2021年01月18日

橋爪隆「刑法総論の悩みどころ」(有斐閣2020)

 分析が鋭利すぎて、刑法学の見えちゃいけない部分が見えちゃっている。



橋爪隆「刑法総論の悩みどころ」(有斐閣2020)


 たとえば、因果関係に関する次のような記述(11頁)。

そもそも危険の現実化が因果関係の判断基準とされるのはいかなる根拠に基づくものだろうか。条件関係が認められても、危険の現実化の関係が欠ける場合に結果帰責を否定すべきなのはなぜだろうか。

この問題に対して理論的に回答することは実は困難であり、実行行為が結果発生の具体的危険性を有する行為である以上、その危険性が具体的結果として現実化した場合に限って、結果帰責を肯定するのが妥当であるという形式的な説明にとどまらざるを得ない。ここでは理論的な限定というよりも、いかなる範囲まで処罰することが刑罰権の行使として適切かという刑事政策的な観点が重視されている。(略)

いかなる範囲までの結果惹起を行為者の「しわざ」として帰責するのが妥当かという社会通念に照らした合理的な価値判断が必要であろう。それだからこそ、因果関係論においては、安定した判断構造を担保するために、具体的な判断基準を明確化する要請が強いといえる。


 理論的な根拠付けは困難だそうで。
 にもかかわらず、学説上はこぞって「危険の現実化」説にのっかってしまっている現状。

 『構成要件は違法有責類型だから折衷的相当因果関係説が妥当』
 『行為は主観と客観の統一体であるから折衷的相当因果関係説が妥当』

 こんな感じの、本質論めいた根拠付けをしていたかつての学説は、一体なんだったというのでしょうか?
 そしてそんな議論に真面目に付き合わされていた、当時の学習者の労苦よ。

 なお、ふたつとも折衷説の記述であることに悪気はなく、下記書籍であげつらわれていたものの引用です(責任転嫁)。

【参照】
松澤伸「機能主義刑法学の理論―デンマーク刑法学の思想」(信山社2001)


 で、本書では実際に、「危険の現実化」をどのような要素を拾ってどのように判断するか、という「下位基準」の開発に記述が割かれています。
 危険の現実化という定式には異を唱えることなく、妥当な結論を導ける下位基準群を提示する、という開発競争が学説のメインストリームになっているようで。

 「妥当な」というのも、処罰すべき/すべきでない、という感覚が先にあって、それら感覚的な結論を整合的に導けるか、というものにすぎないように思われます。
 そしてその下位基準が「危険の現実化」という標語・コトバから離れていなければ、どのようなものであっても特に理論的な制約はないのでしょうし。

 あとは最高裁様に、つまみ食い的にでも採用していただくだけ。

 「感覚的」というのが言い過ぎだとすれば「刑事政策的」に言い換えても構いません。
 が、何かしらのデータに基づく主張でもないので、「刑事政策的に処罰すべき」と「感覚的に処罰すべき」は互換性が保証済み。

 そもそも、「危険の現実化」によってどのような政策目標を達成すべきかが特定されていないのならば、いかなるデータを収集すべきかも決めようがありません。
 たとえば、「特別予防」を目的とするならば、過去に有罪認定された者がどのような影響を受けたかのデータを収集すべき、となりますし、他方で「一般予防」を目的とするならば、処罰/不処罰によって一般人にどのような影響を与えたかのデータを収集すべき、といったように。

 本来ならば「処罰目的論」のところで、刑法がいかなる政策目標を達成すべきかを決め打ちしなければならないはず。のに、特別予防・一般予防・応報などがああでもないこうでもないと列挙されるものの、結局どれでいくのかはっきりさせない教科書がほとんど。
 ので、個別論点において「処罰すべき/すべきでない」といったところで、なぜそのような結論をとるべきなのか、「ぼくが、そうするべきだと思ったから。」以上の根拠を示すことができない。

 「危険の現実化」のような理論的な根拠が弱いものを基準とするならなおさら、理論面からも根拠付けすることができなくなるわけです。危険の現実化のお膝元でどれだけ精緻な下位基準を並べたところで、大元の根拠が弱いことに変わりはない。
 結局のところ、「みんな」が納得する結論を導けるかどうか、でしか決めようがなくなる。

 ここまでいくと、理論派の人には敬遠されがちですが、前田雅英先生がいうところの「国民の規範意識」とかいう例のアレと同じですよね。
 どのような事実的連関があれば結果を行為に帰責してもよいと「国民が思うか」とか、行為者にどのような認識があれば故意責任を帰責してよいと「国民が思うか」で、犯罪要素の中身を決定するという(学生時代に読んだきりでうろ覚えなので、前田説そのものではなく「モデル論」としてご理解ください)。



前田雅英「刑法総論講義 第7版」(東京大学出版会2019)


 と、刑法学者がこぞって下位基準の開発競争に興じているのが現状のようですが、そもそもこれって「実体法」レベルの問題なんですかね?
 危険の現実化という実体法レベルの要証事実を判断するための「間接事実」の問題にすぎないのではないのかと。
 これはもはや「事実認定論」の領域。

 もしそうなのだとしたら、これまでの実体法と地続きで議論するのではなく、ちゃんと正面から「事実認定論」の成果を取り入れた形で論じてほしいところ。


 ちなみに、上述した前田雅英先生の見解のところでふれた「国民が思うか」という鉤括弧の中身について。

 こんなもんどうやって判断するんだよ、と思うところですが、前田先生は、これまでの裁判官の判断は信頼できる、として裁判官の判断に全面的に委ねているようにみえます(私の誤読がなければの話)。

 このことを正面から反映して記述するならば、

  どのような事実的連関があれば結果を行為に帰責してよいと『「国民が思う」と裁判官が思うか』

という入れ子な感じになるのではないかと思います。

 裁判の都度、実際に「国民」の人たちに、裁判記録一式を持参してご感想を聞いて回ることなどできるわけもなく。
 結局のところ、裁判官が「国民がどう思うか」を判断することになるので、こういう入れ子構造になる。

 なお、「裁判員裁判」もありますが、裁判員は国民の極々一部の人にすぎないので、ここでは裁判官側に組み入れられる(吸収される?)ものなのでしょう(さらに裁判の民主化なるものを先鋭化していくと、「インターネット裁判」という構想に向かうのでしょうか)。

 どれだけ純客観的な見解であっても、結局のところ「裁判官が思うか」で判断されることに変わりはありません(ここが「AI裁判官」に代替されれば別の議論になります)。
 前田説の特色は、そのことを実体法の議論に正面から持ち出したということと、「(国民が)思う×(裁判官が)思う」の重ねがけになっているというところ。

 危険の現実化という規範風のものに理論的な根拠がないとしても、「危険の現実化」というコトバの範囲に含まれるか、という程度の枠としては機能しています。
 他方で「国民の規範意識」というコトバには何の手がかりもない。ハードケースに対して裁判官が「これが国民の規範意識だ」と判断したとして、なにがしかの検証を行うことは不可能。

 「自分には妖精がみえる」というのと同等の、検証不能案件。
 我々が見えていないだけで本人には本当に見えているのかもしれません。だとしても、それは本人にしか分からない。

 なお、他人事みたいな顔しているかもしれませんが、不能犯のところの「具体的危険説」なども、妖精案件だと私は思っています。
 「一般人が危険と感じる」って、どうやって実証するんですか、と。これも全面的に裁判官が「一般人ならこう思う」と思うところにおまかせするしかない。

井田良「講義刑法学・総論 第2版」(有斐閣2018)

 「国民」も「一般人」も、概念としては存在するものの、観測しようとすると存在していないことになる。
 例の量子論の世界でしょうか。

パラドキシカル同居 〜或いは税務シュレディンガーの○○

 本来はここに「理論」を導入することで白黒つけるべきなのでしょう。が、現状はその「理論」が不在という状況。


 話を戻して、私が思うに「危険の現実化」などという定式は、学説が「つかえる」因果関係論を提示できなかったことから産み出された暫定基準のようにみえます。
 さしあたり特定の処罰目的論を前提とすることなく、妥当な結論を柔軟に導くことができる実務家の知恵のようなもの。

 のに、学説までもがこぞって最高裁の下請け作業に明け暮れているのだとしたら、とても違和感があります。
 学説がやるべき本来の仕事は、裁判所が暫定基準でしのいでいる間に、「つかえる」因果関係論を確立することではないのでしょうか。
 もちろん、さしあたりの下位基準の開発作業も進めつつでもいいのですが、それは決して本業ではない。


 「因果関係論」で代表させましたが、以降の論点も総じて、下位基準による判断手法の精緻化が志向されています。
 グランドセオリーについても一応議論のご紹介はあるものの、かつてほど重きは置かれておらず、主戦場は下位基準レベルの議論。
 おかげさまで、どういう立場の人が読んでも参考になってしまう(いい事ですね)。

 もし仮に、因果関係論が「危険の現実化」という看板からすげかわったとしても、下位基準そのものはどうとでも流用可能なもの。
 従前の相当因果関係説で議論されていた事柄のうち、純理論的な対立を除いた部分を危険の現実化に流用できるのと同じ。無残にも破壊され尽くされた相当因果関係説の残骸から、使えるパーツを取り出して危険の現実化に組み込むイメージです。

 規範の論証薄めであてはめ重厚な、今様の模範答案を書くには最適な参考書だと思います。


 以上、刑法解釈論を、ガチではなく「お勉強」「頭の体操」として嗜んでいた身からすると寂しい限りですが、実務寄り添い系な今どきの傾向からすれば、当然の流れなのでしょうね。

 一応未来予測をしておくと、藤木英雄先生級の超天才が現れて、ちゃんと理論的基礎を備えた因果関係理論を定立してくれるのではないか、と期待しております。
 前田説がガチガチの刑法理論を溶かしっぱなしにしたものを、しっかり組み立て直してくれる感じの。

藤木英雄「公害犯罪」(東京大学出版会1975)
posted by ウロ at 11:50| Comment(0) | 刑法
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