2020年12月21日

アレオレ租税法 〜立案者意思は立法者意思か?

 本ブログは、あれやこれやを論じている風で、基本的には同じところをグルグルしているのが実相です。
 グルグルしながらでも、少しづつ上昇していると信じたいところ。

 先日の「家なき子特例」の一連の記事も、当初は同特例の制度趣旨を論じていたはずが、最終的には「文言解釈/趣旨解釈」「納税者の予測可能性」「借用概念/固有概念」といった、本ブログでお馴染みのネタ(いつものやつ)につながっていきました。

僕たちは!出戻り保護要件です!! 〜家なき子特例の趣旨探訪1
ぼくたちは出戻り保護ができない。 〜家なき子特例の趣旨探訪2
あの日見た特例の趣旨を僕達はまだ知らない。 〜家なき子特例の趣旨探訪3(完)
からくりサーカス租税法 〜文言解釈VS趣旨解釈、そして借用概念論へ

 記事を書きながら過去記事を読み返してみたりするのですが、その中で若干違和感のある記述が。

 金子宏・中里実「租税法と民法」(有斐閣2018)

「全面的にそのとおりだなあ、とは思うのですが、前田達明先生の「法解釈論」に関する論文を最近読んだばかりの私からすると、その解釈のスタートは「立法者意思」だ、とされていないのがやや残念(註に「議会の意図」という文言があるので、そこにそういった意味合いを見出すことができるかもしれませんが)。」

 法解釈において立法者意思からスタートすべき、といった物言いをしています。
 が、他方で下記の記事だと、それとは逆方向っぽいことを言っています。

ぼくたちは出戻り保護ができない。 〜家なき子特例の趣旨探訪2

「立案担当者が開陳する見解、というのも必ずしもあてにならない。

 たとえば民法415条但書の帰責事由について、契約(=合意)を重視するか取引上の社会通念も重視するか、すでに解釈割れてますからね。改正したばっかりだというのに。
 それを外野が云々するならともかく、立法に関与した人の中でも争われているという。

民法第四百十五条(債務不履行による損害賠償)
 債務者がその債務の本旨に従った履行をしないとき又は債務の履行が不能であるときは、債権者は、これによって生じた損害の賠償を請求することができる。ただし、その債務の不履行が契約その他の債務の発生原因及び取引上の社会通念に照らして債務者の責めに帰することができない事由によるものであるときは、この限りでない。

 そうすると、やはり出来上がった文言をベースに解釈するしかないでしょう。
 この場合だと、文言上優先劣後の関係をつけているわけではないのだから、どちらも重視すべきと解釈すると。」


 これは、無意識のうちに改説したってことなのか。
 と思ったのですが、この違いは《仮想/現実モデル》で説明ができそうなので、以下、言い訳を重ねてみます。

 なお、『租税法と民法』を含めた一連の書籍群、例によって「マケプレのクレプラ」(アマゾンマーケットプレイスのクレイジープライス)になっていますね。
 さすがにこうなってしまったら、誰も買わないよなあ。


 後者の記述で想定していた意思の主体は、国会議員ではなく立案担当者です。
 そこでは、立案担当者執筆にかかる改正本の記述を、そのまま立法趣旨・立法者意思として理解することに対する、強い違和感があったわけです。

 こう書いてみて気づくことは、
 
  ・立案趣旨 ≒立案者意思(立案担当者の意思)
  ・立法趣旨 ≒立法者意思(国会(議員)の意思)

のふたつは、別概念として明確に区別しておかなければならないということです。

 そして、区別をした上で、
  ・立案趣旨を立法趣旨とみてよいか。
  ・その立案趣旨=立法趣旨を法解釈において重視すべきか。
と段階を踏んで検討すべきなのでしょう。

 このような区別は、もしかしたら一般的な見方ではないのかもしれません。
 が、本稿の主題上区別せざるをえないので、以下では、用語の使い分けをしていきます。

 なお、ここで「=」ではなく「≒」としているのは、式の左辺を「客観」・右辺を「主観」として区別しておく必要があるからです。
 立案者・立法者のつもり(主観)が条文に反映されていないのであれば、その主観は法解釈において重視すべきでない、となるはずです。
 明らかに「立法の過誤」だというならば、話は別でしょうが。


 この区別を前提に、立案趣旨を立法趣旨として理解してよい「条件」をあげるとしたら、次のようなものになるかと思います(以下これを《仮想モデル》といいます)。

【仮想】
 ・立案者は1人
 ・その立案者の意思が過誤なくそのまま条文案に投影されている
 ・国会でもその意思が立案趣旨として明瞭に説明されている
 ・国会では何らの反対もなく可決

 このような条件が綺麗に整っている場合であれば、立案趣旨=立法趣旨といえるでしょうし、それをそのまま法解釈に使うべきなのでしょう(もしかして、極めてマイナーな制度であれば、今でもこんなノリで成立しているのかも)。

 他方で、現実にはすんなり一気通貫で通過するわけではない。

【現実】
 ・立案者は多数
 ・立案者間での合意形成のため、条文案は妥協の産物となる
 ・国会では立案者のうちの一部の人が趣旨説明を行う
 ・国会で条文の修正が行われる

 と、このように、各段階で様々なノイズが入る。

 「ノイズ」とは言いましたが、意識高い系の立案担当者が『あの法律、俺が作ったんだぜ!』と我が物顔でドヤるための条件にとって、にすぎません。
 むしろ、このような立法過程こそが「議会制」の本来のあり方であって、《仮想モデル》にはある種の優成思想あるいはエリート主義を感じざるをえません。

 「国民にわかりやすく」などといった立法目的を掲げながら難解な条文を積み上げている人たちの、いかにも考えそうなことよ。


 《仮想モデル》の条件がきちんと整っている場合であれば、法解釈において立案趣旨=立法趣旨を重視するのは当然、ということになるでしょう。

 が、現実には、立案者が示す見解であっても、それがそのまま実際の制度に反映されるとは限りません。
 他の立案者や国会議員の意思が混ざり込む、あるいは誰の意図とも異なる条文ができあがる、ということがあるわけです(立案者・立法者と条文(案)作成者が異なる場合)。

  ア 立案者意思 ≠ 他の立案者意思
  イ 立案者意思 ≠ 立法者意思
  ウ 立案者意思 ≠ 立案趣旨
  エ 立法者意思 ≠ 立法趣旨
 (さらに、これらに条文(案)ともズレるパターンが加わります)

 「国民にわかりやすく」といいながら難解な条文案を積み上げる所作、ここでいうウに相当すると思います。
 もしかして、立案者のつもりとしては本気でそう思っていたのかもしれませんが、実際の条文(案)をみるかぎり、およそそのような親切心が読み取れるような仕上がりにはなっていない。

 私が、意思・主観重視の法解釈論に与しない理由はこのあたりにあります。
 口先ではいくらでも綺麗事を言うことはできます。が、条文(案)には隠しようのない本音がダダ漏れ。

 法解釈においてはあくまでも条文から読み取れる客観を重視すべきであって、主観はあくまでも客観を解釈するための一資料という位置づけに甘んじさせるべき。
 立案者の見解だからといって、他の見解と比べて当然に優先的な採用がなされるものでもない。
 特に、できあがった条文と矛盾するような見解なら、なおさら。

横流しする趣旨解釈(TPR事件・東京高裁令和元年12月11日判決)


 以上を踏まえて、前述の記述を整合的に説明するならば、次のようになります。

 当初の記事では、(立案者云々にかかわらず)「立法者意思」が明確で条文とも整合する場合を想定して同意思を法解釈のスタートにすべきと書いた、これに対して、適格要件や家なき子特例の記事では、これら実際の制度・条文に「立案者意思」(事業・従業者引継、出戻り保護)が反映されていないことから、「立案者意思」は重視すべきでないと書いた、と。

 もちろん、常に立案者意思を軽視してよいのではなく、出来上がり方が《仮想モデル》に近いものであるのならば、立案者意思を重視すべきということになるのでしょう。


 ここで、私が《立法回路》としてイメージするモデルを図解しておきます(あくまでモデルです)。
立法回路.jpg

 一番下の立案者意思から条文を読み解くの、迂路ってんなあって感じですよね。
 立案担当者の解説本というのも、この回路を経てきたことを踏まえた記述になっているのならばいいのです。
 ではなく、立案者意思を前面に押し出した解説となっているとすると、それは違うんじゃないのと思うわけです。

 「国民にわかりやすく」なんて大義名分も、最初にこの回路に電気を通すスターターとして使われるだけで、そのあとはこの回路を通ることがない。にもかかわらず、出来上がった後に「国民のために改正したんです。」とか言って改正理由のお題目として再度引っ張り出されがち。

 一番上と下だけ本物で、あとの中身が新聞紙な札束みたいなものよ。


 《言い訳の数だけ法解釈が上手くなれるよ》とは、皮相的な見方ではありますが、少なくとも今回は、どうにか整合的に説明できないかと考えたことで、うまい筋道が見つかる結果となりました。

 間違いだと思ったら素直に認めることも大事ですが、他方で、すぐに白旗あげるのではなく、どうにか辻褄合わせられないか足掻いてみることも同じくらい大事、みたいですね。
タグ:立法者意思

2020年12月14日

からくりサーカス租税法 〜文言解釈VS趣旨解釈、そして借用概念論へ

 さて、前回までで小規模宅地の特例第三期三部作は終了しました。

【小規模宅地の特例(家なき子特例) 第三期三部作】
僕たちは!出戻り保護要件です!! 〜家なき子特例の趣旨探訪1
ぼくたちは出戻り保護ができない。 〜家なき子特例の趣旨探訪2
あの日見た特例の趣旨を僕達はまだ知らない。 〜家なき子特例の趣旨探訪3(完)

 そこでは、同特例の趣旨が、どう頑張っても「出戻り保護」にはならないことまでは分かりました。
 では一体何を保護しようとしているのか、というと結局分からずじまい。

 それはともかく、これら記事の裏テーマたる《文言解釈 VS 趣旨解釈》、次にネタにするとしたら、例のTPR事件の最高裁判決が出されたときになる予定です。

横流しする趣旨解釈(TPR事件・東京高裁令和元年12月11日判決)

 以下は、いずれくるそのときまでの、《幕間》の地ならし・露払い記事です(不受理となったら泣く)。


 上記高裁は趣旨(と彼らが思うもの)重視の解釈をとったわけですが、最高裁が趣旨をとるか文言をとるかは正直予測がつきにくい。
 下記の最高裁が割と予測しやすかったのとは対照的。

解釈の解釈の介錯 〜最高裁令和2年3月24日判決

 こちらの事件は、高裁の文言解釈(という名の司法権放棄)がアレ(ストレンジ・エキセントリック・ビザール)すぎるのと、所得税法の当該文言がシンプルだったため、最高裁は趣旨解釈を採用したわけです。

 他方で、TPR事件については、私自身は文言を重視すべきだと思うものの、正直どちらに転んでもおかしくない。
 第三小法廷とは別の小法廷に係属したとして、「直近で趣旨解釈をとった判決があるから今回もそれにあわせる」みたいな判決がでる可能性も十分ありうる。

 不正確なのは承知な上で、それぞれの解釈と結論を図式化すると、

  最高裁令和2年3月24日判決
   文言解釈 納税者有利 ←高裁
   趣旨解釈 納税者不利 ←最高裁 《私見》

  TPR事件
   文言解釈 納税者有利      《私見》
   趣旨解釈 納税者不利 ←高裁

となります。
 文言解釈/趣旨解釈と当該納税者の有利/不利が連動しているようにみえますが、これはたまたま。

 ですし、文言解釈なら予測可能性があって趣旨解釈は予測可能性がない、などということでもおよそないです。
 通説的な見解は、あたかも文言解釈なら予測可能性があるかのような物言いをするのですが、「お前税法条文読んだこと無いのかよ」と言いたくなる。

【納税者の予測可能性(気のせい)】
税法・民法における行為規範と裁判規範(その1)

 むしろ趣旨から説明してもらったほうがすんなり理解できることが多い。
 前者事件で最高裁が譲渡所得の趣旨から株式の時価の算定方法を導いているの、非常に説得力がありますよね。
(ので、複雑な要件によって居住保護・事業保護ではない何かを(も)保護しようとする「小規模宅地等の特例」、趣旨から各要件を説明できないのが相当に俗悪。)


 この、どちらに転ぶか予測がつかない根本的な原因、文言解釈をとるのか趣旨解釈をとるのかの使い分けの《指針》が何も示されていないところにあります。
 文言重視の判決書と趣旨重視の判決書を両方作成しておいて、当日くじ引きで選ぶ、とかでもご立派な判決を言い渡すことは可能。

 文言重視の判決書
  ・文言によれば○○
  ・この点、趣旨からすると××
  ・しかし××は文言から離れすぎ
  ・ので○○と解釈すべき

 趣旨重視の判決書
  ・文言によれば○○
  ・しかし、趣旨からすると××
  ・○○だと結論がよろしくない
  ・ので××と解釈すべき

 同じ材料使っても、全く逆の結論を導けてしまう。

 これでは、《自分が採用したい結論が文言どおりなら文言解釈をとる、文言から出てこなければ趣旨解釈をとる》といったように、結論にあわせて融通無碍に使い分けがされているようにみえてしまう。
 あるときは、「解釈の限界を超えている」とかいって文言解釈どまりにしておきながら、またあるときには、「文言はこうだが本来の意味はこっちだ」みたいに文言からでは導けない意味内容を趣旨から導き出したり。

 こんな具合なゆえに、従来型の法解釈学はお気軽にディスられがち。

太田勝造「AI時代の法学入門 学際的アプローチ」(弘文堂2020)

 事案が違う、といえばそのとおりではあるのですが、その使い分けをもたらす違いは一体何なのか。
 税法分野でも「納税者の予測可能性の観点から、原則は文言解釈だが例外的に趣旨解釈」などと言われたりしますが、その原則と例外はどうやって使い分けるというのか。
 文字通り「納税者が予測できるかどうか」で判定するのだとしたら、納税者には難しすぎるということで、大部分の租税法規は文言も趣旨も採用できずに解釈不能、となってしまうでしょうよ。


 話はやや脱線しますが、法分野における「原則例外モデル」、私にはとても胡散臭くみえる。
 というのも、「原則例外モデル」の実態をみるかぎり、《本来は「例外」のほうを前面に立たせたいが正面切ってそれを主張するのは憚られるため、身奇麗な「原則」を傀儡として表に立たせている》だけにみえるからです。

※ただし、近時は「要件書き込み」によって文言が趣旨の操り糸を断ち切りまくっているのは記事にしたとおり。

「要件書き込み」は趣旨解釈を駆逐する。〜小規模宅地等の特例を素材に

 分かりやすい例で、契約の成立・効力を判定する際に「公序良俗」(信義則でも)をどこに位置づけるか、で考えてみましょう(通説的には効力要件なので、以下そういう書き方をします)。

 通常の説明の仕方は、合意の一致からはじまって諸々検討した後に、例外的に公序良俗に違反していないかを検討するかのように書かれることが多いです。
 が、公序良俗チェックは、こっそりバックグラウンドで粛々と実施されているのが実情。
 表立って問題になることが少ないから、例外的に考慮しているように見えるだけで。

 もし「契約の成立・効力判定フローチャート」を作るとしたら、最初のほうの分岐に位置づけるべきでしょう。
 あれやこれや細かい要件を散々検討した後に、「公序良俗違反だから無効ね」とひっくり返すのでは無駄が多すぎますよね
 ので、プログラム上は最初に組み込むのがスマート。
 
 確かに現象としては例外則っぽくみえます。
 が、実相は決してそうではなく、契約の「大前提」「土俵」「基礎条件」などとして位置づけるのが望ましいポジションどりでしょう。
(なお、これはあくまで実体法レベルの話であって、主張立証責任の分配とは別問題)


 そうはいっても、公序良俗については単に置き場所の問題なので実害はあまりありません。
 別に、公序良俗を表に出すことに後ろめたさがあるわけではない。

 問題は、税法解釈において《文言解釈が原則、趣旨解釈は例外》と位置づけること。

 最終的に文言通り解釈したからといって、最初から趣旨をガン無視して文言だけで突っ走っているわけではない。「文言どおり解釈するから安心してね」と言っておきながら、裏では密かに趣旨チェックを走らせているわけです。
 「当社は○○の目的でしか個人情報を利用しません」と言っておきながら、あれやこれやの分析にデータ活用しているような話。

 文言が原則だといいながら「常に」税法の趣旨チェックを行なっているのだとしたら、優越とまではいえないにしても、趣旨と文言を同格扱いしているということでしょう。
 のに、いかにも文言重視なフリをするのは、それこそ「予測可能性」を害すること甚だしい。
 だったら初めから、《文言と同時に趣旨も考慮するよ》と説明しておくべきでしょう。


 これと同じ問題構造なのが「借用概念」。

 こちらも、「原則は私法準拠だが例外的に税法独自に解釈する」などと「原則例外モデル」で説明がされます。
 が、結果として私法準拠で解釈しているからといって、税法の趣旨を全く無視して結論を導いているわけではないです。
 その場合でも税法の趣旨から問題がないかは、常にチェックがかかっている。

 表向きは私法に従順なように見せかけておきながら、裏では「必ず」税法によるチェックをかけている。
 だったら、初めから《税法の趣旨により解釈するが、私法解釈も税法の趣旨に反しないかぎり取り入れます》と説明すべきでしょう。

【借用概念イリュージョン】
金子宏・中里実「租税法と民法」(有斐閣2018)


 では、文言解釈と趣旨解釈をどのように使い分けるべきなのか。

 極めて断片的ですが、これまでの記事で書いてきたことからすると、たとえば次のような指針が考えられるのでは(ついでに借用概念も絡めてみます)。

・文言通りに理解し、文言から読み取れない場合に趣旨で充填する。

・趣旨で充填するにしても、個別の条文とそぐわない趣旨は持ち込まない。
 (ダメな例:家なき子特例に出戻り保護、完全支配関係の適格要件に事業・従業者引継)

・明らかに私法準拠な法概念(親族など)は私法の理解に従う。

・それ以外の概念は税法の趣旨により解釈。私法解釈はあくまでも参照用として。

・どうしても文言に反する趣旨解釈(反制定法解釈)をせざるをえない場合は、徹底的に丁寧な説明をする。

 もちろん、これに尽きるというものではないです。
 ですし、これは絶対ルールではなく、文言/趣旨、私法/税法の使い分けの安定性・信頼性を高めるためのものです。法解釈の「本質」などというものでは、およそない。

 表向きは「文言解釈が原則だから予測可能性あり」などと言っておきながら、アトランダムに趣旨解釈を混ぜ込ませるのではなく、文言解釈/趣旨解釈を一定のルールに従って運用することこそが法的安定性・予測可能性を高めることに繋がるはずです。

 以上、タイトルには、煽り気味に「文言解釈 VS 趣旨解釈」などと書きましたが、決して対立概念ではなく、用法用量を守って正しく使い分けをしましょう、というのが本記事の結論。

2020年02月03日

税法・民法における行為規範と裁判規範(その7)

 裁判規範とは別に行為規範を措定したところで、「生の」納税者の予測可能性を高めるには不十分、というのが現実、という話をしてきました。
 税法から不確定概念を追放して明確な条文だけで構成しつくしたとしても、限界があるでしょと。

税法・民法における行為規範と裁判規範(その1)
税法・民法における行為規範と裁判規範(その2)
税法・民法における行為規範と裁判規範(その3)
税法・民法における行為規範と裁判規範(その4)
税法・民法における行為規範と裁判規範(その5)
税法・民法における行為規範と裁判規範(その6)

 こういった現状をカバーするための手当ての一つが「文書回答手続」なわけです。
 が、もちろんこれだけですべてまかなえるわけではない。

 ここから漏れいづるケースへの対処が必要になります。


 一義的な解釈しかできないような条項でないかぎり、A説、B説・・といくつかの解釈が可能なのが通常。
 のに、判決の段階ではそのどれか一つを選ばなければなりません。

《例》
 A説 課税されない  ←納税者「こっちでいくわ」
 B説 課税される   ←裁判所「残念こっちだわ」

 そうすると、納税者がA説を前提に取引をしたら、裁判所はB説を採用して課税できると判断した、という場合に納税者にとっては不意打ち、という事態が生じることになります。

 もちろん、B説は可能な解釈の中の一つであってそれ自体間違いではない。
 他方で、A説だってありえた解釈の一つだったわけです。

 にもかかわらず、A説前提で考えていた納税者は不利益を被ってしまう。
 これをそのままにしていたら、萎縮効果が生じてしまい自由な取引が大幅に制限されてしまいます。

 こんな状況なのに、いつまでたっても一義的にならない税法の明確性を求め続けたって、限界がある。

 そこで、《解釈の幅》のような概念を導入してみたらどうでしょうか。

 ありえる解釈の範囲内におさまっているかぎり、結果その解釈が採用されなかったとしても個別に救済すると。
 ただ、判決でB説に確定した後は、B説前提で取引をしなさいと。

 このように、行為規範として特定されていない段階では《解釈の幅》を認める、裁判規範として特定された後はそれを行為規範に組み込む、というように、それぞれの規範を固定したものとして捉えるのではなく、相互に影響しあって中身が充実していく、という一連の流れとして捉えるのがよさそう。

 もちろん、一度判例ができあがっても、判例変更の可能性があり、また射程の限定やサイレント変更もありえます。
 ので、このサイクルは判例がでても、そこでおしまいとはならないです(いわゆる税務ウロボロス)。

【ウロボロス例】
なぜ吸血鬼は自分の血を吸わないのか。 〜AI時代の吸血士のための生存戦略セミナー

 また、ここでは一応最高裁までいった場合を想定しています。
 が、地裁レベル・高裁レベルで終わった場合でも、そういうレベルの判決がある、ということ自体をこのサイクルの中に入れ込んでもいいと思います。

【判例理論について】
非居住者に支払う著作権の使用料と源泉徴収の要否について(その11)
非居住者に支払う著作権の使用料と源泉徴収の要否について(その12)

 このような概念、「法解釈の正解は唯一つ」とする観念からは受け入れがたいのかもしれません。
 判決によって初めてB説であることが決まったにもかかわらず、あたかも初めからB説でしたけど何か?みたいな感じのおすまし顔をしている、あのアレ。

 が、現実にはそれまでA説、B説・・と見解が別れていたわけです。
 判決段階ではどれか一つを選ばなければならないのは仕方ないとして、それら現実を無視してしまっていいのかと。箱を開けたらB説しか入っていなかったわけですけど、開けるまではどちらの説も存在しえたわけです。
(ここでビアンカ・フローラ論争を想起するのはRPG脳。リアルの恋愛じゃないのは、いいことなのか悪いことなのか)



ドラゴンクエストV 天空の花嫁

 法解釈の指針として「法的安定性と具体的妥当性の調和」ということが言われたりします。



我妻栄 法律における理窟と人情(日本評論社1955)

 が、ハードケースではどちらかを選ばざるをえないことがしばしば。

【契約書としばしば】
後藤巻則「契約法講義」(弘文堂2017)

 けども、《解釈の幅》概念によれば、その場の具体的妥当性を確保しつつ法的安定性も確保できる、二兎を追って二兎を得ることができるのではないかと(デボラはどうなるのか)。


 ちなみに、刑法学における「行為無価値論」というのも、本来こういう構造であるべきなんじゃないかと思うんですけど。

 行為者に事前に規範の問題を与える、にしても、行為者が行為無価値論の教科書を読んでから行動するわけではありません。
 ですし、実際読んでみたところで具体的な行動規範として機能するとは、とても思えない。難しいし。

 とすると、事前に定立しておく規範は、(綱渡り的な)特定の精緻な理論ではなく、そのように判断しても無理はない、というある程度幅のある理論のほうがいいのではないかと。
 (ここは思いつきで言っているだけので、だいぶ生煮え)


 ただし、刑法と税法では、厳密には衡量ポイントが違います。

  税法: 私人×国家(国民一般)
  刑法: 私人×国家(国家or社会or被害者個人)

 どちらも、表向きは「対国家」となっています。
 が、税法のほうは、国家の背後に想定できるのは国民一般にすぎないのに対し、刑法のほうは、保護法益によってその背後にあるものが変わってきます。

 「個人的法益」であれば、実態としては、

  刑法: 私人×私人

といえるわけです。

 とすると、税法の場合には立法・行政の不備を理由に納税者を救済することが認められたとしても、刑法(特に個人的法益)の場合にも同じノリで行為者を救済してもいいのか、ということが問題になりえます。


 で、この延長線上に民法があります。

  民法: 私人×私人

 こちらはガチの私人間(国家との契約などは置いておいて)。

 図式的に並べるとこんなライン。

  税法 ← 刑法 → 民法
     公的   私的

 私人間の場合に、立法・行政の不備を理由に一方当事者を救済するのはさすがにまずかろうと、なるでしょう。
 税法でいう立法・行政の不備にあたるものがあるとしたら、たとえば自分が用意した契約書の書式に不備があった、などといった場合でしょうか。
(ただ、上記図式からすると、民法でも当事者間に格差がある場合は「公的」側に寄せた判断をしてもよいのでは、というラインが見えてきますね。)

 ここに至って、どうやら民法の行為規範は税法のそれとは中身が違っていてしかるべき、となるんだろうなと。
 としても、「民法に行為規範はない!」なんてことではおよそない。あくまで中身が違う、というだけで。

 そしてまた、ぐるっと回って税法の場合でも、甲が課税されないってことは取引の相手方である乙が課税される、みたいな場面があったとすると、甲・乙両者のバランスを考えなければならない、ということになりそう。


 さて、この概念によれば、下記判決のように、通達を文言解釈するなどいった奇妙な解釈をする必要はなくなります。

解釈の解釈を解釈する(free rider) 〜東京高裁平成30年7月19日判決

 譲渡後判定という結論を導くために変な通達の文言解釈などしなくても、通達が分かりづらいことを正面から認めた上で、譲渡後と読むのも無理はない、ということで個別に救済すれば足ります。

 下記裁決なんか、順番間違えただけで課税されてしまう、なんて納税者にとって予想外もいいところ。
 理屈がヘンなのはさておき、個別の納税者の救済だけはしておくべきだったんじゃないですかね。

加算税をめぐる国送法と国税通則法の交錯(平成29年9月1日裁決)


 この概念、納税者救済の理屈としてあげましたが、反転させて使うことも可能。

 たとえば、「財産評価基本通達」を形式的にあてはめて実勢価格(時価)よりも著しく低価で評価して相続税下げる、という例のアレ、ありますよね。

 これ、たまたま相続が発生しちゃったので、虚心坦懐に通達をあてはめてみたら結果お安くなってた、なんてことではおよそない。
 相続税を減らしたいがために、意図してやっている。

 この状況で「通達使わせないなんて不平等!」などと本気では思ってませんよね、さすがに。
 あくまでも「レッツチャレンジ節税!!」的な。

 通達の中にも、こういう場面を想定して予め「例外則」が組み込まれていますし。

(この通達の定めにより難い場合の評価)
6 この通達の定めによって評価することが著しく不適当と認められる財産の価額は、国税庁長官の指示を受けて評価する。


 ので、この場合は納税者に不意打ちになることはないから、納税者不利に判断しても許される、という結論が導けると。


 税理士がこういう納税者不利なこというのはどうか、と言われるかもしれません。

 が、実際に裁判所において、形式論(文言重視)と実質論(租税正義)のラインがどのあたりに引かれているか、という見極めは必要でしょう。
 このところ、形式論を重視する判決がよく見られるものの、それでも、あまりにやりすぎれば実質論が出張ってくるわけです。

 このあたりのさじ加減を読めるようになるのが、本当の意味での『租税判例の読み方』というものではないんですかね。
 法的三段論法とか(課税)要件事実論とか、それはそれで大事なんでしょうが、それらはあくまでお作法の問題にすぎないわけで。

【リーガルマインドについて】
「リーガルマインドとは何か?」
税理士だって日常系税務でリーガルマインドを実践したい!


 また、この概念、個別の納税者の救済にとどまらない効用があるのではないか、とも思います。

 というのも、現状、租税裁判まで行ける人って「選ばれし勇者」とでも形容すべき人たちです(パパスの子として産まれるとか)。
 課税側の見解に疑問があっても、裁判で勝つか負けるかわからない状態で、「いっちょ裁判で白黒つけたるか」と思える人って、そうそういない。

 現実的な知恵として、保守的に確定申告しておいてあとから更正の請求を出す、みたいなことをせざるをえないのも、長期間裁判で争った後にがっつり附帯税とられるのきつい、というのがあるからでしょう。
 更正事由にあたらなければ、そもそもこの手法は取れないですし。

 そこで、《解釈の幅》におさまっているかぎりは課税されない、という結果が保証されていれば、安心して裁判に望めるのではないかと。
 で、その結果、租税裁判が充実していくことになり、ひいては租税法規の明確性・予測可能性を高めることにもなると。

 いつまでも条文の文言の明確性を求めるよりも、より「生の」納税者に役立つはず。
 
 ただし、これは性善説に基づいた運用であって、納税者が「自分だけは負けない」てことで真剣に争わない事態を防ぐ必要があります。
 納税者が真剣に争わず、変な判決がでても困るわけです。
(なお、ここでいう「真剣に」とは、一生懸命とか張り切ってとかいった主観面のことではなく、きちんと法解釈のお作法に従った主張、という意味合いです。)

 もちろん「法解釈は裁判所の専権事項」であって、納税者が真剣に争わなくても裁判所が課税側の主張を鵜呑みにすることはない、はず。
 が、この建前をどこまで信用するか。

 《解釈の幅》におさまっているいるかどうかの判定の中に、真剣に争ったかを組み込むことができますかね。


 さて、行為規範性が税法にはあって民法にはない、みたいな記述に対する疑問からはじまった、法規範をめぐるあれこれ。

 長々と続きましたが、たぶんこれで終われるはずです。

2020年01月27日

税法・民法における行為規範と裁判規範(その6)

 前回の(その5)で「文書回答手続」について触れました。

税法・民法における行為規範と裁判規範(その1)
税法・民法における行為規範と裁判規範(その2)
税法・民法における行為規範と裁判規範(その3)
税法・民法における行為規範と裁判規範(その4)
税法・民法における行為規範と裁判規範(その5)

税務上の取扱いに関する事前照会に対する文書回答について(国税庁)

 これ「事前照会に対する」とあって、この「事前」は「申告期限前」を意味しているんだと思います。
 国税庁の立場からすればまあそうだよなと思いつつ、(その3)までで引用した「記述B」のように、租税法学者が取引後申告前の時点で働く規範を行為規範というのはやはり解せない(しつこい)。

 この文書回答手続、取引後のみならず、資料一式揃っていて具体的な事実が動かないなら取引前でも照会できることになっています。

  「自ら実際に行った取引等又は将来行う予定の取引等で個別具体的な資料の提出が可能なもの」

 こういう絞りをかけているのは、事実がすべて確定している状態でないと回答がちがってきてしまうから、ということなんでしょう。
 いわゆる「税務シュレディンガーの○○」ですね(違う)。

【税務シュレディンガーの○○】
パラドキシカル同居 〜或いは税務シュレディンガーの○○

 また、回答の対象とならないものとして、たとえば、

 1 照会の前提とする事実関係について選択肢があるもの
 2 個々の財産の評価や取引等価額の算定・妥当性の判断に関するもの
 4 取引等の主要な目的が国税の軽減等であるものや通常の経済取引等としては不合理であると認められるもの


ということが書いてあります。
 ので、何でもかんでも事前に回答もらえるわけではない。

 としても、個別の事案で回答がもらえるのは、「現実の」納税者の予測可能性を高めるのに役に立つといえますよね。


 と、こういう制度があるものの、税務上の争いというのは未だ現実に存在しているわけで。
 すべての税務上の問題が「文書回答手続」を経由することになっているわけではない。

 こういう現状で、税法の予測可能性を高めるにはどうすればよいのか。

 一つの極端な方向としては、疑義のある場合はすべて文書回答手続を経るべきで、照会しなかった場合は不意打ち的な課税をされてもドンマイ、というように考えるか。
 もちろん、現状の「文書回答手続」のままではなく、法律レベルに昇格させた上で手続保障を充実させる、といった手当てが必要でしょうが。

 ただ、法律レベルに昇格させるとしても、ここでの回答がのちの裁判所を拘束するとなると「三権分立」の問題が出てきます(中身はだいぶ違うが、かつての公取委の「実質的証拠法則」のような議論)。
 これがたとえ納税者有利だとしても「合法性」の観点からは問題があるわけです。

 ので、たとえば「当該事案限りで課税しない」という結論のみに拘束力が生じる、というように拘束力の範囲を限定する必要があるんでしょう。


 他方で、すべて照会しろなんて、何でもかんでもお上にお伺いを立てる「護送船団方式」の復活かよ、というのであれば、事後的な救済理論を充実させるべき(結果、それが事前規範として働く)。

 かといって、「不明確なら違憲!」みたいなデカい理論はなかなか発動されない。
 とすると、やはり「個別の事案限りで課税しない」という理屈を考えると。

 「将来効」的なやつ。

 と、個別の事案を救済しつつ、判例+その後の立法の積み重ねによって税法の明確性を志向していく、というのが現実的な司法過程⇔立法過程なんでしょうね。

 ひとり法律レベルでのみ税法の明確性を志向する、というのは無理がある。


 そう考えると、下記判決が当事者救済のために奇妙な理論を打ち立てたり、

解釈の解釈を解釈する(free rider) 〜東京高裁平成30年7月19日判決

 下記裁決が課税庁救済のために奇妙な理論を打ち立てたり、

加算税をめぐる国送法と国税通則法の交錯(平成29年9月1日裁決)

と、個別事案の救済・非救済と一般論を連動させてしまっているの、どうにかならなかったものかと。

 たとえば前者であれば、「信義則」のような例外則で両者を分断できたわけですよね(後者のフォローは、理論が奇妙すぎて思いつかない)。


 このあたりに裁判規範と独立した意味での行為規範のポジションがありそう。

税法・民法における行為規範と裁判規範(その7)

2020年01月20日

税法・民法における行為規範と裁判規範(その5)

 さて、予告どおりにちゃぶ台返し。

税法・民法における行為規範と裁判規範(その1)
税法・民法における行為規範と裁判規範(その2)
税法・民法における行為規範と裁判規範(その3)
税法・民法における行為規範と裁判規範(その4)

 「行為規範はあります!」前提でここまで論じてきたわけですが、「それフィクションちゃう?」ということを以下書きます。


 なお、ここでいう「フィクション」という用語について、それ自体には決して否定的な意味合いは含めていません。

 小説にしても映画にしても、人の感情を良い方向に動かすこともできるわけで、必ずしも有害・無益とは限りませんよね。
 法分野においても、フィクションを現実と混同することなく、用法用量を守って正しくお使い下さる限りは有用なものになるはずです。

【法とフィクション論】


 来栖三郎「法とフィクション」(東京大学出版会1999)


 話はずれますが、この法におけるフィクションを悪用したのが会社法制定であり民法(債権関係)改正だ、というのが私の見立て。

 というのも、どちらも改正理由の一つとして「国民に分かりやすくするため」ということを謳っていました。

 が、現実に出来上がった条文を見れば分かるどおり、どう考えても国民に分かりやすいとは思えない。
 努力したけど駄目でした、というわけではなく、はじめからそんな気なかっただろ、と言いたくなる仕上がり。
 国民に分かりやすくなんて、どうせ無理だと分かっていたくせに、改正理由に掲げていたんじゃないかと。

 このあたり、潮見佳男先生が「プロ向けの改正」だとぶっちゃけているところで。

潮見佳男『新債権総論1・2(法律学の森)』(信山社 2017)


 話は戻って論より証拠、たとえば、皆さんご存知「小規模宅地の特例」について、条文だけを読んで要件を正確に抽出してみましょう。
 
租税特別措置法69条の4
租税特別措置法施行令40条の2

 専門家でもなかなかハードなのに、納税者一般にこれを読んで理解しろ、とか無茶振りだと思うんですけど。

 なんとなくの制度趣旨は想像できると思います。
 が、以前ネタにもしたとおり、その制度趣旨からストレートに要件を抽出することができないほどややこしいのが現状。

【小規模宅地の特例イジり】
パラドキシカル同居 〜或いは税務シュレディンガーの○○
イタチ、巻き込み。 〜家なき子特例の平成30年改正
ヤバイ同居 〜続・家なき子特例の平成30年改正

 じゃあってことで、「この規定は納税者の予測可能性を害するから、要件満たすと誤信した人は特例受けられる」と主張できるかといったら、まあ無理ですよね。

 比較的メジャーな制度でもこんな具合なんだから、他は推して知るべし。


 もし「現実の」納税者を基準に予測可能性を判断するならば、現行の税法のほとんどは無効だということになるはずです。
 にもかかわらず、納税者の予測可能性が「ある」といおうとするなら、それは現実に存在する個々人を捨象して、あるべき納税者(規範的納税者)を想定しなければならなくなります。

 そこまでいくと、フィクションどころか「嘘」じゃねえかと。


 だとすると、納税者の予測可能性というものは、立法政策上の努力目標として掲げるのはありうるとしても、解釈論レベルで使えるものではないのでは、と思います。
 論者がそれぞれ心の中に「仮想納税者」を召喚し、それを基準に予測可能性があるとかないとかいうの、終わりなき空中戦という感じがします。

 式神とか幽波紋とか、そういうイメージ。
 「視えない」我々からしたら、あの人達何やっているの?てなりますよね(かなり滑稽な姿)。
 本人たちは我々納税者のために闘っているつもりかもしれませんが。

 頭のいい人たちの想定するあるべき納税者なんて、相当賢いレベルで想定しがちだし(その結果が会社法制定と民法(債権関係)改正)。

 そうすると正面から、専門家にとっての予測可能性とか、あるいは一義性を基準にしたほうが、適切な運用ができる気がします。


 ちなみに、このブログでイジりを入れた判決や裁決は、専門家からみての意外性というのが出発点にあります。
 結論に賛成か反対か、というのではなく、その解釈なんか不自然じゃね?という違和感からの。

解釈の解釈を解釈する(free rider) 〜東京高裁平成30年7月19日判決
加算税をめぐる国送法と国税通則法の交錯(平成29年9月1日裁決)


 もし納税者の予測可能性ということを持ち出すことがあるとしたら、税務署に相談して回答どおりに処理したら後から違うと言われた、みたいな例の場面くらいかと。

 これは予測可能性というより「信義則」とか「信頼の原則」などとして論じられているものですね。


 ということで、前回までの記事で書いた税法における行為規範というものを、生の納税者に直接向けられたものとして理解するのは非現実的。
 エーテルで現代の物理学を説明する的な所業ではないかと。

 実際には、専門家の助言や税務署への照会などを通して具体化されたもの、と読み替える必要がある、というのが今回の記事の結論。

【税法における行為規範】
 虚構: 税法 ⇒ 納税者
 現実: 税法 ⇒ 専門家 ⇒ 納税者

 現実にはそういうものだと頭の中で理解した上で、「行為規範はあります」というべきだろうと。

 ちなみに、ここの「専門家」のポジションをAIで完全代替できるようになれば、いよいよ「税理士はいらない」ということになるんでしょうね(と、同じ話を(その1)で「張り切り行為無価値おじさん」として書きました)。


 ところで、行為規範という観点からすると、「文書回答手続」の対象が取引後に限られているのは不十分、と評価できますよね(一応、取引前でも資料一式揃っている場合も含みますが)。

事前照会に対する文書回答手続(国税庁)

 そして、(その3)までで引用した記述Bが、「取引後」に働く規範を行為規範と呼んでいることのアレさ加減に、再度がっかりさせられる。


 頑張って生の納税者に寄り添おうとするならば、たとえば「課税常識」のようなものを措定して、ここから逸脱した課税は納税者に不意打ちとなるから無効、というような理論をたてるか。

 フィクション: 税法 ⇒ 課税常識 ⇒ 納税者

 それでも結局は、あるべき納税者(規範的納税者)を基準とせざるをえないでしょうが。
 こういう理屈立ての場面こそ、フィクション論の主戦場な気がします。

税法・民法における行為規範と裁判規範(その6)
税法・民法における行為規範と裁判規範(その7)

2020年01月13日

税法・民法における行為規範と裁判規範(その4)

 前回の続き。

税法・民法における行為規範と裁判規範(その1)
税法・民法における行為規範と裁判規範(その2)
税法・民法における行為規範と裁判規範(その3)

 「民法は行為規範ではない」なる物言いが税法に返ってきちゃってさあ大変、というのがここまでの話のメイン(そんな話か?)。

 で、前回仄めかした「延長線上」というのは、税法の先、というか中にある「刑罰規定」のこと。
 以下、これを「租税刑法」と称することにします。


 たとえば所得税法のやつ(省略入れてます)。

所得税法 第238条
1 偽りその他不正の行為により、第百二十条第一項第三号(確定所得申告)に規定する所得税の額につき所得税を免れた者は、十年以下の懲役若しくは千万円以下の罰金に処し、又はこれを併科する。


 この「所得税を免れた」かどうかについて、課税要件を充足しているかが前提となるわけです(租税実体法の問題)。
 で、もし、課税要件の判断が民法に従属するというなら、なし崩しで租税刑法も民法に従属することになってしまいます。

  税法   「俺は明確だ!」
   
  租税刑法 「俺も明確だ!」
   
  民法   「あっしは不明確でっせ!!」(できる限りのアホ面で)

 税法と租税刑法が頑張って明確でいようとしているのに、民法のせいで税法も租税刑法も不明確に。
 できの悪い長男のせいで、全員ひっくるめてポンコツ三兄弟扱いされる的な。

 刑法といえば「刑罰法規の明確性の原則」、税法といえば「租税法規の明確性の原則」が高らかに謳い上げられているところ。
 のに、民法従属説がやってきた途端、みんなゆるふわ系に。

 腐った蜜柑のテーゼ。


 ちなみに「刑法×民法」でも、刑法上の違法性の判断を民法に従属させるか独自に判断するかということが議論になっています。
 で、独自説は処罰範囲拡大、従属説は処罰範囲縮小、という一般的な傾向。

【刑法×民法】


佐伯仁志、道垣内弘人「刑法と民法の対話」(有斐閣2001)

 が、独立説それ自体は処罰範囲を拡大するものではなく。
 独自に判断するとして、その違法性の中身を緩やかにすることが問題なわけで。

 他方で、従属説も必ずしも処罰範囲を縮小するものではなく。
 ゆるふわ民法をそのまま導入するなら、どうしたって処罰範囲が拡大してしまうわけで。


 そんなわけで、租税+刑罰法規の明確性を確保するために民法からは独立して判断すべき、という方向にいくのは、ひとつの一貫した見解。

 これに対して、民法の行為規範性を否定しておきながら課税要件を民法に従属させつつ、それでも税法は明確だというのは、筋が通らない。
 (前回までに引用した)田中二郎先生の記述Aの周到さと、それと表層だけ似ている記述Bとのコントラストが際立つ。


 そういえば、

  税法学×民法学

あるいは、

  民法学×刑法学

のカップリングは見かけますが、

  税法学×刑法学

のカップリングや、ましてや、

  税法学×民法学×刑法学

の、三角関係ってあまり見かけない気がします。
 私の不勉強なだけかもしれませんが。


 と、ここまで論じてきた行為規範の問題、ちゃぶ台ひっくり返すかも。

 次回へつづく。

税法・民法における行為規範と裁判規範(その5)
税法・民法における行為規範と裁判規範(その6)
税法・民法における行為規範と裁判規範(その7)

2020年01月06日

税法・民法における行為規範と裁判規範(その3)

 前回の続き。
 記述AとB、同じようなことを言っているようで意味合いが全然違う、という話。

税法・民法における行為規範と裁判規範(その1)
税法・民法における行為規範と裁判規範(その2)

A 田中二郎「租税法(第3版)」(有斐閣1990) 57頁
 「法規そのものの意義、性質についていえば、私法関係は、原則として、当事者の自主自律に委ねられ、私法法規は、当事者間で問題を解決することができない場合の裁判規範の性質を有するものであるのに対し、租税法規は、それに従って課税が行われるべき行為規範であると同時に裁判規範でもあること(租税法は、元来、当事者の話合いによる取引妥協を許さない)、私法と租税法では、その規律の立場を異にするため、概念の相対性を承認する必要があること、経済取引等の私法上の効力の有無は、直ちに租税法上の課税要件の存否に影響を及ぼすものでないこと等、租税法の独自性を認める必要がある。」

B 三木義一ほか「よくわかる税法入門 第13版」(有斐閣2019) 24頁
 「民法の場合は、当事者が原則として契約の自由を行使して、紛争が生じたときに裁判所に判断してもらう規範(裁判規範)ですから、裁判官が合理的に判断できればいいかもしれません。しかし、税法は税務署と納税者に直接向けられていて、両者ともに税法に定められたとおりにしなければならず(行為規範)、しかも、納税者は申告をしなければならないのです。」


田中二郎「租税法(第3版)」(有斐閣1990)
三木義一ほか「よくわかる税法入門 第13版」(有斐閣2019)


両記述を並べてみて、
 民法 裁判規範
 税法 行為規範+裁判規範
という部分だけ抽出すれば、如何にも同じようなことを言っているように読めます。

 が、そこから導き出される帰結は全く逆方向へ。


 まず記述B。

 記述Bは「税法では不明確概念は許されない」という文脈で出てくるものです。

 そのかぎりではごもっともな主張。
 なんですが、民法の行為規範性を否定したら税法に跳ね返ってきちゃうんじゃね、ということを前回までで述べました。

 これは税法における「課税要件の充足」をどのように判断するか、に関わります。

 物をもらうでも物を売るでも何でもいいんですが、これら取引をおこなった場合に税金が発生するかをどうやって判断するのか。
 もし、民法上の効力に「従属」させるという立場をとるならば、ひとり税法が明確であっても、民法が不明確なせいで課税要件の成否も不明確になってしまうわけです。

 契約に無効・取消原因があっても一旦は課税要件成立する、から民法上の効力とは直結していない、にしても、結局更正できるかどうかの判断に影響してきます。

 民法の行為規範性を否定しつつ課税要件を民法に従属させる立場をとった場合の帰結を図式化すると次のとおり(記述Bがそういう立場かまでは読み取れないので、あくまで一つのモデルとして)。

【モデルT】
 ・民法の行為規範性: 否定   《民法不明確》
 ・税法の不明確概念: 許されない 《税法明確》
 ・課税要件の成否:  民法従属 《税法不明確》

 この一貫してない感じ。
 それぞれ個別の主張としては、納税者の予測可能性を高める、というつもりなんでしょうが、実際には予測可能性を害する結果となってしまうわけです。

 よくある誤解が、「税法独自に解釈すると予測可能性を害する、ゆえに民法に従属させるべき」みたいな主張。
 が、実際に予測可能性を害するのは解釈がころころ変わる場合です。

 税法独自に解釈しようが、その解釈が安定しているかぎりは予測可能性は害されません。
 むしろ、融通無碍な民法解釈に税法を従属させるほうが、予測可能性が害されるおそれは高いともいえます。


 ここででてくる立場が記述Aの方向性(こちらも田中先生のお立場が必ずしもそうだとまでは読み取れませんので、あくまでも一つのモデルとして)。

【モデルU】
 ・民法の行為規範性: 否定   《民法不明確》
 ・税法の不明確概念: 許されない 《税法明確》
 ・課税要件の成否:  税法独自  《税法明確》

 これなら民法が不明確であっても、課税要件を税法独自に解釈することで税法の明確性を確保することが可能になります。
 民法の行為規範性を否定しつつ税法の明確性を確保したいのであればこのルートになるわけで、これはこれで一貫した主張といえます。
 が、民法の行為規範性を否定するのは現実的ではない、ということは前回までで述べたとおりです。


 ということで、民法の行為規範性を肯定した場合のモデル。

【モデルV】
 ・民法の行為規範性: 肯定    《民法明確》
 ・税法の不明確概念: 許されない 《税法明確》
 ・課税要件の成否:  民法従属  《税法明確》

【モデルW】
 ・民法の行為規範性: 肯定    《民法明確》
 ・税法の不明確概念: 許されない 《税法明確》
 ・課税要件の成否:  税法独自  《税法明確》

(もちろん「不明確概念は許される」という立場もあると思いますが、明確性を志向するモデルに限るということでここでは省略)

 と、民法の行為規範性を肯定してはじめて、課税要件が民法に従属するか独立するかを議論できるようになるんじゃないですかね。
 行為規範性を否定するのであれば、もはや民法とは独立して判断するしか道は残されていないわけで。


 この問題の延長線上にもうひとつ論点があると思うのですが、次回以降にまわします。

税法・民法における行為規範と裁判規範(その4)
税法・民法における行為規範と裁判規範(その5)
税法・民法における行為規範と裁判規範(その6)
税法・民法における行為規範と裁判規範(その7)

2019年12月23日

税法・民法における行為規範と裁判規範(その2)

 前回の続き、次は税法が行為規範かつ裁判規範であるという点について検討します。

税法・民法における行為規範と裁判規範(その1)

 それぞれの記述を再掲しておきます。

A 田中二郎「租税法(第3版)」(有斐閣1990) 57頁
 「法規そのものの意義、性質についていえば、私法関係は、原則として、当事者の自主自律に委ねられ、私法法規は、当事者間で問題を解決することができない場合の裁判規範の性質を有するものであるのに対し、租税法規は、それに従って課税が行われるべき行為規範であると同時に裁判規範でもあること(租税法は、元来、当事者の話合いによる取引妥協を許さない)、私法と租税法では、その規律の立場を異にするため、概念の相対性を承認する必要があること、経済取引等の私法上の効力の有無は、直ちに租税法上の課税要件の存否に影響を及ぼすものでないこと等、租税法の独自性を認める必要がある。」

B 三木義一ほか「よくわかる税法入門 第13版」(有斐閣2019) 24頁
 「民法の場合は、当事者が原則として契約の自由を行使して、紛争が生じたときに裁判所に判断してもらう規範(裁判規範)ですから、裁判官が合理的に判断できればいいかもしれません。しかし、税法は税務署と納税者に直接向けられていて、両者ともに税法に定められたとおりにしなければならず(行為規範)、しかも、納税者は申告をしなければならないのです。」


田中二郎「租税法(第3版)」(有斐閣1990)
三木義一ほか「よくわかる税法入門 第13版」(有斐閣2019)


 お題目自体はそのとおりなんでしょうが、記述Bで挙げられている「行為規範」の例に違和感。

 行為規範というのは通常、これから行為をするにあたって「こういう行為をしなさい/してはいけません」と示されるルールのことです。
 が、バリバリ行為規範性のある刑法がそうであるように、「○○したら△△の刑を処する」みたいな書き方をされることがあります。

 こういう書き方だからといって、「これは裁判規範にすぎず行為規範ではない」などと言われることはなく、行為規範としての読み替えが行われます。

 裁判規範:裁判官に対して
  ○○した人には△△の刑を科しなさい。
   ↓
 行為規範:一般人に対して
  ○○してはいけません。

 このあたりを意識して税法規範を抽出すると、「こういう取引をしたら○○税が発生しますよ」というものになるかと。
 でまあ、通常人はなるべく課税を回避したいわけで、これが行為規範として機能することになります。
 たとえば、同じ経済目的を達成するのに、甲契約なら課税される・乙契約なら課税されない、じゃあ乙契約でいくかとなったときに、税法が行為規範として働いた、ということができます。

 ところが記述Bでは、すでに取引が終わった後で、税務署と納税者が、どういう税金が発生するかを判断する場面で働く規範を行為規範だといっています。
 が、これはどう考えても、当該取引を事後的に評価する場面です。

 このようなものを行為規範だというならば、審判官が裁決書を書く「行為」に働く規範も行為規範だし、裁判官が判決書を書く「行為」に働く規範も行為規範だということになってしまいます。

 まあたしかに、「行為/裁判」という概念を言葉のニュアンスで理解するなら、記述Bのような書き方をしてしまうのかもしれません。
 裁判規範のほうは裁判て書いてあるから裁判で働く規範だな、じゃああとは全部行為規範ってことだな、みたいな。
 ここでいう「行為」というのは一体何のことなのか、ということをしっかり詰めていないわけです。

 が、わざわざ規範を二分類する意味がどこにあるか、それぞれの機能を検討することなしに割り振ることはできないはず。


 規範の分類ということで想起されるのが、新堂幸司先生が「当事者の確定」で提唱された「規範分類説」。

 これは、同じ当事者の確定であっても、手続段階によって考慮すべき事情が違う、という考え方かと思います。
 そういった観点から、それぞれの手続段階によってどのような規範が望ましいかを組み立てていくと。



  新堂幸司「新民事訴訟法 第6版」(弘文堂2019)
 (みんな第6版が出たぞー!)

 これが税法だとどうなるんだ、というと、
  ・これから取引する段階でどういう税金が発生するかを判断する規範
  ・すでに行った取引につきどういう税金が発生するかを判断する規範
とで、規範の働き方が違うのではないか、と思います。

 そうだとすると、これらはそれぞれ「事前規範/事後規範」と名付けておくのが望ましい気がします。
 私人の取引行為を軸に「事前/事後」で区分すると。


 また、上記記述では「裁判」規範と書かれていますが、当然のことながら税法上の手続は「裁判」だけではありません(記述Bの書きっぷりからすると、おそらくですが「裁判」どころか「判決」規範しか意識されていないような)。

 税法上の手続をキーワードとともにざっくり並べると、次のような感じ(調査官をどこに入れ込むか考えましたが、修正申告の勧奨をするってことで3アにねじ込みました)。

  1  私法上の取引: 私人
  2  確定申告: 私人
  3ア 税務調査: 私人(+調査官) 修正申告
  3イ 税務調査: 税務署長 更正・決定
  4  再調査の請求: 税務署長 決定
  5  審査請求: 国税不服審判所 裁決
  6  訴訟: 裁判所 判決

 1で働く規範が行為規範、6で働く規範が裁判規範と言えるとして、2〜5は何規範なのか。
 行為/裁判の二分論ではカバーしきれていません。

 ちなみに、田中成明先生は、裁判規範ではなく「裁決」規範という表現を使っています。



  田中成明「現代法理学」(有斐閣2011)

「リーガルマインドとは何か?」

 「裁決」というと、たまたま5と用語がかぶっていますが、それよりも広く、一定の機関による拘束力のある判断くらいの意味だと思います。
 で、この用語を使った場合でも、5はカバーできるとして2〜4はどうなのか。

 実際に規範の働き方をみると、1では私法上の取引をする前の段階で事前に税法規範が働いて、それ以降はその取引をどう評価するかという事後的な判定規範として働いていることになっています。

 1  私人 → 取引
 2  取引 ← 私人
 3ア 取引 ← 私人(+調査官)
 3イ 取引 ← 税務署長
 4  取引 ← 税務署長
 5  取引 ← 審判所
 6  取引 ← 裁判所
(※厳密には、たとえば訴訟であればその判断の対象は課税処分の適法性ですが、実体法上は取引の課税要件該当性の有無を判断することになるので、上記の図式でも許されるかと)
 
 そうすると、前述のとおり、規範を「事前規範/事後規範」とに区分して、1のみが事前規範であとは事後規範と理解するのがよさそう。

 もちろん、1〜3アの場面は「私人」に向けられた規範という意味で、それを「行為規範」と括ることもできるでしょう。
 が、1と2・3アでは規範の働き方が違う、ということは意識しておくべき。

 というか、私人にとって重要なのは、取引前にどういう税金が発生するかが明確であることのほうでしょう。
 実際、税法学者が課税明確主義とか借用概念論でいうところの「納税者の予測可能性」って、1の場面のことを念頭に置いて言っているはずです。
 のに、なぜか記述Bでは行為規範の例で1がでてこない。
 
 確かに、「事故に遭って不法行為債権を取得した」という場合を想定するならば、1を飛ばしていきなり2がくる、というのは分かります。
 そうだしても、行為規範として真っ先にあげるべきなのは、1の場面じゃないのかと。



 この「事前/事後」という時間軸とは別に、それぞれの手続で働く規範の内容は違うのではないか、ということが問題になりえます。

 伝統的な理解ではおそらく、「裁判規範」が法規範の中心的機能として捉えられていたと思います。
 で、それ以外の手続で働く規範は「裁判になったらどう判断されるか」という裁判規範の反映にすぎない、というような理解ではなかったかと。

 これに対して廣田尚久先生が「紛争解決規範」というものを提唱されています。

 

  廣田尚久「紛争解決学講義」(信山社2010)
  廣田尚久「紛争解決学」(信山社2006)

 裁判外の手続あるいは裁判内でも和解で働く規範は、裁判(判決)規範とは違うものがあるのではという問題意識(和解規範、調停規範、仲裁規範などなど)。
 それぞれの手続において、単なる裁判規範の反映としての規範ではなく、独自の規範がある(あるべき)のではないか、ということ。

 この考えを参考にすると、税務上も(1だけでなく)2〜5までで働く規範は6の裁判規範とは内容が違うのか(現状認識)、あるいは違うべきなのか(規範論)ということが問題となっておかしくない。

 特に、税法が「申告課税方式」をとって私人に一次的な判定を委ねていることからすると、1だけでなく2・3アも、4以降とは違った考慮が必要になるのではないか、とか。
 この限りでは、記述Bが2・3アの場面を取り上げているのは理解できます(が、1をあげないのはやはり解せない)。

 私がこのブログで「日常系税務」とかいっているのも、「紛争系」とは異なる税務があるのでは、という問題意識からの造語です。
 落とし所の具合が、審判所・裁判所まで行った場合とは違ったところにある、ということ。

【日常系税務】
税理士だって日常系税務でリーガルマインドを実践したい!

 そしてこれは、弁護士先生の書く税務本が、税務判決中心の記述になっていることへのアンチテーゼでもあります。


 しかしまあ、「租税法規は明確でなければならない」なんてことは、言わずもがな当たり前のことです。

 のに、うかつに民法をサゲたせいで、こんな野良ブログに延々とイジられ倒されることになるとは、大変ですね。

この問題、もう一つ考えなればならないことがありますが、余力があれば続きを書きます。

税法・民法における行為規範と裁判規範(その3)
税法・民法における行為規範と裁判規範(その4)
税法・民法における行為規範と裁判規範(その5)
税法・民法における行為規範と裁判規範(その6)
税法・民法における行為規範と裁判規範(その7)

2019年12月16日

税法・民法における行為規範と裁判規範(その1)

 前回の予告通り、「行為規範/裁判規範」につきイジりを入れます。
 (以下、私法と民法は互換的に用います。)

田中二郎「租税法(第3版)」(有斐閣1990)
三木義一ほか「よくわかる税法入門 第13版」(有斐閣2019)

 それぞれの記述は次のとおり。

A 田中二郎「租税法(第3版)」(有斐閣1990) 57頁
 「法規そのものの意義、性質についていえば、私法関係は、原則として、当事者の自主自律に委ねられ、私法法規は、当事者間で問題を解決することができない場合の裁判規範の性質を有するものであるのに対し、租税法規は、それに従って課税が行われるべき行為規範であると同時に裁判規範でもあること(租税法は、元来、当事者の話合いによる取引妥協を許さない)、私法と租税法では、その規律の立場を異にするため、概念の相対性を承認する必要があること、経済取引等の私法上の効力の有無は、直ちに租税法上の課税要件の存否に影響を及ぼすものでないこと等、租税法の独自性を認める必要がある。」

B 三木義一ほか「よくわかる税法入門 第13版」(有斐閣2019) 24頁
 「民法の場合は、当事者が原則として契約の自由を行使して、紛争が生じたときに裁判所に判断してもらう規範(裁判規範)ですから、裁判官が合理的に判断できればいいかもしれません。しかし、税法は税務署と納税者に直接向けられていて、両者ともに税法に定められたとおりにしなければならず(行為規範)、しかも、納税者は申告をしなければならないのです。」



 まず、民法は裁判規範(であって行為規範でない)という点について。

 ちょっと考えればわかるんですけど、たとえば、

・契約しようとしている相手方がどうやら未成年者っぽいが、そのまま契約してもいいんだろうか。
・約款をつくりたいがどういう内容なら大丈夫だろうか。

といった場合に、民法の規律を確認し、その内容によってとるべき行動が影響を受けるわけですよね(例として不法行為をあげてもいいのですが、さしあたり契約の例で揃えます)。

 これは、民法が「行為規範」として機能しているってことじゃないんですか。

 もし仮にですけど、民法世界に「任意規定」しか存在せず、すべてを合意で規定しつくせるのであれば、民法が行為規範として機能する出番は少ないのかもしれません。
(※合意がない事項には任意規定が適用される、という意味では任意規定も行為規範性があると思います。が、これを言ってしまうと上記記述を全否定することになって、そこでお話が終わってしまうので、任意規定には行為規範性はない、ということにしておきます。)

 が、現代において、「強行規定」の存在を一切気にせず自由に契約締結できる法領域なんて、ほぼないと思う。

 労働契約、借地借家契約、消費者契約のような「特別法」がある領域を思い浮かべるまでもなく、すべての契約には、背後に「信義則」による枠がはめられています(公序良俗でもいいですが)。
 ので、どこまでいっても、民法の規律を意識せずに契約することなんて不可能。

  どこまで走っても追いかけてくる、夜の月のように(詩的表現)

  人も歩けば強行規定に当たる(犬派に配慮)


【動物配慮系】
パラドキシカル同居 〜或いは税務シュレディンガーの○○
【動物非配慮系】
イタチ、巻き込み。 〜家なき子特例の平成30年改正

 もし、見渡す限り任意規定しかない法領域を妄想したとして(神エネルのいうフェアリーヴァース)、そこではもはや民法は行為規範どころか裁判規範ですらなくなります。
 すべてを合意で決められるのならば、裁判で裁判官は、民法を一切参照せずに合意解釈をやるだけなので。

 美味しいところだけ食べようと皮を剥いていったら、中身が何もなくなってしまったみたいな、そんなおもしろ動物動画ありましたよね。


 話はズレますが、この行為規範/裁判規範の問題、刑法における「結果無価値論/行為無価値論」でも同じような話がでてきます。

 行為無価値論は結果無価値論に対して、「事前に規範が与えられず予測可能性を害する」みたいな批判をしています。

 が、規範が向けられるのが行為だろうが結果だろうが、どういう場合に処罰されるかが事前に決まっていさえすれば、我々はそれを基準に行動ができるわけです(「する」ではなく「できる」)。

 以下、各自お試しいただければいいと思いますが、

  ア 結果無価値論者の教科書を読んでから自動車を運転する
  イ 行為無価値論者の教科書を読んでから自動車を運転する

とやってみて、アと比較してイのほうが「事前に規範が与えられてるぅ〜!くぅ〜!」て感じるかっていったら、まあ感じないですよね。
 規範が「行為」に向けられているからといって、個別具体的な結果回避行為まで特定してくれるわけではなく、それは自分で都度都度判断しなければなりません。

 もしも将来、技術が進化してカーナビに「行為無価値システム」が搭載され、運転中逐一結果回避行為をアナウンスしてくれてそれに従っている限り処罰されないというなら、「行為無価値論、素敵抱いて!」てなるんでしょうけども。
 今の技術で実現するのであれば、全国の行為無価値論者を動員して、結果回避行為を耳元で囁いてもらうしかない(囁き戦術、囁き女将)。
 が、そうなったら規範を与えてくれているのは「張り切り行為無価値おじさん」であって刑法ではない。

【与える規範】
  刑法 ⇒個人
  刑法 ⇒おじさん ⇒個人

 このおじさんのポジションをAIに代替させるのが、今後の法分野のチャレンジすべきところなんでしょうね。

 その前に「自動運転」の実用化が、おじさん開発を追い越していくんでしょうか。
 そうはいっても、自動運転中の行為規範の問題だったり、「それでも俺は自分で運転したい」という酔狂な(と言われるようになるんでしょうか)人向けの行為規範の問題が残るでしょう。
 下手な人に運転されると自動運転システム全体に支障がでる、ということで、自分で運転できるのは超難関な限定解除(自己運転)試験に受かった人だけになる未来になったりするんですかね。
 全国民が「電脳化」を強いられるような感じの。


 刑法の行為規範性については、度々紹介していますが、以前引用した辰井聡子先生の文章に全面的に共感します。

辰井聡子 「因果関係論」(有斐閣2006)


 話を税法側に少し戻すと、「借用概念」論も同じ系列の話だったりします。

 「統一説」は、税法上の概念を民法と同義に解さないと法的安定性・予測可能性が害されるとかいうんですけど、「それは気のせい」ということを以前論じました。

非居住者に支払う著作権の使用料と源泉徴収の要否について(その11)
(※タイトルと内容が一致してませんが、リンク間違いではありません)

 民法と同義だろうが別義だろうが、税法解釈上一度決めたものを変えない限りは、法的安定性・予測可能性は害されません。
 むしろ、統一説のいうように、やわらか民法解釈に税法解釈が連動してしまうと、法的安定性・予測可能性が害されかねない。

 なにせ記述Bによれば、民法には行為規範性がないことになっています。
 そんな私法規定に税法解釈が連動してしまうというのなら、予測可能性を害することこの上ない。


 以上要するに、仮に裁判規範にすぎない法規定があったとしても、それが行為前に存在するかぎり行為規範として機能してしまう、行為規範として機能しない裁判規範なんてそうそう存在しない、ということが言えると思います。

 もしそういう事態があるとしたら、民法の規定が「何らかの行為をしたら何らかの義務が発生する」(文字通り法律にそう書いてある)みたいな規定だらけ、という場合でしょう。
 これでは不明確すぎて何ら行為の基準にならないわけです。

 が、仮にそんな規定で民法が埋め尽くされていたというような悪夢を想定したとしても、「だから民法は行為規範として機能させなくていい」ということにはならないでしょう。
 この場合にいうべきことは、規定を明確化して行為規範としての機能を果たさせるべき、となるはず。


 みたいな話、どこかで読んだ記憶があるなあと思って、思い出したのが谷口安平先生の民事訴訟法の教科書。



  谷口安平「口述 民事訴訟法」(成文堂1987)
 ※(1996年改正前出版ですが総論重視の名著。例によって版元品切れ)

 訴訟/非訟の区別基準に対する最高裁の見解を批判する文脈で、次のような(仮想)条文例をあげていました。

  (仮想)民法第1条
 『私人は他の私人に対して裁判所があらゆる事情を斟酌して適切と認めるところの権利を有し義務を負う。』


 民法がこれ一箇条だけ(本当に一箇条だけ)に改正されることになったら、私人間の紛争はすべて「非訟」扱いなのかと(民事訴訟絶滅!!)。
 さすがにそうはならないだろう、というのが谷口先生のご意見。

 なかなかにファンキーな仮想例。
 こういう思考法面白い、と思って記憶に残っていたものが、こんなところにつながってくるとは。
 この手の応用も、ある種の「リーガルマインド」だと思うんですけども。

【リーガルマインドについて】
「リーガルマインドとは何か?」
税理士だって日常系税務でリーガルマインドを実践したい!


 このように「民法は行為規範でない」という言明それ自体が妥当でないのですが、その言明を「意思自治」から導くというのも変な話。

 意思自治から言えることは、契約債権は意思通りの効力が発生するという点。
 これに対して、租税債権は、望んでもいないのに一定の取引を行うことにより発生してしまう、そしてその内容は当事者が左右できるものではない、ここに契約債権との違いがあるわけです(記述Aのカッコ書きがそういう趣旨のことを言っている)。

 それはそうだとして、これがなぜ、民法の裁判規範性を肯定しつつ行為規範性を否定する理由になるのか。
 私には理屈が繋げられません。

 意思自治が全面的に働く事案では民法が適用されなくなる、ということであって、民法そのものの行為規範性が無くなるわけではありません。
 仮に、その適用されない、ということを行為規範がないと言っているのであれば、同時に裁判規範性も否定しなければならないはずです。

 ・強行規定もある世界(現実)
  ⇒民法は裁判規範であり行為規範である
 ・意思自治だけの世界(空想)
  ⇒民法は裁判規範でも行為規範でもない(というか適用されない)
 ・???? (隠しボスかよ)
  ⇒民法は裁判規範だが行為規範ではない

 ここで契約債権と書きましたが、同じ民法でも不法行為債権などの「法定債権」は、当事者が望んだから発生するわけではなく一定の事実に基づき発生するものです。
 これは租税債権と全く同じなわけで、意思自治の理屈が妥当するのは契約債権に限られます。

 なお、契約債権にしても、「表示」を重視する学説があるように、効力発生の根拠を表示の一致に求める見解(表示主義)もあります。
 強行規定から運良く逃れられたとしても、必ずしも意思自治を貫徹できるとは限らない。

 ちなみに、表示主義に従って、意思、表示、契約債権、租税債権の関係を記述すると、次のとおりとなります。

  ・表示が一致したら契約債権が発生する
  ・意思に欠缺・瑕疵があっても租税債権も一旦発生する
  ・意思の欠缺・瑕疵を理由とした無効・取消で私法債権が消滅したら更正の請求等で対応

 記述Aの「経済取引等の私法上の効力の有無は、直ちに租税法上の課税要件の存否に影響を及ぼすものでない」というのは、おそらくこういうことを言っているんだと思います(あとは「違法所得」とか)。
 ある種の、税法上の表示主義。

 意思自治弱すぎませんか。
 というか、意思自治は決して「原則」などではなくって、表示責任の「例外」ポジションなんじゃないかと。

【テイルズ・オブ・イシドグマ(TAILS OF ISYDOGMA)】
加賀山茂「求められる改正民法の教え方」(信山社2019)


 ところで、記述Bは、税法で「不確定概念」が許されないことを導くための理由付けとして出てきます(民法学上は「一般条項」というのが一般的だと思いますが、ここでは税法学上の用語にあわせます)。

  民法:意思自治あり⇒行為規範でない⇒不確定概念許される
  税法:意思自治なし⇒行為規範である⇒不確定概念許されない

 でたー、税法アゲるために民法サゲ奴。

【民法サゲ例】
私法の一般法とかいってふんぞり返っているわりに、隙だらけ。〜契約の成立と印紙税法
小林秀之「破産から新民法がみえる」(日本評論社 2018)

 が、民法だって、たとえば、どういう場合に不法行為債権が発生するか、とか、どういう場合に公序良俗違反で契約が無効になるか、とかがいくら不明確でも構わないってことではないですよね。
 それらが明確でなければ、自由に行動することができずに萎縮してしまいます。
 ので、解釈によって頑張って明確化しようとしているわけです。



山本敬三 「公序良俗論の再構成」(有斐閣2000)
大村敦志 「公序良俗と契約正義」(有斐閣1995)

 租税債権(債務)は債務者に対する一方的な不利益だから、というなら、上述のとおり不法行為債権(債務)だって同じです。
 むしろ租税債権のほうが、自らの意思で取引をした結果によるもの、という意味では任意性が高いともいえる。

 民法で「不確定概念」を採用してもいいかどうかについて、空想世界と現実世界とで論理的に導かれる結論は次のとおりとなるはずです。

 ・強行規定もある世界(現実)
  ⇒民法は行為規範でも裁判規範でもある
   ⇒不確定概念があると困るから内容を明確化しよう。

 ・意思自治だけの世界(空想)
  ⇒民法は行為規範でも裁判規範でもない
   ⇒不確定概念があろうがなかろうがそもそも適用されないから関係ない。

 ところが上記理由付けでは、次のような因果となっています。

 ・意思自治だけの世界(空想)
  ⇒民法は行為規範ではないが裁判規範ではある
   ⇒不確定概念は許される

 やはり、民法の裁判規範性を肯定しながら行為規範性を否定するところが謎です。
 もしそのような世界があるとしたら、民法の規定が、

  ・任意規定: すべて意思で上書きできる
  ・強行規定: 極めて抽象的な規定しかない

という構成の場合でしょう。
 が、現実には明確な強行規定(例:未成年者の法律行為は取り消せる)というものが存在しているわけで、このような民法世界は存在しえない。


 ここでやっと、「民法の裁判規範性を肯定しながら行為規範性を否定する」という不可解な見解の尻尾を捕まえられた気がします(動物非配慮)。
 つまり、民法の構成モデルとしては、まず、

  モデルT: 任意規定+強行規定 《○行為規範 ○裁判規範》

という現実モデルがあって、このモデルでは任意規定は意思自治で上書きできるとしても、強行規定が行為規範として機能することになります。

 ならばということで、行為規範を否定するモデルとして、

  モデルU: 任意規定のみ 《×行為規範、×裁判規範》

という空想モデルを想定してみたところ、これでは行為規範性どころか裁判規範性すら否定せざるを得ないことになってしまったわけです。

 そうすると、この中間に答えがありそう、ということで、

  モデルV: 任意規定+強行規定(不確定概念のみ) 《×行為規範 ○裁判規範》

という、現実には想定しえないモデルによるなら、行為規範性を否定しつつ裁判規範性を肯定できることになります。やったね!

 が、こんな非現実的なモデルを前提に立論することに何の意味があるのか、というと、まあないですよね。

 もし仮に、民法がこんなモデルだったとしても、民法学はおそらく、任意規定から一般的法原則を抽出して不確定概念の内容を充填していく、あるいは逆方向で、不確定概念の趣旨を個々の任意規定に反映させる、というように、できるだけ規定を明確化しようと試みるはずです(信義則と契約に関する規定の関係でご想像ください)。
 任意規定と強行規定がお互いに影響を及ぼすことなく単一法典に収まっているなんて状態、ないでしょうね。


 上記では、議論を単純化するため「不確定概念には行為規範性がない」という前提で検討しましたが、厳密にはそうとは限らない。

 たとえば、債務者の持参した代金が1円足りなかったことを理由する解除が信義則に反し許されない、と判断されたとして、これを「不意打ちだ!」と評価するとしたら、その人アレですよね。
 もちろん諸般の事情が諸々あるにしても「そりゃまあそうなるよな」と普通は思うはずです。

 このように不確定概念といえども、当事者の属する社会における「取引秩序」(と名付けておきます)から汲み取って判断することになるでしょうし、むしろ、そうすべきです。

 このへん、民法では不確定概念は許されるが税法では許されない、ということの理由として使えそう。

 すなわち、民法で不確定概念を採用しても、内容を取引秩序から汲み取ることで行為規範性を維持することは可能、他方で税法ではそのような秩序は無いし、あったとしてもそこから汲み取るべきではない、といった感じ。
 あくまで契約債権との対比に限りますが。

 いずれにしても、意思自治を理由に行為規範性がないというのはおかしいし、それを理由に不確定概念が許される、というのもおかしい、というのが私の見立て。


 上述した私法⇒税法の連動の話、何も「借用概念」の場面に限りません。
 普通に、物を売ったら所得税が発生とか、物を貰ったら贈与税が発生というように、民法上の取引をすることが税法上の課税要件となっているわけです。

 のに、「民法は裁判規範でしかないけど税法は行為規範でもあるから明確であるべき」(キリッ)とかいうの、バケツの底が抜けてる感が強い。

 税法自体をどれだけ明確にしてみたところで、民法が「ゆるふわ系要件」だらけだったら、結局どういう場合に課税要件を満たすかがふんわりふわふわになってしまいます(なんか美味しそう)。

 「不明確概念いらんわボケー!」ておもいっきりぶん投げたら、地球一周してきて後頭部に激突した、みたいな劇画状態。


 と、このように、私法債権と異なる「租税債権の特質」というのを抽出しようとしても、行為規範/裁判規範という枠組みでは私法債権との違いを出すことができない。

 どうにかひねり出せるとしたら、「租税債権は一旦発生したら任意に放棄できない」という処分性の問題くらいですかね。
 ただ、これすらも、『租税債権の本来の主体は「国民」であって国は国民から回収権限を付託されているだけ、だから、勝手に処分することはできない』と私法債権のアナロジーで説明することもできるわけであって。

 また、放棄できないといっても、徴収を怠って時効消滅させることによって、事実上の放棄をすること自体は可能っちゃ可能。
 これが地方税なら「住民訴訟」経由で責任追及できるかもしれませんが、国税ではそういった手段すらない。

 そうすると、私法債権全体と比べて、租税債権の特質といえるのは、立法政策上与えられている「執行上の効力」くらいしか残されていないのでは。


 さてつぎに、税法が行為規範かつ裁判規範であるという点について検討したいのですが、ここまで長くなってしまったので、来週に持ち越します。

税法・民法における行為規範と裁判規範(その2)
税法・民法における行為規範と裁判規範(その3)
税法・民法における行為規範と裁判規範(その4)
税法・民法における行為規範と裁判規範(その5)
税法・民法における行為規範と裁判規範(その6)
税法・民法における行為規範と裁判規範(その7)

2019年06月24日

「リーガルマインドとは何か?」

田中成明 現代法理学(有斐閣2011)



 あえてかぎ括弧書き。

 ブログタイトルにものっけておきながら、「リーガルマインドとは何か?」ということについて、今まではっきりと書いてきませんでした。

 用語だけなら誰でも知っているものでしょうし、各人各様いろんな定義がなされています。

 私のなかでもなんとなくこういうものだろうな、というイメージはあったものの、しっくりくる説明というものに、今まで出会えていなかったもので。

 で、ふと読んだ田中成明先生の『現代法理学』の中に、リーガルマインドの「特徴」という表現の仕方で、列挙されているものがありました(511頁)。

 これが私が思うところの実感に近かったので、引用させていただきます。


 リーガルマインドの特徴

1 問題発見能力
 紛争や意見の対立に直面した場合、錯綜した事情・状況を整理して、そのなかから法的に何が問題となるのか、問題を発見する能力

2 法的分析能力
 法的に関連のある重要な事実・争点とそうでないものと区別し、法的に分析する能力

3 適正手続感覚・問題解決能力
 関係者の言い分を公平に聴き、適正な手続をふんで、妥当な解決案を考え出す能力

4 法的推論・議論・理論構成能力
 適切な理由に基づく合理的な推論・議論によって、きちんとした法的理論構成を行う能力

5 正義・衡平感覚
 正義・衡平・人権・自由・平等などの法的な価値を尊重する感覚

6 バランス感覚
 全体的状況をふまえて各論拠を比較衡量しバランスのとれた的確な判断をする能力

7 社会的説明・説得能力
 思考や判断の理由・過程・結論などを、関係者や社会一般に向けて説明し説得する能力


 上記「特徴」によって、法的思考が問題になる場面を包括的に捉えられているなあ、と感じました。


 ちなみに、よくありがちな説明だと、すぐに「法的三段論法」云々に飛びつきがちなところ。
 なんですが、それは単なる「お作法」であって、それ自体には何の「マインド」も無いのではないかと。
 そういったものも含めて、どう使うか、のほうの問題。



 以下、本筋ではないですが。

 実定法上の根拠があるわけでもないのに、

  「○○とは××である。」

とかっていきなり定義付けされるの、あまり説得力を感じないです。
 しかも、そのあとに続く論点に関する記述で、

  「○○とは××であるから、△△と解すべきである。」

とか、その定義から一直線に結論導かれると、なんだかなあと。
 まずは、その定義をどうやって組み立てたかを説明してほしい。

 というか、そういう場合って、定義が先に出来上がっているわけではないはず。
 個々の論点を妥当に解決する解釈論というのを積み重ねていって、その結果定義が出来上がるんだと思う。

 その過程をすっ飛ばしていきなり定義から入られると、まあ理解しにくいですよね。


 話は戻って、上記のように、リーガルマインドの「定義」としてではなく、「特徴」という言い方をしてくれると、納得感があるわけです。

 表現の違いだけなのかもしれませんが、そういった記述の仕方から、誠実さを強く感じる。