑法総論」における議論の仕方に対する疑問。

 公害犯罪というのは、その特徴として、
  ・ちょっとのミスで広範囲に被害が広がる。
  ・しかもその被害が甚大。
  ・原因の特定が困難。
  ・組織犯罪であって特定の個人に帰責するのは無理がある。

といったことがあるわけです。

 にもかかわらず、「過失」なり「因果関係」といった概念は、旧来型の「個人対個人」の犯罪要件と同じ内容のものでいいのかどうか。

 もちろん、「因果関係が結果犯の犯罪成立に要求されるのはなぜか」といったそもそも論自体は共通だとは思います。
 が、その中身は犯罪類型だったり行為態様ごとに異なっていてもいいんじゃないかと。
 極端な話、ある場合は客観説で判断しある場合は主観説で判断する、ということがあってもいい気がします。

 実際のところ、刑法総論で議論されているときも特定の犯罪類型が念頭に置かれていて、すべての犯罪類型にその規範が使えるのかチェックしている形跡がないし。


 「総論・各論問題」については、このブログでもちらちらイジってきましたが、主として「法学教育」の観点からでした。
 初学者にとって、総論だけを先行して学習するのは理解しにくいと。

 が、そろそろ、総論の議論を一回各論側に還元して、総点検をしたほうがいいんじゃないですかね。
 部品を全部バラしてオーバーホールする感じの。
posted by ウロ at 10:53| Comment(0) | 刑法
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。