2021年06月14日

フローチャートを作ろう(その4) 〜拡大解釈(拡大系)

 前回、前々回と余計なものがはさまりましたが、話を戻して次は【拡大系】の法解釈です。

フローチャートを作ろう(その1) 〜文理解釈(付・反対解釈)
フローチャートを作ろう(その2) 〜定義付け解釈
フローチャートを作ろう(その3) 〜縮小解釈(縮小系)


 文理解釈・定義付け解釈では適用範囲に含まれないが、適用されないことが妥当でない場合に拡大系の解釈が試みられます。

拡大解釈プロセス.png


 すでに述べたとおり、拡大系は、縮小系と比べてなぜか手法が充実しています。

 ・拡大解釈
 ・類推解釈
 ・一般命題化
 ・勿論解釈

 「一般命題化」というのは一般的な用語ではありません。
 これはたとえば、民法94条2項から「権利外観法理」という一般命題を抽出し、それを別の事案に適用するというものを想定しています。

民法 第九十四条(虚偽表示)
1 相手方と通じてした虚偽の意思表示は、無効とする。
2 前項の規定による意思表示の無効は、善意の第三者に対抗することができない。


 「類推解釈」は、民法94条2項の典型例である事例aと似ていることを理由に、事例bにも適用する、というものです。
 これに対して「一般命題化」は、事例aとは似ていない事例cに「権利外観法理」という一般命題を経由して適用するというものです。類推解釈とは思考の「型」が違うので区別することにしました。

 なお、個別類推・総合類推という区別もありますが、これは条文が単数か複数かという違いなだけで思考の型としては違いはありません。ので、チャート上は区別してありません。


 「勿論解釈」は、『本権は占有(権)より強い』などといった抽象命題(と呼んでおきます)を使って、占有訴権があるなら本権にも物権的請求権がある、などと解釈するものです。

民法 第百九十七条(占有の訴え)
 占有者は、次条から第二百二条までの規定に従い、占有の訴えを提起することができる。他人のために占有をする者も、同様とする。


 ここでは形式論理は成立していません。

【不成立】
 ・占有には物権的請求権がある
 ・本権は占有より強い
 ・ゆえに本権にも当然物権的請求権がある

 この論証の説得力は、形式論理にではなく「本権は占有(権)より強い」という抽象命題が有無を言わせないほど強烈なものであることに依存しています(他の例でいうと「生命は財産より価値が高い」とか)。
 「占有にあるからといって本権にあるとは限らないじゃないか」といった、形式論理に基づく正当な異論を許さないなどの強烈な。


 これら手法の順序としては、ぎりぎり言葉の範囲に含められる場合は「拡大解釈」、含められないが似ている場合は「類推解釈」、似ていないが一般命題が当てはめられる場合は「一般命題化」、強烈な抽象命題がある場合は「勿論解釈」、という感じになるかと。

 こう並べてみてわかるとおり、「勿論解釈」だけノリがだいぶ違います。
 ので、チャート上は拡大解釈とは分岐させて独立に判断する形にしてあります。

 イメージ化するとこんな具合。

拡大系イメージ.png



 これら解釈ができない場合は、縮小系と同じく、反制定法解釈、例外則、立法論と続きます。

 ただし、拡大系の「反制定法解釈」というものの具体例が、さしあたり思いつきません。
 拡大系の手法は豊富だし、実体法レベルでも一般条項が活用されているし、ということで、いずれかの解釈手法で解決できる場面が多いということかもしれません。
 で、いずれの解釈手法も及ばないのだとしたら、それはもはや解釈論の範疇ではどうにもならないと。というか、勿論解釈なんてもはや立法論みたいなものでしょうし。

 拡大系の反制定法解釈があるのだとしたら、法の趣旨に反するにもかかわらず、何のつながりもない全く別の事例に横流しする、というようなものになるのだと思います。


 刑法では「拡大解釈は許されるが類推解釈は許されない」というお題目が唱えられています。

 が、処罰されるかされないかの瀬戸際だというのに、この拡大解釈/類推解釈の区別がはっきりしていない。
 抽象的にいえば「言葉の範囲内にぎりぎり含まれるか」ということになるのでしょう。が、それ以上詳細な判断基準は示されていない。

 ここでも「国民の予測可能性」を基準にすることが考えられます。国民が予測できる⇒拡大解釈、できない⇒類推解釈、といったように。
 が、これを基準としてしまうと、たとえば「勝手に電気とったら窃盗罪で処罰されるって普通の人なら思うでしょ」という理由で『所有物』(当時)に電気を含めても問題ないということになりかねない。「物は有体物に限られる」なんていうのは法律専門家の特殊な考えであって、国民一般の考えとは違うんだと。

 他方で、『悪意』とは悪い気持ちを持つことであって、単に知っているだけで悪意ありとされてしまうのは「国民の予測可能性」を害するため許されない、などという帰結も出せてしまいます。が、こちらも妥当ではないでしょう。
 ということで、「国民の予測可能性」はここでも基準としては機能し難い。

 抽象概念としては、「言葉に含まれる」と「言葉に含まれないが似ている」とは、明らかに違うはずです。が、電気窃盗を処罰すべきなどの現実的な要請のせいで、明確な区別基準をいまだに示せていないというのが現状でしょうか。


 次回は、制定法を対象とする解釈手法を離れて、「慣習(法)」を対象にしてみようと思います。
posted by ウロ at 11:12| Comment(0) | 基礎法学
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