2020年05月25日

井田良「犯罪論の現在と目的的行為論」(成文堂1996)

 井田良先生の論文集。
 

井田良「犯罪論の現在と目的的行為論」(成文堂1996)

 井田先生のご著書は、以前にも教科書等の紹介を記事にしたことがあります。

井田良「入門刑法学・総論」(有斐閣2018)ほか
井田良「講義刑法学・総論 第2版」(有斐閣2018)
井田良「講義刑法学・各論 第2版」(有斐閣2020)

 さしあたって、刑法について深く勉強する必要性に迫られているわけではないです。
 が、頭のいい人の鮮やかな分析を読んで思考のめぐりをすっきりさせよう、という目的で読んでみました。

【同じノリ】
白石忠志「技術と競争の法的構造」(有斐閣1994)


 前回までの記事では、「印紙税法総論」を樹立しようという誇大妄想のために脳のリソースを無駄遣いしていました。

【印紙税法総論樹立の道程】
私法の一般法とかいってふんぞり返っているわりに、隙だらけ。〜契約の成立と印紙税法
続・契約の成立と印紙税法(法適用通則法がこちらをみている)
続々・契約の成立と印紙税法(代理法がこちらをみている)
さよなら契約の成立と印紙税法 (結局いつもひとり)
魔界の王子と契約の成立と印紙税法
二段の推定と契約の成立と印紙税法 〜印紙税法における実体法と手続法の交錯


 あのもちろん、本気で主張しているのではなく。
 こんな畢竟独自の見解をもって、「印紙税法学会に新風を巻き起こしてやる!」などと思っていません。

 これは思考をあれこれ巡らしながらアウトプットすることで、実務で難問がでてきたときにも自力で問題を解決できる「税務思考力」を鍛えるのが目的です。
 「税務系」の本でそういったゴリゴリの「思考力」を鍛えてくれるものって、なかなか見当たらなくって。良くも悪くもプラグマティック。または高尚な憲法論(あくまで私の観測範囲です)。

 税法学でも、確かにこういう面白い本があったりはします。

浅妻章如「ホームラン・ボールを拾って売ったら二回課税されるのか」(中央経済社2020)

 が、これは「数理」ベースでの優れた本。

 法律の条文が「言語」で構成されている以上、「言語」ベースでの思考力というのが必須になります。
 法解釈において「数理」は、基本的に言語の背後でバックボーンとして働かせるものでしょう。

 このブログの「思考巡らし系」の記事の中に出てくる思考のヒントが、刑法学や手形法学などといった税法学以外ばかりなのは、そういった事情のせい。
 ただし、いまさら手形法学、というか前田説(創造説)の考え方を印紙税法に活用するなどというのは、私個人の極めて特殊な「法癖」(法に関するフェチ)でしょうが。

前田庸「手形法・小切手法入門」(有斐閣 1983)


 例によって、出版社のサイトやネット書店には「目次」(所収論文)が載っていません。

 そういう場合は「国立国会図書館サーチ」や「CiNii Books」などで検索。

国立国会図書館サーチ
CiNii Books

 「CiNii Books」の検索結果がこれ

 一応ここにも載せておきます。

・目的的行為論と犯罪論の現在
・過失犯と目的的行為論
・犯罪論体系と構成要件概念
・因果関係の「相当性」に関する一試論
・違法性における結果無価値と行為無価値−いわゆる偶然防衛をめぐって
・故意なき者に対する教唆犯は成立しするか
・火災事故における管理・監督過失


 当然のことながら、私が中身についてどうこういえるものではないです。
 ので、以下はただのド素人の感想。

・目的的行為論と犯罪論の現在
・過失犯と目的的行為論

 「学説対立もの」の論文の場合、おなじ土俵に学説をならべて自説の主張と他説への批判を展開していくのが常道かと思います。
 が、これら論文では、他説からの批判に対して同レベルで反論するにとどまらず、「そういうお前らだって、知らず知らずのうちに目的的行為論の前提を共有してるぞ」と、他説の中にある、目的的行為論的な側面をえぐり出しています。

 いわゆる「釈迦の手のひら論文」ですね。

 釈迦如来:目的的行為論
 斉天大聖:その他行為論

・犯罪論体系と構成要件概念

 もとが法学教室掲載ということで、若干の窮屈感を感じる(文字数的な)。
 この論文よりも、本書の他の論文でも参照されている「体系的思考と問題的思考」(法学教室102号(1989))のほうが気になる。

・因果関係の「相当性」に関する一試論

 死にかけの「相当因果関係説」をどうにか活かせないかを模索したもの。
 相当説の枠内で、判例的な、あるいは客観的帰属の理論的な考慮を取り込めないかと。

 残念ながら、この数十年後に「さよなら相当因果関係説」論文がでてフィニッシュ!

刑法における因果関係論をめぐって : 相当因果関係説から危険現実化説へ(慶應法学)

・違法性における結果無価値と行為無価値−いわゆる偶然防衛をめぐって

 偶然防衛を題材にしながら、結果無価値論・行為無価値論の再定位を論じたもの。

P.157
「いかなる根拠と基準によって、違法要素のなかで「事前判断の要素」と「事後判断の要素」とを合理的に区別するか」

 違法要素の中でも、事前・事後どちらか一方ではなく、事前に判断すべきものと事後で判断すべきものがあって、その適切な使い分けが必要ということですね。

 「行為無価値と結果無価値という対概念に「幻惑」されることによって」などということが書いてあったりもします。
 確かに、従前の「行為無価値/結果無価値」という軸では違法性の判断をうまく制御できないように思えます。自説を維持するために、互いに大事なものを捨ててしまっているようにも見えますし。

 そうすると、論者の怨念がまとわりついた「行為無価値」「結果無価値」という概念自体、もう使わないほうがいいんじゃないですかね。
 本来のあるべき機能に即して「事前/事後」という軸で統一してしまえばいいような。

 「さよなら行為無価値・結果無価値」論文が求められている(もちろん、一定の役割を果たしたことに対する感謝の気持ちを忘れずに)。

 ちなみに、この「使い分け」という発想、印紙税法で課税事項は「文書」で判断、納税義務者は「実体」で判断という印紙税法における「二分論」(畢竟独自の見解)と同様な発想です(我田引水)。

P.162
「そもそも、以前からこれほど見解がいちじるしく対立している論争問題において、いまさら「法感情に反する」という批判をいくら積み重ねても不毛といわなければならない。当然のことながら、クールな理論的分析のみが議論を進展させるのである。」

 偶然防衛不可罰説に対する批判への応答。
 不毛とか、もうボロクソ。

 「法感情に反する」という批判の薄弱さ、この論点にかぎらないことです。

P.169
「主観的要素(とくに、未遂犯における故意)は客観的事実に還元できるのであり、その客観的要素を違法要素として捉え直すべきだともいわれる。しかし、主観的要素を客観的事実に還元できるというのは、主観的要素は(客観的事実たる)状況証拠によって認定されるという訴訟法上の認定の仕方を言い直したものにすぎない。そもそも実体法上の要件とは、まさにそのような状況証拠によって証明されるべき対象を示すものであって、ある事実がそれとは別の客観的事実からの推認によって認定されるからといって、それらの客観的事実そのものが実体法上の要件となるわけではない。」

 実体法レベルの要件そのものと、それを訴訟法上何によって認定するかとの混同を諌めるもの。

 ただし、この記述でいう未遂犯における故意は、あくまでも危険性判定のためのひとつの「要素」であって、「要件」そのものではないように思います。故意があれば危険性が高まることはあるのでしょうが、他方で故意がなければおよそ可罰的危険性がなくなるわけでもない。
 ので、実体法/訴訟法のみならず、要件/要素の区別も大事です。

 なお、印紙税法(実体法)と二段の推定(訴訟法)との関係を論じた前回の記事でも、この点を常に意識していないと、危うく混同しそうになるところでした(分けきれていないかも)。

二段の推定と契約の成立と印紙税法 〜印紙税法における実体法と手続法の交錯


 脱線しますが、未遂犯と故意の関係について思うところ。
(危険判断における故意の位置づけに触れたいだけなので、そもそも危険性をどのように判断するか、という肝心の本体部分は脇においてます。)

 A ナタデココで撫でまわしてころそう
  ⇒いくらそう思ってても危険とはいえないでしょう。

 B Aの被害者が致死性のナタデココアレルギーだったら
  ⇒行為者が知らなくっても危険ではあるでしょう。

 C 被害者に銃口を突きつけ引き金に手をかけるが、引き金を引く気はない
  ⇒つもりはなくってもさすがに危険だよ。

 これら例からすると、危険性判断においては、
 ・行為が危険でないなら、いくら故意があっても危険にはならない。
 ・行為が相当に危険なら故意を考慮する必要はない。
とすべきではないでしょうか。

 行為が中立的でそれだけでは危険性の有無ができない場合に、主観を考慮すればいいと。
 ただ、主観を考慮するにしても、必ずしも故意そのものである必要はなく、危険性のある行為を遂行しようとする意思(行為意思)でも足ります。
 また、銃器の扱いに慣れている人がそこそこの気分で実行しようとする場合と、ド素人がやる気満々で実行しようとする場合とで、ド素人のほうが危険性が高いということもないでしょう(アブねー奴、という意味では危険ですが)。

 ので、危険性判断における主観の位置づけは、あくまでも補助的・付加的な役割にとどまると考えられます。

 もちろん、故意がなければ未遂犯は成立しません。
 が、正当防衛や共犯などを視野に入れると、危険性判断(違法性)と故意(責任)とは区別しておくのがよいかと。

 あるいは、故意概念のほうを、抽象的なころすつもりで足りるとするのではなく、具体的な行為に向けられた意思とすることもありうるでしょうか。
 しかしそうすると、Cの場合、危険性のある行為を認識している以上故意ありとなって、うっかり結果を発生させたら故意既遂犯となりかねない。
 それはさすがに過失犯だろうという気がします。


 では、Bで結果が発生した場合はどうか。
 「ナタデココ撫で」で人をころそうとする異常な行為が「致死性のナタデココアレルギー持ち」とコラボすることで起きた奇跡。

 故意の内容としては、やはり被害者が致死性のナタデココアレルギーであることの認識は要求すべきだと思うのですが、どうでしょう。
 自己の行為の具体的な危険性の認識とその危険を実現しようとする意思の両方が必要ではないかと。
 因果関係を「危険の現実化」とするなら、故意の内容もそれにあわせて変質させるべきではないかと思うのですが。
 それをどのように規範的に根拠付けるか、特に何のアイディアも思い浮かんでいませんけども。
 
 ではってことで、話を巻き戻して危険性判断(違法性)にもそのような認識を必須とすべきでしょうか。

 被害者が抵抗することが正当防衛として正当化されないとしたらおかしいです。行為者が無自覚とはいえ、被害者がそれを甘受すべき言われはないわけで。
 ので、危険性判断(違法性)レベルでは当該認識は要求すべきでないと。


 実体法と訴訟法を区別することは大事。
 なんですが、そのせいで実体法の教科書の中で事実認定のことがさっぱり触れられないとしたら、それはそれで弊害。

 それぞれの陣営から、未遂犯の故意が主観的違法要素になるか否かが論じられているものの、教科書レベルだとそこで終わってしまいます。
 が、その先、具体的にどのような要素をもってどのように危険性・故意を判断するのか、といった事実認定・証拠構造のところまでフォローしてほしいところ。
 実体法内部で説の優劣を決めることもできるのでしょうが、事実認定レベルで使い物になるか、というのも説の優劣を決めるのに重要な要素になるはずですし(かといって、要件事実論に関する研修所見解への阿り度の高い、民法教科書みたいになるのもどうかとは思いますが)。

 と、ここまで書いてきてふと思ったのが、やはり主観面は危険性という要証事実に対する間接事実・間接証拠にすぎないのではないか、という気がしないでもない。


 さらにいうと、犯罪の実質的要素を「違法性/責任」に二分すること自体、不適切なのではないかと思わないでもない。
 どちらにも居場所のない要素を「処罰条件」とかいったり、業務性・常習性などといった要素を無理やり違法性か責任に引きつけて説明したり、あるいは違法性・責任で説明しきれないものを「政策説」で根拠付けたり。
 すべての犯罪要素をカバーしきれていないのではないかと。

 現状論じられている全ての犯罪要素を
  ・行為/結果
  ・人/物
  ・事前/事後
  ・主観/客観
  ・形式/実質
などなどの切り口で分解して、あらためて組み直してみたらどうでしょう(オーバーホール刑法総論)。

 たとえば、「正当防衛」にしても、現状では違法性阻却事由の中に押し込められて論じられています。
 が、個々の要件ごとに事前判断が必要だったり事後判断が必要だったり、あるいは主観を考慮したり客観のみで判断したり、中身はバラバラなわけです。
 バラバラといっても、それぞれの要件はそれぞれの機能を適切に果たすためにそういう考慮をしています。
 にもかかわらず、それを「違法性」という一つの概念で説明しきるのは無理があるんじゃないのかと。

 犯罪の処罰目的と個々の犯罪要素の間に、「違法性/責任」という中二階的な概念を挟むことで議論がクリアになる、というなら意味のあることでしょう。
 が、現状では、むしろ個々の犯罪要素が適切な機能を果たすことの邪魔になっているのではないか、との認識。

 今はもうないのかもしれませんが、
  ・違法性は主観と客観の統一体
  ・正当防衛は違法性阻却事由
  ・ので正当防衛には防衛の意思が要求される
みたいな論述。

 なにかを論証しているようで何の論証にもなっていない。
 違法性という概念を用いずに防衛の意思を根拠づけよ、としたほうが生産性のある議論(この対義語が不毛な議論)ができると思うんですけど(縛りプレイ)。

 そもそも、犯罪の実質的要素が違法性と責任で構成されている、という点では見解が一致しているにもかかわらず、その中身で争っているという状態が私にはよく理解できません。
 同じ電車の右の車窓を見ている人が「私には山が見えている」といい、左を見ている人が「いやいや山なんか見えない、私には海が見えている」と言って争っているような。
 違うところを見ているんだから、当然違うものが見えるでしょうと。

 違法性/責任といった立派なワードの取り合いをしている、と理解すればいいんですかね。
 
 あまり詰めても私の能力ではまとめようがないので、このへんにしておきます。

・火災事故における管理・監督過失

 あくまでも「個人責任」ベースの現行刑法の枠内で、管理過失・監督過失をどのように組み立てるかを扱ったもの。

 私個人の関心事は、「組織犯罪」であることを正面から扱うことはできないか、という点にあるので、すれ違い(極々個人的な事情)。

藤木英雄「公害犯罪」(東京大学出版会1975)


 以上、ぜひとも読んだほうがいいのですが、そうお気軽に入手できるものではないので、そういう意味ではおすすめし難い(クレイジープライスなのはこのご時世のせいではない)。

 こちらなら、まだ手に入りやすいですかね。

井田良「変革の時代における理論刑法学」(慶應義塾大学出版会2007)
https://www.keio-up.co.jp/kup/webonly/law/riron/sp.html
posted by ウロ at 08:40| Comment(0) | 刑法
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