2020年02月03日

税法・民法における行為規範と裁判規範(その7)

 裁判規範とは別に行為規範を措定したところで、「生の」納税者の予測可能性を高めるには不十分、というのが現実、という話をしてきました。
 税法から不確定概念を追放して明確な条文だけで構成しつくしたとしても、限界があるでしょと。

税法・民法における行為規範と裁判規範(その1)
税法・民法における行為規範と裁判規範(その2)
税法・民法における行為規範と裁判規範(その3)
税法・民法における行為規範と裁判規範(その4)
税法・民法における行為規範と裁判規範(その5)
税法・民法における行為規範と裁判規範(その6)

 こういった現状をカバーするための手当ての一つが「文書回答手続」なわけです。
 が、もちろんこれだけですべてまかなえるわけではない。

 ここから漏れいづるケースへの対処が必要になります。


 一義的な解釈しかできないような条項でないかぎり、A説、B説・・といくつかの解釈が可能なのが通常。
 のに、判決の段階ではそのどれか一つを選ばなければなりません。

《例》
 A説 課税されない  ←納税者「こっちでいくわ」
 B説 課税される   ←裁判所「残念こっちだわ」

 そうすると、納税者がA説を前提に取引をしたら、裁判所はB説を採用して課税できると判断した、という場合に納税者にとっては不意打ち、という事態が生じることになります。

 もちろん、B説は可能な解釈の中の一つであってそれ自体間違いではない。
 他方で、A説だってありえた解釈の一つだったわけです。

 にもかかわらず、A説前提で考えていた納税者は不利益を被ってしまう。
 これをそのままにしていたら、萎縮効果が生じてしまい自由な取引が大幅に制限されてしまいます。

 こんな状況なのに、いつまでたっても一義的にならない税法の明確性を求め続けたって、限界がある。

 そこで、《解釈の幅》のような概念を導入してみたらどうでしょうか。

 ありえる解釈の範囲内におさまっているかぎり、結果その解釈が採用されなかったとしても個別に救済すると。
 ただ、判決でB説に確定した後は、B説前提で取引をしなさいと。

 このように、行為規範として特定されていない段階では《解釈の幅》を認める、裁判規範として特定された後はそれを行為規範に組み込む、というように、それぞれの規範を固定したものとして捉えるのではなく、相互に影響しあって中身が充実していく、という一連の流れとして捉えるのがよさそう。

 もちろん、一度判例ができあがっても、判例変更の可能性があり、また射程の限定やサイレント変更もありえます。
 ので、このサイクルは判例がでても、そこでおしまいとはならないです(いわゆる税務ウロボロス)。

【ウロボロス例】
なぜ吸血鬼は自分の血を吸わないのか。 〜AI時代の吸血士のための生存戦略セミナー

 また、ここでは一応最高裁までいった場合を想定しています。
 が、地裁レベル・高裁レベルで終わった場合でも、そういうレベルの判決がある、ということ自体をこのサイクルの中に入れ込んでもいいと思います。

【判例理論について】
非居住者に支払う著作権の使用料と源泉徴収の要否について(その11)
非居住者に支払う著作権の使用料と源泉徴収の要否について(その12)

 このような概念、「法解釈の正解は唯一つ」とする観念からは受け入れがたいのかもしれません。
 判決によって初めてB説であることが決まったにもかかわらず、あたかも初めからB説でしたけど何か?みたいな感じのおすまし顔をしている、あのアレ。

 が、現実にはそれまでA説、B説・・と見解が別れていたわけです。
 判決段階ではどれか一つを選ばなければならないのは仕方ないとして、それら現実を無視してしまっていいのかと。箱を開けたらB説しか入っていなかったわけですけど、開けるまではどちらの説も存在しえたわけです。
(ここでビアンカ・フローラ論争を想起するのはRPG脳。リアルの恋愛じゃないのは、いいことなのか悪いことなのか)



ドラゴンクエストV 天空の花嫁

 法解釈の指針として「法的安定性と具体的妥当性の調和」ということが言われたりします。



我妻栄 法律における理窟と人情(日本評論社1955)

 が、ハードケースではどちらかを選ばざるをえないことがしばしば。

【契約書としばしば】
後藤巻則「契約法講義」(弘文堂2017)

 けども、《解釈の幅》概念によれば、その場の具体的妥当性を確保しつつ法的安定性も確保できる、二兎を追って二兎を得ることができるのではないかと(デボラはどうなるのか)。


 ちなみに、刑法学における「行為無価値論」というのも、本来こういう構造であるべきなんじゃないかと思うんですけど。

 行為者に事前に規範の問題を与える、にしても、行為者が行為無価値論の教科書を読んでから行動するわけではありません。
 ですし、実際読んでみたところで具体的な行動規範として機能するとは、とても思えない。難しいし。

 とすると、事前に定立しておく規範は、(綱渡り的な)特定の精緻な理論ではなく、そのように判断しても無理はない、というある程度幅のある理論のほうがいいのではないかと。
 (ここは思いつきで言っているだけので、だいぶ生煮え)


 ただし、刑法と税法では、厳密には衡量ポイントが違います。

  税法: 私人×国家(国民一般)
  刑法: 私人×国家(国家or社会or被害者個人)

 どちらも、表向きは「対国家」となっています。
 が、税法のほうは、国家の背後に想定できるのは国民一般にすぎないのに対し、刑法のほうは、保護法益によってその背後にあるものが変わってきます。

 「個人的法益」であれば、実態としては、

  刑法: 私人×私人

といえるわけです。

 とすると、税法の場合には立法・行政の不備を理由に納税者を救済することが認められたとしても、刑法(特に個人的法益)の場合にも同じノリで行為者を救済してもいいのか、ということが問題になりえます。


 で、この延長線上に民法があります。

  民法: 私人×私人

 こちらはガチの私人間(国家との契約などは置いておいて)。

 図式的に並べるとこんなライン。

  税法 ← 刑法 → 民法
     公的   私的

 私人間の場合に、立法・行政の不備を理由に一方当事者を救済するのはさすがにまずかろうと、なるでしょう。
 税法でいう立法・行政の不備にあたるものがあるとしたら、たとえば自分が用意した契約書の書式に不備があった、などといった場合でしょうか。
(ただ、上記図式からすると、民法でも当事者間に格差がある場合は「公的」側に寄せた判断をしてもよいのでは、というラインが見えてきますね。)

 ここに至って、どうやら民法の行為規範は税法のそれとは中身が違っていてしかるべき、となるんだろうなと。
 としても、「民法に行為規範はない!」なんてことではおよそない。あくまで中身が違う、というだけで。

 そしてまた、ぐるっと回って税法の場合でも、甲が課税されないってことは取引の相手方である乙が課税される、みたいな場面があったとすると、甲・乙両者のバランスを考えなければならない、ということになりそう。


 さて、この概念によれば、下記判決のように、通達を文言解釈するなどいった奇妙な解釈をする必要はなくなります。

解釈の解釈を解釈する(free rider) 〜東京高裁平成30年7月19日判決

 譲渡後判定という結論を導くために変な通達の文言解釈などしなくても、通達が分かりづらいことを正面から認めた上で、譲渡後と読むのも無理はない、ということで個別に救済すれば足ります。

 下記裁決なんか、順番間違えただけで課税されてしまう、なんて納税者にとって予想外もいいところ。
 理屈がヘンなのはさておき、個別の納税者の救済だけはしておくべきだったんじゃないですかね。

加算税をめぐる国送法と国税通則法の交錯(平成29年9月1日裁決)


 この概念、納税者救済の理屈としてあげましたが、反転させて使うことも可能。

 たとえば、「財産評価基本通達」を形式的にあてはめて実勢価格(時価)よりも著しく低価で評価して相続税下げる、という例のアレ、ありますよね。

 これ、たまたま相続が発生しちゃったので、虚心坦懐に通達をあてはめてみたら結果お安くなってた、なんてことではおよそない。
 相続税を減らしたいがために、意図してやっている。

 この状況で「通達使わせないなんて不平等!」などと本気では思ってませんよね、さすがに。
 あくまでも「レッツチャレンジ節税!!」的な。

 通達の中にも、こういう場面を想定して予め「例外則」が組み込まれていますし。

(この通達の定めにより難い場合の評価)
6 この通達の定めによって評価することが著しく不適当と認められる財産の価額は、国税庁長官の指示を受けて評価する。


 ので、この場合は納税者に不意打ちになることはないから、納税者不利に判断しても許される、という結論が導けると。


 税理士がこういう納税者不利なこというのはどうか、と言われるかもしれません。

 が、実際に裁判所において、形式論(文言重視)と実質論(租税正義)のラインがどのあたりに引かれているか、という見極めは必要でしょう。
 このところ、形式論を重視する判決がよく見られるものの、それでも、あまりにやりすぎれば実質論が出張ってくるわけです。

 このあたりのさじ加減を読めるようになるのが、本当の意味での『租税判例の読み方』というものではないんですかね。
 法的三段論法とか(課税)要件事実論とか、それはそれで大事なんでしょうが、それらはあくまでお作法の問題にすぎないわけで。

【リーガルマインドについて】
「リーガルマインドとは何か?」
税理士だって日常系税務でリーガルマインドを実践したい!


 また、この概念、個別の納税者の救済にとどまらない効用があるのではないか、とも思います。

 というのも、現状、租税裁判まで行ける人って「選ばれし勇者」とでも形容すべき人たちです(パパスの子として産まれるとか)。
 課税側の見解に疑問があっても、裁判で勝つか負けるかわからない状態で、「いっちょ裁判で白黒つけたるか」と思える人って、そうそういない。

 現実的な知恵として、保守的に確定申告しておいてあとから更正の請求を出す、みたいなことをせざるをえないのも、長期間裁判で争った後にがっつり附帯税とられるのきつい、というのがあるからでしょう。
 更正事由にあたらなければ、そもそもこの手法は取れないですし。

 そこで、《解釈の幅》におさまっているかぎりは課税されない、という結果が保証されていれば、安心して裁判に望めるのではないかと。
 で、その結果、租税裁判が充実していくことになり、ひいては租税法規の明確性・予測可能性を高めることにもなると。

 いつまでも条文の文言の明確性を求めるよりも、より「生の」納税者に役立つはず。
 
 ただし、これは性善説に基づいた運用であって、納税者が「自分だけは負けない」てことで真剣に争わない事態を防ぐ必要があります。
 納税者が真剣に争わず、変な判決がでても困るわけです。
(なお、ここでいう「真剣に」とは、一生懸命とか張り切ってとかいった主観面のことではなく、きちんと法解釈のお作法に従った主張、という意味合いです。)

 もちろん「法解釈は裁判所の専権事項」であって、納税者が真剣に争わなくても裁判所が課税側の主張を鵜呑みにすることはない、はず。
 が、この建前をどこまで信用するか。

 《解釈の幅》におさまっているいるかどうかの判定の中に、真剣に争ったかを組み込むことができますかね。


 さて、行為規範性が税法にはあって民法にはない、みたいな記述に対する疑問からはじまった、法規範をめぐるあれこれ。

 長々と続きましたが、たぶんこれで終われるはずです。
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