夏休み読書感想文、といった趣のセレクト。
所一彦「刑事政策の基礎理論」(大成出版社1994)
夏だからといって、極端に暇になるわけでもなく。極端に忙しくもなりませんが。
が、なんとなくの気分で、仕事から離れた本を読みたくなる気分にはなります。
といいながら、法律書から離れることもなく。
◯
イカれた書籍嗜み屋としての性癖のひとつ。
全く同じ本を購入するという所作。AIに画像生成していただいたわけではありません。
2冊購入したからといって、理解度が2倍になるわけでもないのに。
たとえば、金子租税法を2冊買うというのは、自宅用と事務所用に備(供)えておくということで、実務家としては標準の所作かと思います。
なお、「自炊用1冊でいいだろ」という見解は、《積極的偶像崇拝派》(むしろ偶像が本体思想)たる我々とは相容れません。
金子宏「租税法 第24版」(弘文堂2021)
◯
「刑事政策」という分野、大学で履修したこともなく。あれやこれやの政策手法の集積、くらいのイメージしかなかったため、まともに勉強することもありませんでした。
刑事実体法である「刑法総論」の基本書・教科書の類をやたら保有しているのと比較して。1冊ももっていませんでした。
本書は、タイトルに「基礎理論」とあったので、もしかしたら興味を持てるかもと思って。読んでみたらとてもよかったよ、というのが今回のご報告です。
が、噛み砕いてご紹介できるほど理解できていないので、中身については触れられず。章タイトルだけ貼り付けておきます。
第1章 刑事政策の課題と方法
第2章 刑罰と責任の理論
第3章 少年保護と福祉の理論
第4章 犯罪化・非行化と社会変動
第5章 刑事政策の近代化と伝統文化
第6章 刑事政策の組織と民主的統制
2023年07月31日
所一彦「刑事政策の基礎理論」(大成出版社1994)
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| 刑法
2021年01月18日
橋爪隆「刑法総論の悩みどころ」(有斐閣2020)
分析が鋭利すぎて、刑法学の見えちゃいけない部分が見えちゃっている。
橋爪隆「刑法総論の悩みどころ」(有斐閣2020)
【各論】
橋爪隆「刑法各論の悩みどころ」(有斐閣2022)
○
たとえば、因果関係に関する次のような記述(11頁)。
そもそも危険の現実化が因果関係の判断基準とされるのはいかなる根拠に基づくものだろうか。条件関係が認められても、危険の現実化の関係が欠ける場合に結果帰責を否定すべきなのはなぜだろうか。
この問題に対して理論的に回答することは実は困難であり、実行行為が結果発生の具体的危険性を有する行為である以上、その危険性が具体的結果として現実化した場合に限って、結果帰責を肯定するのが妥当であるという形式的な説明にとどまらざるを得ない。ここでは理論的な限定というよりも、いかなる範囲まで処罰することが刑罰権の行使として適切かという刑事政策的な観点が重視されている。(略)
いかなる範囲までの結果惹起を行為者の「しわざ」として帰責するのが妥当かという社会通念に照らした合理的な価値判断が必要であろう。それだからこそ、因果関係論においては、安定した判断構造を担保するために、具体的な判断基準を明確化する要請が強いといえる。
理論的な根拠付けは困難だそうで。
にもかかわらず、学説上はこぞって「危険の現実化」説にのっかってしまっている現状。
『構成要件は違法有責類型だから折衷的相当因果関係説が妥当』
『行為は主観と客観の統一体であるから折衷的相当因果関係説が妥当』
こんな感じの、本質論めいた根拠付けをしていたかつての学説は、一体なんだったというのでしょうか?
そしてそんな議論に真面目に付き合わされていた、当時の学習者の労苦よ。
なお、ふたつとも折衷説の記述であることに悪気はなく、下記書籍であげつらわれていたものの引用です(責任転嫁)。
【参照】
松澤伸「機能主義刑法学の理論―デンマーク刑法学の思想」(信山社2001)
○
で、本書では実際に、「危険の現実化」をどのような要素を拾ってどのように判断するか、という「下位基準」の開発に記述が割かれています。
危険の現実化という定式には異を唱えることなく、妥当な結論を導ける下位基準群を提示する、という開発競争が学説のメインストリームになっているようで。
「妥当な」というのも、処罰すべき/すべきでない、という感覚が先にあって、それら感覚的な結論を整合的に導けるか、というものにすぎないように思われます。
そしてその下位基準が「危険の現実化」という標語・コトバから離れていなければ、どのようなものであっても特に理論的な制約はないのでしょうし。
あとは最高裁様に、つまみ食い的にでも採用していただくだけ。
「感覚的」というのが言い過ぎだとすれば「刑事政策的」に言い換えても構いません。
が、何かしらのデータに基づく主張でもないので、「刑事政策的に処罰すべき」と「感覚的に処罰すべき」は互換性が保証済み。
そもそも、「危険の現実化」によってどのような政策目標を達成すべきかが特定されていないのならば、いかなるデータを収集すべきかも決めようがありません。
たとえば、「特別予防」を目的とするならば、過去に有罪認定された者がどのような影響を受けたかのデータを収集すべき、となりますし、他方で「一般予防」を目的とするならば、処罰/不処罰によって一般人にどのような影響を与えたかのデータを収集すべき、といったように。
本来ならば「処罰目的論」のところで、刑法がいかなる政策目標を達成すべきかを決め打ちしなければならないはず。のに、特別予防・一般予防・応報などがああでもないこうでもないと列挙されるものの、結局どれでいくのかはっきりさせない教科書がほとんど。
ので、個別論点において「処罰すべき/すべきでない」といったところで、なぜそのような結論をとるべきなのか、「ぼくが、そうするべきだと思ったから。」以上の根拠を示すことができない。
「危険の現実化」のような理論的な根拠が弱いものを基準とするならなおさら、理論面からも根拠付けすることができなくなるわけです。危険の現実化のお膝元でどれだけ精緻な下位基準を並べたところで、大元の根拠が弱いことに変わりはない。
結局のところ、「みんな」が納得する結論を導けるかどうか、でしか決めようがなくなる。
ここまでいくと、理論派の人には敬遠されがちですが、前田雅英先生がいうところの「国民の規範意識」とかいう例のアレと同じですよね。
どのような事実的連関があれば結果を行為に帰責してもよいと「国民が思うか」とか、行為者にどのような認識があれば故意責任を帰責してよいと「国民が思うか」で、犯罪要素の中身を決定するという(学生時代に読んだきりでうろ覚えなので、前田説そのものではなく「モデル論」としてご理解ください)。
前田雅英「刑法総論講義 第7版」(東京大学出版会2019)
○
と、刑法学者がこぞって下位基準の開発競争に興じているのが現状のようですが、そもそもこれって「実体法」レベルの問題なんですかね?
危険の現実化という実体法レベルの要証事実を判断するための「間接事実」の問題にすぎないのではないのかと。
これはもはや「事実認定論」の領域。
もしそうなのだとしたら、これまでの実体法と地続きで議論するのではなく、ちゃんと正面から「事実認定論」の成果を取り入れた形で論じてほしいところ。
○
ちなみに、上述した前田雅英先生の見解のところでふれた「国民が思うか」という鉤括弧の中身について。
こんなもんどうやって判断するんだよ、と思うところですが、前田先生は、これまでの裁判官の判断は信頼できる、として裁判官の判断に全面的に委ねているようにみえます(私の誤読がなければの話)。
このことを正面から反映して記述するならば、
どのような事実的連関があれば結果を行為に帰責してよいと『「国民が思う」と裁判官が思うか』
という入れ子な感じになるのではないかと思います。
裁判の都度、実際に「国民」の人たちに、裁判記録一式を持参してご感想を聞いて回ることなどできるわけもなく。
結局のところ、裁判官が「国民がどう思うか」を判断することになるので、こういう入れ子構造になる。
なお、「裁判員裁判」もありますが、裁判員は国民の極々一部の人にすぎないので、ここでは裁判官側に組み入れられる(吸収される?)ものなのでしょう(さらに裁判の民主化なるものを先鋭化していくと、「インターネット裁判」という構想に向かうのでしょうか)。
どれだけ純客観的な見解であっても、結局のところ「裁判官が思うか」で判断されることに変わりはありません(ここが「AI裁判官」に代替されれば別の議論になります)。
前田説の特色は、そのことを実体法の議論に正面から持ち出したということと、「(国民が)思う×(裁判官が)思う」の重ねがけになっているというところ。
危険の現実化という規範風のものに理論的な根拠がないとしても、「危険の現実化」というコトバの範囲に含まれるか、という程度の枠としては機能しています。
他方で「国民の規範意識」というコトバには何の手がかりもない。ハードケースに対して裁判官が「これが国民の規範意識だ」と判断したとして、なにがしかの検証を行うことは不可能。
「自分には妖精がみえる」というのと同等の、検証不能案件。
我々が見えていないだけで本人には本当に見えているのかもしれません。だとしても、それは本人にしか分からない。
なお、他人事みたいな顔しているかもしれませんが、不能犯のところの「具体的危険説」なども、妖精案件だと私は思っています。
「一般人が危険と感じる」って、どうやって実証するんですか、と。これも全面的に裁判官が「一般人ならこう思う」と思うところにおまかせするしかない。
井田良「講義刑法学・総論 第2版」(有斐閣2018)
「国民」も「一般人」も、概念としては存在するものの、観測しようとすると存在していないことになる。
例の量子論の世界でしょうか。
パラドキシカル同居 〜或いは税務シュレディンガーの○○
本来はここに「理論」を導入することで白黒つけるべきなのでしょう。が、現状はその「理論」が不在という状況。
○
話を戻して、私が思うに「危険の現実化」などという定式は、学説が「つかえる」因果関係論を提示できなかったことから産み出された暫定基準のようにみえます。
さしあたり特定の処罰目的論を前提とすることなく、妥当な結論を柔軟に導くことができる実務家の知恵のようなもの。
のに、学説までもがこぞって最高裁の下請け作業に明け暮れているのだとしたら、とても違和感があります。
学説がやるべき本来の仕事は、裁判所が暫定基準でしのいでいる間に、「つかえる」因果関係論を確立することではないのでしょうか。
もちろん、さしあたりの下位基準の開発作業も進めつつでもいいのですが、それは決して本業ではない。
○
「因果関係論」で代表させましたが、以降の論点も総じて、下位基準による判断手法の精緻化が志向されています。
グランドセオリーについても一応議論のご紹介はあるものの、かつてほど重きは置かれておらず、主戦場は下位基準レベルの議論。
おかげさまで、どういう立場の人が読んでも参考になってしまう(いい事ですね)。
もし仮に、因果関係論が「危険の現実化」という看板からすげかわったとしても、下位基準そのものはどうとでも流用可能なもの。
従前の相当因果関係説で議論されていた事柄のうち、純理論的な対立を除いた部分を危険の現実化に流用できるのと同じ。無残にも破壊され尽くされた相当因果関係説の残骸から、使えるパーツを取り出して危険の現実化に組み込むイメージです。
規範の論証薄めであてはめ重厚な、今様の模範答案を書くには最適な参考書だと思います。
○
以上、刑法解釈論を、ガチではなく「お勉強」「頭の体操」として嗜んでいた身からすると寂しい限りですが、実務寄り添い系な今どきの傾向からすれば、当然の流れなのでしょうね。
一応未来予測をしておくと、藤木英雄先生級の超天才が現れて、ちゃんと理論的基礎を備えた因果関係理論を定立してくれるのではないか、と期待しております。
前田説がガチガチの刑法理論を溶かしっぱなしにしたものを、しっかり組み立て直してくれる感じの。
藤木英雄「公害犯罪」(東京大学出版会1975)
橋爪隆「刑法総論の悩みどころ」(有斐閣2020)
【各論】
橋爪隆「刑法各論の悩みどころ」(有斐閣2022)
○
たとえば、因果関係に関する次のような記述(11頁)。
そもそも危険の現実化が因果関係の判断基準とされるのはいかなる根拠に基づくものだろうか。条件関係が認められても、危険の現実化の関係が欠ける場合に結果帰責を否定すべきなのはなぜだろうか。
この問題に対して理論的に回答することは実は困難であり、実行行為が結果発生の具体的危険性を有する行為である以上、その危険性が具体的結果として現実化した場合に限って、結果帰責を肯定するのが妥当であるという形式的な説明にとどまらざるを得ない。ここでは理論的な限定というよりも、いかなる範囲まで処罰することが刑罰権の行使として適切かという刑事政策的な観点が重視されている。(略)
いかなる範囲までの結果惹起を行為者の「しわざ」として帰責するのが妥当かという社会通念に照らした合理的な価値判断が必要であろう。それだからこそ、因果関係論においては、安定した判断構造を担保するために、具体的な判断基準を明確化する要請が強いといえる。
理論的な根拠付けは困難だそうで。
にもかかわらず、学説上はこぞって「危険の現実化」説にのっかってしまっている現状。
『構成要件は違法有責類型だから折衷的相当因果関係説が妥当』
『行為は主観と客観の統一体であるから折衷的相当因果関係説が妥当』
こんな感じの、本質論めいた根拠付けをしていたかつての学説は、一体なんだったというのでしょうか?
そしてそんな議論に真面目に付き合わされていた、当時の学習者の労苦よ。
なお、ふたつとも折衷説の記述であることに悪気はなく、下記書籍であげつらわれていたものの引用です(責任転嫁)。
【参照】
松澤伸「機能主義刑法学の理論―デンマーク刑法学の思想」(信山社2001)
○
で、本書では実際に、「危険の現実化」をどのような要素を拾ってどのように判断するか、という「下位基準」の開発に記述が割かれています。
危険の現実化という定式には異を唱えることなく、妥当な結論を導ける下位基準群を提示する、という開発競争が学説のメインストリームになっているようで。
「妥当な」というのも、処罰すべき/すべきでない、という感覚が先にあって、それら感覚的な結論を整合的に導けるか、というものにすぎないように思われます。
そしてその下位基準が「危険の現実化」という標語・コトバから離れていなければ、どのようなものであっても特に理論的な制約はないのでしょうし。
あとは最高裁様に、つまみ食い的にでも採用していただくだけ。
「感覚的」というのが言い過ぎだとすれば「刑事政策的」に言い換えても構いません。
が、何かしらのデータに基づく主張でもないので、「刑事政策的に処罰すべき」と「感覚的に処罰すべき」は互換性が保証済み。
そもそも、「危険の現実化」によってどのような政策目標を達成すべきかが特定されていないのならば、いかなるデータを収集すべきかも決めようがありません。
たとえば、「特別予防」を目的とするならば、過去に有罪認定された者がどのような影響を受けたかのデータを収集すべき、となりますし、他方で「一般予防」を目的とするならば、処罰/不処罰によって一般人にどのような影響を与えたかのデータを収集すべき、といったように。
本来ならば「処罰目的論」のところで、刑法がいかなる政策目標を達成すべきかを決め打ちしなければならないはず。のに、特別予防・一般予防・応報などがああでもないこうでもないと列挙されるものの、結局どれでいくのかはっきりさせない教科書がほとんど。
ので、個別論点において「処罰すべき/すべきでない」といったところで、なぜそのような結論をとるべきなのか、「ぼくが、そうするべきだと思ったから。」以上の根拠を示すことができない。
「危険の現実化」のような理論的な根拠が弱いものを基準とするならなおさら、理論面からも根拠付けすることができなくなるわけです。危険の現実化のお膝元でどれだけ精緻な下位基準を並べたところで、大元の根拠が弱いことに変わりはない。
結局のところ、「みんな」が納得する結論を導けるかどうか、でしか決めようがなくなる。
ここまでいくと、理論派の人には敬遠されがちですが、前田雅英先生がいうところの「国民の規範意識」とかいう例のアレと同じですよね。
どのような事実的連関があれば結果を行為に帰責してもよいと「国民が思うか」とか、行為者にどのような認識があれば故意責任を帰責してよいと「国民が思うか」で、犯罪要素の中身を決定するという(学生時代に読んだきりでうろ覚えなので、前田説そのものではなく「モデル論」としてご理解ください)。
前田雅英「刑法総論講義 第7版」(東京大学出版会2019)
○
と、刑法学者がこぞって下位基準の開発競争に興じているのが現状のようですが、そもそもこれって「実体法」レベルの問題なんですかね?
危険の現実化という実体法レベルの要証事実を判断するための「間接事実」の問題にすぎないのではないのかと。
これはもはや「事実認定論」の領域。
もしそうなのだとしたら、これまでの実体法と地続きで議論するのではなく、ちゃんと正面から「事実認定論」の成果を取り入れた形で論じてほしいところ。
○
ちなみに、上述した前田雅英先生の見解のところでふれた「国民が思うか」という鉤括弧の中身について。
こんなもんどうやって判断するんだよ、と思うところですが、前田先生は、これまでの裁判官の判断は信頼できる、として裁判官の判断に全面的に委ねているようにみえます(私の誤読がなければの話)。
このことを正面から反映して記述するならば、
どのような事実的連関があれば結果を行為に帰責してよいと『「国民が思う」と裁判官が思うか』
という入れ子な感じになるのではないかと思います。
裁判の都度、実際に「国民」の人たちに、裁判記録一式を持参してご感想を聞いて回ることなどできるわけもなく。
結局のところ、裁判官が「国民がどう思うか」を判断することになるので、こういう入れ子構造になる。
なお、「裁判員裁判」もありますが、裁判員は国民の極々一部の人にすぎないので、ここでは裁判官側に組み入れられる(吸収される?)ものなのでしょう(さらに裁判の民主化なるものを先鋭化していくと、「インターネット裁判」という構想に向かうのでしょうか)。
どれだけ純客観的な見解であっても、結局のところ「裁判官が思うか」で判断されることに変わりはありません(ここが「AI裁判官」に代替されれば別の議論になります)。
前田説の特色は、そのことを実体法の議論に正面から持ち出したということと、「(国民が)思う×(裁判官が)思う」の重ねがけになっているというところ。
危険の現実化という規範風のものに理論的な根拠がないとしても、「危険の現実化」というコトバの範囲に含まれるか、という程度の枠としては機能しています。
他方で「国民の規範意識」というコトバには何の手がかりもない。ハードケースに対して裁判官が「これが国民の規範意識だ」と判断したとして、なにがしかの検証を行うことは不可能。
「自分には妖精がみえる」というのと同等の、検証不能案件。
我々が見えていないだけで本人には本当に見えているのかもしれません。だとしても、それは本人にしか分からない。
なお、他人事みたいな顔しているかもしれませんが、不能犯のところの「具体的危険説」なども、妖精案件だと私は思っています。
「一般人が危険と感じる」って、どうやって実証するんですか、と。これも全面的に裁判官が「一般人ならこう思う」と思うところにおまかせするしかない。
井田良「講義刑法学・総論 第2版」(有斐閣2018)
「国民」も「一般人」も、概念としては存在するものの、観測しようとすると存在していないことになる。
例の量子論の世界でしょうか。
パラドキシカル同居 〜或いは税務シュレディンガーの○○
本来はここに「理論」を導入することで白黒つけるべきなのでしょう。が、現状はその「理論」が不在という状況。
○
話を戻して、私が思うに「危険の現実化」などという定式は、学説が「つかえる」因果関係論を提示できなかったことから産み出された暫定基準のようにみえます。
さしあたり特定の処罰目的論を前提とすることなく、妥当な結論を柔軟に導くことができる実務家の知恵のようなもの。
のに、学説までもがこぞって最高裁の下請け作業に明け暮れているのだとしたら、とても違和感があります。
学説がやるべき本来の仕事は、裁判所が暫定基準でしのいでいる間に、「つかえる」因果関係論を確立することではないのでしょうか。
もちろん、さしあたりの下位基準の開発作業も進めつつでもいいのですが、それは決して本業ではない。
○
「因果関係論」で代表させましたが、以降の論点も総じて、下位基準による判断手法の精緻化が志向されています。
グランドセオリーについても一応議論のご紹介はあるものの、かつてほど重きは置かれておらず、主戦場は下位基準レベルの議論。
おかげさまで、どういう立場の人が読んでも参考になってしまう(いい事ですね)。
もし仮に、因果関係論が「危険の現実化」という看板からすげかわったとしても、下位基準そのものはどうとでも流用可能なもの。
従前の相当因果関係説で議論されていた事柄のうち、純理論的な対立を除いた部分を危険の現実化に流用できるのと同じ。無残にも破壊され尽くされた相当因果関係説の残骸から、使えるパーツを取り出して危険の現実化に組み込むイメージです。
規範の論証薄めであてはめ重厚な、今様の模範答案を書くには最適な参考書だと思います。
○
以上、刑法解釈論を、ガチではなく「お勉強」「頭の体操」として嗜んでいた身からすると寂しい限りですが、実務寄り添い系な今どきの傾向からすれば、当然の流れなのでしょうね。
一応未来予測をしておくと、藤木英雄先生級の超天才が現れて、ちゃんと理論的基礎を備えた因果関係理論を定立してくれるのではないか、と期待しております。
前田説がガチガチの刑法理論を溶かしっぱなしにしたものを、しっかり組み立て直してくれる感じの。
藤木英雄「公害犯罪」(東京大学出版会1975)
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2020年05月25日
井田良「犯罪論の現在と目的的行為論」(成文堂1996)
井田良先生の論文集。
井田良「犯罪論の現在と目的的行為論」(成文堂1996)
井田先生のご著書は、以前にも教科書等の紹介を記事にしたことがあります。
井田良「入門刑法学・総論」(有斐閣2018)ほか
井田良「講義刑法学・総論 第2版」(有斐閣2018)
井田良「講義刑法学・各論 第2版」(有斐閣2020)
さしあたって、刑法について深く勉強する必要性に迫られているわけではないです。
が、頭のいい人の鮮やかな分析を読んで思考のめぐりをすっきりさせよう、という目的で読んでみました。
【同じノリ】
白石忠志「技術と競争の法的構造」(有斐閣1994)
○
前回までの記事では、「印紙税法総論」を樹立しようという誇大妄想のために脳のリソースを無駄遣いしていました。
【印紙税法総論樹立の道程】
私法の一般法とかいってふんぞり返っているわりに、隙だらけ。〜契約の成立と印紙税法
続・契約の成立と印紙税法(法適用通則法がこちらをみている)
続々・契約の成立と印紙税法(代理法がこちらをみている)
さよなら契約の成立と印紙税法 (結局いつもひとり)
魔界の王子と契約の成立と印紙税法
二段の推定と契約の成立と印紙税法 〜印紙税法における実体法と手続法の交錯
あのもちろん、本気で主張しているのではなく。
こんな畢竟独自の見解をもって、「印紙税法学会に新風を巻き起こしてやる!」などと思っていません。
これは思考をあれこれ巡らしながらアウトプットすることで、実務で難問がでてきたときにも自力で問題を解決できる「税務思考力」を鍛えるのが目的です。
「税務系」の本でそういったゴリゴリの「思考力」を鍛えてくれるものって、なかなか見当たらなくって。良くも悪くもプラグマティック。または高尚な憲法論(あくまで私の観測範囲です)。
税法学でも、確かにこういう面白い本があったりはします。
浅妻章如「ホームラン・ボールを拾って売ったら二回課税されるのか」(中央経済社2020)
が、これは「数理」ベースでの優れた本。
法律の条文が「言語」で構成されている以上、「言語」ベースでの思考力というのが必須になります。
法解釈において「数理」は、基本的に言語の背後でバックボーンとして働かせるものでしょう。
このブログの「思考巡らし系」の記事の中に出てくる思考のヒントが、刑法学や手形法学などといった税法学以外ばかりなのは、そういった事情のせい。
ただし、いまさら手形法学、というか前田説(創造説)の考え方を印紙税法に活用するなどというのは、私個人の極めて特殊な「法癖」(法に関するフェチ)でしょうが。
前田庸「手形法・小切手法入門」(有斐閣 1983)
○
例によって、出版社のサイトやネット書店には「目次」(所収論文)が載っていません。
そういう場合は「国立国会図書館サーチ」や「CiNii Books」などで検索。
国立国会図書館サーチ
CiNii Books
「CiNii Books」の検索結果がこれ。
一応ここにも載せておきます。
・目的的行為論と犯罪論の現在
・過失犯と目的的行為論
・犯罪論体系と構成要件概念
・因果関係の「相当性」に関する一試論
・違法性における結果無価値と行為無価値−いわゆる偶然防衛をめぐって
・故意なき者に対する教唆犯は成立しするか
・火災事故における管理・監督過失
○
当然のことながら、私が中身についてどうこういえるものではないです。
ので、以下はただのド素人の感想。
・目的的行為論と犯罪論の現在
・過失犯と目的的行為論
「学説対立もの」の論文の場合、おなじ土俵に学説をならべて自説の主張と他説への批判を展開していくのが常道かと思います。
が、これら論文では、他説からの批判に対して同レベルで反論するにとどまらず、「そういうお前らだって、知らず知らずのうちに目的的行為論の前提を共有してるぞ」と、他説の中にある、目的的行為論的な側面をえぐり出しています。
いわゆる「釈迦の手のひら論文」ですね。
釈迦如来:目的的行為論
斉天大聖:その他行為論
・犯罪論体系と構成要件概念
もとが法学教室掲載ということで、若干の窮屈感を感じる(文字数的な)。
この論文よりも、本書の他の論文でも参照されている「体系的思考と問題的思考」(法学教室102号(1989))のほうが気になる。
・因果関係の「相当性」に関する一試論
死にかけの「相当因果関係説」をどうにか活かせないかを模索したもの。
相当説の枠内で、判例的な、あるいは客観的帰属の理論的な考慮を取り込めないかと。
残念ながら、この数十年後に「さよなら相当因果関係説」論文がでてフィニッシュ!
刑法における因果関係論をめぐって : 相当因果関係説から危険現実化説へ(慶應法学)
・違法性における結果無価値と行為無価値−いわゆる偶然防衛をめぐって
偶然防衛を題材にしながら、結果無価値論・行為無価値論の再定位を論じたもの。
P.157
「いかなる根拠と基準によって、違法要素のなかで「事前判断の要素」と「事後判断の要素」とを合理的に区別するか」
違法要素の中でも、事前・事後どちらか一方ではなく、事前に判断すべきものと事後で判断すべきものがあって、その適切な使い分けが必要ということですね。
「行為無価値と結果無価値という対概念に「幻惑」されることによって」などということが書いてあったりもします。
確かに、従前の「行為無価値/結果無価値」という軸では違法性の判断をうまく制御できないように思えます。自説を維持するために、互いに大事なものを捨ててしまっているようにも見えますし。
そうすると、論者の怨念がまとわりついた「行為無価値」「結果無価値」という概念自体、もう使わないほうがいいんじゃないですかね。
本来のあるべき機能に即して「事前/事後」という軸で統一してしまえばいいような。
「さよなら行為無価値・結果無価値」論文が求められている(もちろん、一定の役割を果たしたことに対する感謝の気持ちを忘れずに)。
ちなみに、この「使い分け」という発想、印紙税法で課税事項は「文書」で判断、納税義務者は「実体」で判断という印紙税法における「二分論」(畢竟独自の見解)と同様な発想です(我田引水)。
P.162
「そもそも、以前からこれほど見解がいちじるしく対立している論争問題において、いまさら「法感情に反する」という批判をいくら積み重ねても不毛といわなければならない。当然のことながら、クールな理論的分析のみが議論を進展させるのである。」
偶然防衛不可罰説に対する批判への応答。
不毛とか、もうボロクソ。
「法感情に反する」という批判の薄弱さ、この論点にかぎらないことです。
P.169
「主観的要素(とくに、未遂犯における故意)は客観的事実に還元できるのであり、その客観的要素を違法要素として捉え直すべきだともいわれる。しかし、主観的要素を客観的事実に還元できるというのは、主観的要素は(客観的事実たる)状況証拠によって認定されるという訴訟法上の認定の仕方を言い直したものにすぎない。そもそも実体法上の要件とは、まさにそのような状況証拠によって証明されるべき対象を示すものであって、ある事実がそれとは別の客観的事実からの推認によって認定されるからといって、それらの客観的事実そのものが実体法上の要件となるわけではない。」
実体法レベルの要件そのものと、それを訴訟法上何によって認定するかとの混同を諌めるもの。
ただし、この記述でいう未遂犯における故意は、あくまでも危険性判定のためのひとつの「要素」であって、「要件」そのものではないように思います。故意があれば危険性が高まることはあるのでしょうが、他方で故意がなければおよそ可罰的危険性がなくなるわけでもない。
ので、実体法/訴訟法のみならず、要件/要素の区別も大事です。
なお、印紙税法(実体法)と二段の推定(訴訟法)との関係を論じた前回の記事でも、この点を常に意識していないと、危うく混同しそうになるところでした(分けきれていないかも)。
二段の推定と契約の成立と印紙税法 〜印紙税法における実体法と手続法の交錯
○
脱線しますが、未遂犯と故意の関係について思うところ。
(危険判断における故意の位置づけに触れたいだけなので、そもそも危険性をどのように判断するか、という肝心の本体部分は脇においてます。)
A ナタデココで撫でまわしてころそう
⇒いくらそう思ってても危険とはいえないでしょう。
B Aの被害者が致死性のナタデココアレルギーだったら
⇒行為者が知らなくっても危険ではあるでしょう。
C 被害者に銃口を突きつけ引き金に手をかけるが、引き金を引く気はない
⇒つもりはなくってもさすがに危険だよ。
これら例からすると、危険性判断においては、
・行為が危険でないなら、いくら故意があっても危険にはならない。
・行為が相当に危険なら故意を考慮する必要はない。
とすべきではないでしょうか。
行為が中立的でそれだけでは危険性の有無ができない場合に、主観を考慮すればいいと。
ただ、主観を考慮するにしても、必ずしも故意そのものである必要はなく、危険性のある行為を遂行しようとする意思(行為意思)でも足ります。
また、銃器の扱いに慣れている人がそこそこの気分で実行しようとする場合と、ド素人がやる気満々で実行しようとする場合とで、ド素人のほうが危険性が高いということもないでしょう(アブねー奴、という意味では危険ですが)。
ので、危険性判断における主観の位置づけは、あくまでも補助的・付加的な役割にとどまると考えられます。
もちろん、故意がなければ未遂犯は成立しません。
が、正当防衛や共犯などを視野に入れると、危険性判断(違法性)と故意(責任)とは区別しておくのがよいかと。
あるいは、故意概念のほうを、抽象的なころすつもりで足りるとするのではなく、具体的な行為に向けられた意思とすることもありうるでしょうか。
しかしそうすると、Cの場合、危険性のある行為を認識している以上故意ありとなって、うっかり結果を発生させたら故意既遂犯となりかねない。
それはさすがに過失犯だろうという気がします。
○
では、Bで結果が発生した場合はどうか。
「ナタデココ撫で」で人をころそうとする異常な行為が「致死性のナタデココアレルギー持ち」とコラボすることで起きた奇跡。
故意の内容としては、やはり被害者が致死性のナタデココアレルギーであることの認識は要求すべきだと思うのですが、どうでしょう。
自己の行為の具体的な危険性の認識とその危険を実現しようとする意思の両方が必要ではないかと。
因果関係を「危険の現実化」とするなら、故意の内容もそれにあわせて変質させるべきではないかと思うのですが。
それをどのように規範的に根拠付けるか、特に何のアイディアも思い浮かんでいませんけども。
ではってことで、話を巻き戻して危険性判断(違法性)にもそのような認識を必須とすべきでしょうか。
被害者が抵抗することが正当防衛として正当化されないとしたらおかしいです。行為者が無自覚とはいえ、被害者がそれを甘受すべき言われはないわけで。
ので、危険性判断(違法性)レベルでは当該認識は要求すべきでないと。
○
実体法と訴訟法を区別することは大事。
なんですが、そのせいで実体法の教科書の中で事実認定のことがさっぱり触れられないとしたら、それはそれで弊害。
それぞれの陣営から、未遂犯の故意が主観的違法要素になるか否かが論じられているものの、教科書レベルだとそこで終わってしまいます。
が、その先、具体的にどのような要素をもってどのように危険性・故意を判断するのか、といった事実認定・証拠構造のところまでフォローしてほしいところ。
実体法内部で説の優劣を決めることもできるのでしょうが、事実認定レベルで使い物になるか、というのも説の優劣を決めるのに重要な要素になるはずですし(かといって、要件事実論に関する研修所見解への阿り度の高い、民法教科書みたいになるのもどうかとは思いますが)。
と、ここまで書いてきてふと思ったのが、やはり主観面は危険性という要証事実に対する間接事実・間接証拠にすぎないのではないか、という気がしないでもない。
○
さらにいうと、犯罪の実質的要素を「違法性/責任」に二分すること自体、不適切なのではないかと思わないでもない。
どちらにも居場所のない要素を「処罰条件」とかいったり、業務性・常習性などといった要素を無理やり違法性か責任に引きつけて説明したり、あるいは違法性・責任で説明しきれないものを「政策説」で根拠付けたり。
すべての犯罪要素をカバーしきれていないのではないかと。
現状論じられている全ての犯罪要素を
・行為/結果
・人/物
・事前/事後
・主観/客観
・形式/実質
などなどの切り口で分解して、あらためて組み直してみたらどうでしょう(オーバーホール刑法総論)。
たとえば、「正当防衛」にしても、現状では違法性阻却事由の中に押し込められて論じられています。
が、個々の要件ごとに事前判断が必要だったり事後判断が必要だったり、あるいは主観を考慮したり客観のみで判断したり、中身はバラバラなわけです。
バラバラといっても、それぞれの要件はそれぞれの機能を適切に果たすためにそういう考慮をしています。
にもかかわらず、それを「違法性」という一つの概念で説明しきるのは無理があるんじゃないのかと。
犯罪の処罰目的と個々の犯罪要素の間に、「違法性/責任」という中二階的な概念を挟むことで議論がクリアになる、というなら意味のあることでしょう。
が、現状では、むしろ個々の犯罪要素が適切な機能を果たすことの邪魔になっているのではないか、との認識。
今はもうないのかもしれませんが、
・違法性は主観と客観の統一体
・正当防衛は違法性阻却事由
・ので正当防衛には防衛の意思が要求される
みたいな論述。
なにかを論証しているようで何の論証にもなっていない。
違法性という概念を用いずに防衛の意思を根拠づけよ、としたほうが生産性のある議論(この対義語が不毛な議論)ができると思うんですけど(縛りプレイ)。
そもそも、犯罪の実質的要素が違法性と責任で構成されている、という点では見解が一致しているにもかかわらず、その中身で争っているという状態が私にはよく理解できません。
同じ電車の右の車窓を見ている人が「私には山が見えている」といい、左を見ている人が「いやいや山なんか見えない、私には海が見えている」と言って争っているような。
違うところを見ているんだから、当然違うものが見えるでしょうと。
違法性/責任といった立派なワードの取り合いをしている、と理解すればいいんですかね。
あまり詰めても私の能力ではまとめようがないので、このへんにしておきます。
・火災事故における管理・監督過失
あくまでも「個人責任」ベースの現行刑法の枠内で、管理過失・監督過失をどのように組み立てるかを扱ったもの。
私個人の関心事は、「組織犯罪」であることを正面から扱うことはできないか、という点にあるので、すれ違い(極々個人的な事情)。
藤木英雄「公害犯罪」(東京大学出版会1975)
○
以上、ぜひとも読んだほうがいいのですが、そうお気軽に入手できるものではないので、そういう意味ではおすすめし難い(クレイジープライスなのはこのご時世のせいではない)。
こちらなら、まだ手に入りやすいですかね。
井田良「変革の時代における理論刑法学」(慶應義塾大学出版会2007)
https://www.keio-up.co.jp/kup/webonly/law/riron/sp.html
井田良「犯罪論の現在と目的的行為論」(成文堂1996)
井田先生のご著書は、以前にも教科書等の紹介を記事にしたことがあります。
井田良「入門刑法学・総論」(有斐閣2018)ほか
井田良「講義刑法学・総論 第2版」(有斐閣2018)
井田良「講義刑法学・各論 第2版」(有斐閣2020)
さしあたって、刑法について深く勉強する必要性に迫られているわけではないです。
が、頭のいい人の鮮やかな分析を読んで思考のめぐりをすっきりさせよう、という目的で読んでみました。
【同じノリ】
白石忠志「技術と競争の法的構造」(有斐閣1994)
○
前回までの記事では、「印紙税法総論」を樹立しようという誇大妄想のために脳のリソースを無駄遣いしていました。
【印紙税法総論樹立の道程】
私法の一般法とかいってふんぞり返っているわりに、隙だらけ。〜契約の成立と印紙税法
続・契約の成立と印紙税法(法適用通則法がこちらをみている)
続々・契約の成立と印紙税法(代理法がこちらをみている)
さよなら契約の成立と印紙税法 (結局いつもひとり)
魔界の王子と契約の成立と印紙税法
二段の推定と契約の成立と印紙税法 〜印紙税法における実体法と手続法の交錯
あのもちろん、本気で主張しているのではなく。
こんな畢竟独自の見解をもって、「印紙税法学会に新風を巻き起こしてやる!」などと思っていません。
これは思考をあれこれ巡らしながらアウトプットすることで、実務で難問がでてきたときにも自力で問題を解決できる「税務思考力」を鍛えるのが目的です。
「税務系」の本でそういったゴリゴリの「思考力」を鍛えてくれるものって、なかなか見当たらなくって。良くも悪くもプラグマティック。または高尚な憲法論(あくまで私の観測範囲です)。
税法学でも、確かにこういう面白い本があったりはします。
浅妻章如「ホームラン・ボールを拾って売ったら二回課税されるのか」(中央経済社2020)
が、これは「数理」ベースでの優れた本。
法律の条文が「言語」で構成されている以上、「言語」ベースでの思考力というのが必須になります。
法解釈において「数理」は、基本的に言語の背後でバックボーンとして働かせるものでしょう。
このブログの「思考巡らし系」の記事の中に出てくる思考のヒントが、刑法学や手形法学などといった税法学以外ばかりなのは、そういった事情のせい。
ただし、いまさら手形法学、というか前田説(創造説)の考え方を印紙税法に活用するなどというのは、私個人の極めて特殊な「法癖」(法に関するフェチ)でしょうが。
前田庸「手形法・小切手法入門」(有斐閣 1983)
○
例によって、出版社のサイトやネット書店には「目次」(所収論文)が載っていません。
そういう場合は「国立国会図書館サーチ」や「CiNii Books」などで検索。
国立国会図書館サーチ
CiNii Books
「CiNii Books」の検索結果がこれ。
一応ここにも載せておきます。
・目的的行為論と犯罪論の現在
・過失犯と目的的行為論
・犯罪論体系と構成要件概念
・因果関係の「相当性」に関する一試論
・違法性における結果無価値と行為無価値−いわゆる偶然防衛をめぐって
・故意なき者に対する教唆犯は成立しするか
・火災事故における管理・監督過失
○
当然のことながら、私が中身についてどうこういえるものではないです。
ので、以下はただのド素人の感想。
・目的的行為論と犯罪論の現在
・過失犯と目的的行為論
「学説対立もの」の論文の場合、おなじ土俵に学説をならべて自説の主張と他説への批判を展開していくのが常道かと思います。
が、これら論文では、他説からの批判に対して同レベルで反論するにとどまらず、「そういうお前らだって、知らず知らずのうちに目的的行為論の前提を共有してるぞ」と、他説の中にある、目的的行為論的な側面をえぐり出しています。
いわゆる「釈迦の手のひら論文」ですね。
釈迦如来:目的的行為論
斉天大聖:その他行為論
・犯罪論体系と構成要件概念
もとが法学教室掲載ということで、若干の窮屈感を感じる(文字数的な)。
この論文よりも、本書の他の論文でも参照されている「体系的思考と問題的思考」(法学教室102号(1989))のほうが気になる。
・因果関係の「相当性」に関する一試論
死にかけの「相当因果関係説」をどうにか活かせないかを模索したもの。
相当説の枠内で、判例的な、あるいは客観的帰属の理論的な考慮を取り込めないかと。
残念ながら、この数十年後に「さよなら相当因果関係説」論文がでてフィニッシュ!
刑法における因果関係論をめぐって : 相当因果関係説から危険現実化説へ(慶應法学)
・違法性における結果無価値と行為無価値−いわゆる偶然防衛をめぐって
偶然防衛を題材にしながら、結果無価値論・行為無価値論の再定位を論じたもの。
P.157
「いかなる根拠と基準によって、違法要素のなかで「事前判断の要素」と「事後判断の要素」とを合理的に区別するか」
違法要素の中でも、事前・事後どちらか一方ではなく、事前に判断すべきものと事後で判断すべきものがあって、その適切な使い分けが必要ということですね。
「行為無価値と結果無価値という対概念に「幻惑」されることによって」などということが書いてあったりもします。
確かに、従前の「行為無価値/結果無価値」という軸では違法性の判断をうまく制御できないように思えます。自説を維持するために、互いに大事なものを捨ててしまっているようにも見えますし。
そうすると、論者の怨念がまとわりついた「行為無価値」「結果無価値」という概念自体、もう使わないほうがいいんじゃないですかね。
本来のあるべき機能に即して「事前/事後」という軸で統一してしまえばいいような。
「さよなら行為無価値・結果無価値」論文が求められている(もちろん、一定の役割を果たしたことに対する感謝の気持ちを忘れずに)。
ちなみに、この「使い分け」という発想、印紙税法で課税事項は「文書」で判断、納税義務者は「実体」で判断という印紙税法における「二分論」(畢竟独自の見解)と同様な発想です(我田引水)。
P.162
「そもそも、以前からこれほど見解がいちじるしく対立している論争問題において、いまさら「法感情に反する」という批判をいくら積み重ねても不毛といわなければならない。当然のことながら、クールな理論的分析のみが議論を進展させるのである。」
偶然防衛不可罰説に対する批判への応答。
不毛とか、もうボロクソ。
「法感情に反する」という批判の薄弱さ、この論点にかぎらないことです。
P.169
「主観的要素(とくに、未遂犯における故意)は客観的事実に還元できるのであり、その客観的要素を違法要素として捉え直すべきだともいわれる。しかし、主観的要素を客観的事実に還元できるというのは、主観的要素は(客観的事実たる)状況証拠によって認定されるという訴訟法上の認定の仕方を言い直したものにすぎない。そもそも実体法上の要件とは、まさにそのような状況証拠によって証明されるべき対象を示すものであって、ある事実がそれとは別の客観的事実からの推認によって認定されるからといって、それらの客観的事実そのものが実体法上の要件となるわけではない。」
実体法レベルの要件そのものと、それを訴訟法上何によって認定するかとの混同を諌めるもの。
ただし、この記述でいう未遂犯における故意は、あくまでも危険性判定のためのひとつの「要素」であって、「要件」そのものではないように思います。故意があれば危険性が高まることはあるのでしょうが、他方で故意がなければおよそ可罰的危険性がなくなるわけでもない。
ので、実体法/訴訟法のみならず、要件/要素の区別も大事です。
なお、印紙税法(実体法)と二段の推定(訴訟法)との関係を論じた前回の記事でも、この点を常に意識していないと、危うく混同しそうになるところでした(分けきれていないかも)。
二段の推定と契約の成立と印紙税法 〜印紙税法における実体法と手続法の交錯
○
脱線しますが、未遂犯と故意の関係について思うところ。
(危険判断における故意の位置づけに触れたいだけなので、そもそも危険性をどのように判断するか、という肝心の本体部分は脇においてます。)
A ナタデココで撫でまわしてころそう
⇒いくらそう思ってても危険とはいえないでしょう。
B Aの被害者が致死性のナタデココアレルギーだったら
⇒行為者が知らなくっても危険ではあるでしょう。
C 被害者に銃口を突きつけ引き金に手をかけるが、引き金を引く気はない
⇒つもりはなくってもさすがに危険だよ。
これら例からすると、危険性判断においては、
・行為が危険でないなら、いくら故意があっても危険にはならない。
・行為が相当に危険なら故意を考慮する必要はない。
とすべきではないでしょうか。
行為が中立的でそれだけでは危険性の有無ができない場合に、主観を考慮すればいいと。
ただ、主観を考慮するにしても、必ずしも故意そのものである必要はなく、危険性のある行為を遂行しようとする意思(行為意思)でも足ります。
また、銃器の扱いに慣れている人がそこそこの気分で実行しようとする場合と、ド素人がやる気満々で実行しようとする場合とで、ド素人のほうが危険性が高いということもないでしょう(アブねー奴、という意味では危険ですが)。
ので、危険性判断における主観の位置づけは、あくまでも補助的・付加的な役割にとどまると考えられます。
もちろん、故意がなければ未遂犯は成立しません。
が、正当防衛や共犯などを視野に入れると、危険性判断(違法性)と故意(責任)とは区別しておくのがよいかと。
あるいは、故意概念のほうを、抽象的なころすつもりで足りるとするのではなく、具体的な行為に向けられた意思とすることもありうるでしょうか。
しかしそうすると、Cの場合、危険性のある行為を認識している以上故意ありとなって、うっかり結果を発生させたら故意既遂犯となりかねない。
それはさすがに過失犯だろうという気がします。
○
では、Bで結果が発生した場合はどうか。
「ナタデココ撫で」で人をころそうとする異常な行為が「致死性のナタデココアレルギー持ち」とコラボすることで起きた奇跡。
故意の内容としては、やはり被害者が致死性のナタデココアレルギーであることの認識は要求すべきだと思うのですが、どうでしょう。
自己の行為の具体的な危険性の認識とその危険を実現しようとする意思の両方が必要ではないかと。
因果関係を「危険の現実化」とするなら、故意の内容もそれにあわせて変質させるべきではないかと思うのですが。
それをどのように規範的に根拠付けるか、特に何のアイディアも思い浮かんでいませんけども。
ではってことで、話を巻き戻して危険性判断(違法性)にもそのような認識を必須とすべきでしょうか。
被害者が抵抗することが正当防衛として正当化されないとしたらおかしいです。行為者が無自覚とはいえ、被害者がそれを甘受すべき言われはないわけで。
ので、危険性判断(違法性)レベルでは当該認識は要求すべきでないと。
○
実体法と訴訟法を区別することは大事。
なんですが、そのせいで実体法の教科書の中で事実認定のことがさっぱり触れられないとしたら、それはそれで弊害。
それぞれの陣営から、未遂犯の故意が主観的違法要素になるか否かが論じられているものの、教科書レベルだとそこで終わってしまいます。
が、その先、具体的にどのような要素をもってどのように危険性・故意を判断するのか、といった事実認定・証拠構造のところまでフォローしてほしいところ。
実体法内部で説の優劣を決めることもできるのでしょうが、事実認定レベルで使い物になるか、というのも説の優劣を決めるのに重要な要素になるはずですし(かといって、要件事実論に関する研修所見解への阿り度の高い、民法教科書みたいになるのもどうかとは思いますが)。
と、ここまで書いてきてふと思ったのが、やはり主観面は危険性という要証事実に対する間接事実・間接証拠にすぎないのではないか、という気がしないでもない。
○
さらにいうと、犯罪の実質的要素を「違法性/責任」に二分すること自体、不適切なのではないかと思わないでもない。
どちらにも居場所のない要素を「処罰条件」とかいったり、業務性・常習性などといった要素を無理やり違法性か責任に引きつけて説明したり、あるいは違法性・責任で説明しきれないものを「政策説」で根拠付けたり。
すべての犯罪要素をカバーしきれていないのではないかと。
現状論じられている全ての犯罪要素を
・行為/結果
・人/物
・事前/事後
・主観/客観
・形式/実質
などなどの切り口で分解して、あらためて組み直してみたらどうでしょう(オーバーホール刑法総論)。
たとえば、「正当防衛」にしても、現状では違法性阻却事由の中に押し込められて論じられています。
が、個々の要件ごとに事前判断が必要だったり事後判断が必要だったり、あるいは主観を考慮したり客観のみで判断したり、中身はバラバラなわけです。
バラバラといっても、それぞれの要件はそれぞれの機能を適切に果たすためにそういう考慮をしています。
にもかかわらず、それを「違法性」という一つの概念で説明しきるのは無理があるんじゃないのかと。
犯罪の処罰目的と個々の犯罪要素の間に、「違法性/責任」という中二階的な概念を挟むことで議論がクリアになる、というなら意味のあることでしょう。
が、現状では、むしろ個々の犯罪要素が適切な機能を果たすことの邪魔になっているのではないか、との認識。
今はもうないのかもしれませんが、
・違法性は主観と客観の統一体
・正当防衛は違法性阻却事由
・ので正当防衛には防衛の意思が要求される
みたいな論述。
なにかを論証しているようで何の論証にもなっていない。
違法性という概念を用いずに防衛の意思を根拠づけよ、としたほうが生産性のある議論(この対義語が不毛な議論)ができると思うんですけど(縛りプレイ)。
そもそも、犯罪の実質的要素が違法性と責任で構成されている、という点では見解が一致しているにもかかわらず、その中身で争っているという状態が私にはよく理解できません。
同じ電車の右の車窓を見ている人が「私には山が見えている」といい、左を見ている人が「いやいや山なんか見えない、私には海が見えている」と言って争っているような。
違うところを見ているんだから、当然違うものが見えるでしょうと。
違法性/責任といった立派なワードの取り合いをしている、と理解すればいいんですかね。
あまり詰めても私の能力ではまとめようがないので、このへんにしておきます。
・火災事故における管理・監督過失
あくまでも「個人責任」ベースの現行刑法の枠内で、管理過失・監督過失をどのように組み立てるかを扱ったもの。
私個人の関心事は、「組織犯罪」であることを正面から扱うことはできないか、という点にあるので、すれ違い(極々個人的な事情)。
藤木英雄「公害犯罪」(東京大学出版会1975)
○
以上、ぜひとも読んだほうがいいのですが、そうお気軽に入手できるものではないので、そういう意味ではおすすめし難い(クレイジープライスなのはこのご時世のせいではない)。
こちらなら、まだ手に入りやすいですかね。
井田良「変革の時代における理論刑法学」(慶應義塾大学出版会2007)
https://www.keio-up.co.jp/kup/webonly/law/riron/sp.html
posted by ウロ at 08:40| Comment(0)
| 刑法
2019年11月25日
藤木英雄「公害犯罪」(東京大学出版会1975)
今様にいうと「環境犯罪」。
公害に限らず「環境」という上位概念で括られる感じの。
藤木英雄「公害犯罪」(東京大学出版会1975)
一応リンク貼ってありますけど、クレプラ(クレイジープライス)ならばさすがに買う必要はないと思います(当時の定価は980円)。
さしあたりで藤木先生の著書を読むなら「刑法案内」で。
2は板倉先生執筆らしくて私も未読ですけど、1のほうは原文が藤木先生なので。
藤木英雄・板倉宏 刑法案内1(勁草書房2011)
藤木英雄・板倉宏 刑法案内2(勁草書房2011)
今どきの教科書では無視されがちな「誤想防衛=正当防衛説」とか主張されているんですが、ついつい説得されそうになる。
ゴリゴリの結果無価値論から勉強をスタートさせた私ですら。
要するに違法性と責任の役割分担の問題にすぎないのであって、適切に犯罪の成否が制御できるならば、違法性が無くなるといおうが、責任(故意)がなくなるといおうがどちらでもいいのではないか、というところまで、今は落ち着いてきています。
ちなみに、タイトルに『案内』とあるのは、「勁草法学案内シリーズ」として括られている例のアレです。
【案内シリーズ】
内田勝一「借地借家法案内」(勁草書房2017)
○
例によって、私の税理士実務にはさしあたり関わりはないです。
なのですが、頭のいい人の書かれた文章を読むことで自分の頭をブラッシュアップする、という使い方。
しかも、専門外の一般向けに書いてくれていますし。
【頭のいい人の文章を読む営みの例】
白石忠志「技術と競争の法的構造」(有斐閣1994)
○
公害問題を目の前にして、「これでいいのか刑法理論」(当時の)といった問題意識から、新しい理論を提唱されています。
今どきの教科書では枕詞的に安易に否定されがちな「危惧感説」とか。
この危惧感説、今どきの教科書だと「責任主義に反し妥当でない」と軽く否定されて具体的予見可能性説の踏み台にされてしまっています(「俺を踏み台にした!? 」)。
が、この説の主眼は、単に予見可能性を緩めるってだけの話ではないです。
公害問題というのは、ちょっとの油断で広範囲に多大な被害が生じる可能性がある、という特徴があります。
しかも因果経過は追いにくいし組織内の出来事だし、ということで、昔ながらの過失犯のように、具体的予見可能性まで要求していたら、ことごとく予見可能性が否定されてしまって、そして被害が拡大してしまうおそれがあると。
そこで、危惧感にまで予見可能性を下げてもいいことにしましょうと、他方で、広がり過ぎな部分は結果回避義務のほうで調整をかけることにすると。
というように、予見可能性を過失における独立の要素として捉えるのではなく、結果の重大性や結果回避義務との相関で要求水準がかわってもいいじゃん、というのが危惧感説の言わんとすることなんだと、私は思いました。
ので、予見可能性を緩めている部分だけを取り出して批判するのは、正面からの批判になっていない。
もっというと、因果関係論や組織犯罪論などといった、他の要素も含めた上での検討をしないといけないんじゃないかと。
こんなことちゃんと書いてくれている教科書なかったじゃん、と思って、そういえば井田良先生が危惧感説を支持されていたなあ、と思い出して教科書を読み直したら、「結果回避義務関連性」という表現でしっかり書かれていました。
読み込み足らず。
井田良「講義刑法学・総論 第2版」(有斐閣2018)
○
しかしこの考え、ノリが我妻先生の「相関関係説」に似ていますよね。
「違法性」の問題として論じられていたり考慮要素は当然違うし、ということではありますが。
1つの要素を固定的に捉えるのではなく、他の要素との関係で可変する感じが似ている。
ちなみに、相関関係説では「刑罰法規違反」を要素として取り込んでいるのですが、刑法上の過失との関係はどういうことになるんでしょうか。
我妻榮「事務管理・不当利得・不法行為」(日本評論社1937)
○
こういう本を読むにつけ、すべての犯罪に共通する要件を打ち立てるの無理がある気がします。
今の「刑法総論」における議論の仕方に対する疑問。
公害犯罪というのは、その特徴として、
・ちょっとのミスで広範囲に被害が広がる。
・しかもその被害が甚大。
・原因の特定が困難。
・組織犯罪であって特定の個人に帰責するのは無理がある。
といったことがあるわけです。
にもかかわらず、「過失」なり「因果関係」といった概念は、旧来型の「個人対個人」の犯罪要件と同じ内容のものでいいのかどうか。
もちろん、「因果関係が結果犯の犯罪成立に要求されるのはなぜか」といったそもそも論自体は共通だとは思います。
が、その中身は犯罪類型だったり行為態様ごとに異なっていてもいいんじゃないかと。
極端な話、ある場合は客観説で判断しある場合は主観説で判断する、ということがあってもいい気がします。
実際のところ、刑法総論で議論されているときも特定の犯罪類型が念頭に置かれていて、すべての犯罪類型にその規範が使えるのかチェックしている形跡がないし。
○
「総論・各論問題」については、このブログでもちらちらイジってきましたが、主として「法学教育」の観点からでした。
初学者にとって、総論だけを先行して学習するのは理解しにくいと。
が、そろそろ、総論の議論を一回各論側に還元して、総点検をしたほうがいいんじゃないですかね。
部品を全部バラしてオーバーホールする感じの。
公害に限らず「環境」という上位概念で括られる感じの。
藤木英雄「公害犯罪」(東京大学出版会1975)
一応リンク貼ってありますけど、クレプラ(クレイジープライス)ならばさすがに買う必要はないと思います(当時の定価は980円)。
さしあたりで藤木先生の著書を読むなら「刑法案内」で。
2は板倉先生執筆らしくて私も未読ですけど、1のほうは原文が藤木先生なので。
藤木英雄・板倉宏 刑法案内1(勁草書房2011)
藤木英雄・板倉宏 刑法案内2(勁草書房2011)
今どきの教科書では無視されがちな「誤想防衛=正当防衛説」とか主張されているんですが、ついつい説得されそうになる。
ゴリゴリの結果無価値論から勉強をスタートさせた私ですら。
要するに違法性と責任の役割分担の問題にすぎないのであって、適切に犯罪の成否が制御できるならば、違法性が無くなるといおうが、責任(故意)がなくなるといおうがどちらでもいいのではないか、というところまで、今は落ち着いてきています。
ちなみに、タイトルに『案内』とあるのは、「勁草法学案内シリーズ」として括られている例のアレです。
【案内シリーズ】
内田勝一「借地借家法案内」(勁草書房2017)
○
例によって、私の税理士実務にはさしあたり関わりはないです。
なのですが、頭のいい人の書かれた文章を読むことで自分の頭をブラッシュアップする、という使い方。
しかも、専門外の一般向けに書いてくれていますし。
【頭のいい人の文章を読む営みの例】
白石忠志「技術と競争の法的構造」(有斐閣1994)
○
公害問題を目の前にして、「これでいいのか刑法理論」(当時の)といった問題意識から、新しい理論を提唱されています。
今どきの教科書では枕詞的に安易に否定されがちな「危惧感説」とか。
この危惧感説、今どきの教科書だと「責任主義に反し妥当でない」と軽く否定されて具体的予見可能性説の踏み台にされてしまっています(「俺を踏み台にした!? 」)。
が、この説の主眼は、単に予見可能性を緩めるってだけの話ではないです。
公害問題というのは、ちょっとの油断で広範囲に多大な被害が生じる可能性がある、という特徴があります。
しかも因果経過は追いにくいし組織内の出来事だし、ということで、昔ながらの過失犯のように、具体的予見可能性まで要求していたら、ことごとく予見可能性が否定されてしまって、そして被害が拡大してしまうおそれがあると。
そこで、危惧感にまで予見可能性を下げてもいいことにしましょうと、他方で、広がり過ぎな部分は結果回避義務のほうで調整をかけることにすると。
というように、予見可能性を過失における独立の要素として捉えるのではなく、結果の重大性や結果回避義務との相関で要求水準がかわってもいいじゃん、というのが危惧感説の言わんとすることなんだと、私は思いました。
ので、予見可能性を緩めている部分だけを取り出して批判するのは、正面からの批判になっていない。
もっというと、因果関係論や組織犯罪論などといった、他の要素も含めた上での検討をしないといけないんじゃないかと。
こんなことちゃんと書いてくれている教科書なかったじゃん、と思って、そういえば井田良先生が危惧感説を支持されていたなあ、と思い出して教科書を読み直したら、「結果回避義務関連性」という表現でしっかり書かれていました。
読み込み足らず。
井田良「講義刑法学・総論 第2版」(有斐閣2018)
○
しかしこの考え、ノリが我妻先生の「相関関係説」に似ていますよね。
「違法性」の問題として論じられていたり考慮要素は当然違うし、ということではありますが。
1つの要素を固定的に捉えるのではなく、他の要素との関係で可変する感じが似ている。
ちなみに、相関関係説では「刑罰法規違反」を要素として取り込んでいるのですが、刑法上の過失との関係はどういうことになるんでしょうか。
我妻榮「事務管理・不当利得・不法行為」(日本評論社1937)
○
こういう本を読むにつけ、すべての犯罪に共通する要件を打ち立てるの無理がある気がします。
今の「刑法総論」における議論の仕方に対する疑問。
公害犯罪というのは、その特徴として、
・ちょっとのミスで広範囲に被害が広がる。
・しかもその被害が甚大。
・原因の特定が困難。
・組織犯罪であって特定の個人に帰責するのは無理がある。
といったことがあるわけです。
にもかかわらず、「過失」なり「因果関係」といった概念は、旧来型の「個人対個人」の犯罪要件と同じ内容のものでいいのかどうか。
もちろん、「因果関係が結果犯の犯罪成立に要求されるのはなぜか」といったそもそも論自体は共通だとは思います。
が、その中身は犯罪類型だったり行為態様ごとに異なっていてもいいんじゃないかと。
極端な話、ある場合は客観説で判断しある場合は主観説で判断する、ということがあってもいい気がします。
実際のところ、刑法総論で議論されているときも特定の犯罪類型が念頭に置かれていて、すべての犯罪類型にその規範が使えるのかチェックしている形跡がないし。
○
「総論・各論問題」については、このブログでもちらちらイジってきましたが、主として「法学教育」の観点からでした。
初学者にとって、総論だけを先行して学習するのは理解しにくいと。
が、そろそろ、総論の議論を一回各論側に還元して、総点検をしたほうがいいんじゃないですかね。
部品を全部バラしてオーバーホールする感じの。
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2019年11月04日
小林憲太郎「ライブ講義 刑法入門」(新世社2016)
刑法総論・各論の一冊本。
残念ながら、総論・各論が第一部と第二部で別れています。
まあ、それが通例どおりなんですが。
小林憲太郎「ライブ講義 刑法入門」(新世社2016)
【総論・各論問題】
井田良「講義刑法学・総論 第2版」(有斐閣2018)
井田良「講義刑法学・各論 第2版」(有斐閣2020)
本文240頁程度で、しかも判例が長々と引用されているので、実際のボリュームはもっと少なめ。
これまでの小林先生の著書と比べると、かなり読みやすくなっています。
頭のいい人が、ちゃんと我々一般人にレベルをあわせて記述してくれると、とてもわかり易くなるという一例。
抽象論・具体例の比率が、従前8:2だったのが2:8に逆転したくらいの印象。
(※あくまで個人の感想です)
が、やはり説明不足感は否めない。
入門書ポジションなんだから、判例の長々とした引用を減らして、説明をさらに丁寧にしたほうがいい気がします。
ご自身でも判例集出されているところですし、詳しくはそちら、で済ませられる。
小林憲太郎「重要判例集 刑法総論 第2版」(新世社2022)
あるいは、判例と正面から格闘した、こんな本もあるわけですし。
小林憲太郎「刑法総論の理論と実務」(判例時報社2018)
小林憲太郎「刑法各論の理論と実務」(判例時報社2021)
残念ながら、総論・各論が第一部と第二部で別れています。
まあ、それが通例どおりなんですが。
小林憲太郎「ライブ講義 刑法入門」(新世社2016)
【総論・各論問題】
井田良「講義刑法学・総論 第2版」(有斐閣2018)
井田良「講義刑法学・各論 第2版」(有斐閣2020)
本文240頁程度で、しかも判例が長々と引用されているので、実際のボリュームはもっと少なめ。
これまでの小林先生の著書と比べると、かなり読みやすくなっています。
頭のいい人が、ちゃんと我々一般人にレベルをあわせて記述してくれると、とてもわかり易くなるという一例。
抽象論・具体例の比率が、従前8:2だったのが2:8に逆転したくらいの印象。
(※あくまで個人の感想です)
が、やはり説明不足感は否めない。
入門書ポジションなんだから、判例の長々とした引用を減らして、説明をさらに丁寧にしたほうがいい気がします。
ご自身でも判例集出されているところですし、詳しくはそちら、で済ませられる。
小林憲太郎「重要判例集 刑法総論 第2版」(新世社2022)
あるいは、判例と正面から格闘した、こんな本もあるわけですし。
小林憲太郎「刑法総論の理論と実務」(判例時報社2018)
小林憲太郎「刑法各論の理論と実務」(判例時報社2021)
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2019年05月27日
安田拓人ほか「ひとりで学ぶ刑法」(有斐閣2015)
私が刑法の事例問題を解くことなんて、もうおよそないと思うのですが。
なぜか読んでみました。
安田拓人ほか「ひとりで学ぶ刑法」(有斐閣2015)
○
位置づけとしては、教科書と演習書の橋渡し、という感じ。中二階的な。
教科書からいきなり演習書にいってみたけど、どうやってアプローチしたらいいか分からない人が、読んでみたらよさそう。
で、知識があやふやなら教科書へ戻り、いけそうなら演習書へ進むと。
これ読んだあとなら、教科書の理解度もかなり深くなるはず。
記述が特定の説を押し出すようにはなっていないので、教科書の記述を相対的に読めるようになると思います。
内容について私がどうこう言えることはないんですが、例によって外在的なイチャモン。
○
目次があっさり過ぎる。
ひとりで学ぶ刑法(出版社のサイト)
出版社のサイトに書いてある、このとおりしか書いていません。
「体系対応一覧」なんて綴じ込みの表を、わざわざ時間をかけて作るくらいなら、素直に目次を充実させたほうがいいのでは。
○
「ニュルンベルクのマイスタージンガー」をモチーフにしているとかいって、下記の三部構成になっています。
Stage1 Schüler
Stage2 Sänger
Stage3 Meister
が、Stage1の前に、みんな大好き「前奏曲」が無いのは何故なのか。
マイスタージンガーにとって、絶対はずせないと思うんですけど。
全幕見た・聴いた人じゃなくても、当然、前奏曲だけは知っていますよね。
カラヤン「ニュルンベルクのマイスタージンガー」(EMI)
内容的には、Stage1のNo.1「犯罪論体系」とNo.2「行為無価値と結果無価値」がそれに相当している感じなので、次回改訂の際にご検討ください。
あと、英語+ドイツ語というハイブリッド感はなんなのか。
LUNA SEA様のマネでしょうか。
○
表紙に「Do it Yourself! Exercise of Criminal Law」と書いてあります。
(誰のお気に入りなのか、ダメ押しで「背」にまでねじ込まれている)。
ここもドイツ語じゃないのか!というツッコミはさておき、外国語感覚0%の私からすると、「自分でやれや!」と命令されている印象を受ける(被害妄想)。
○
内容については触れないつもりでしたが、1点だけ。
389頁 事例
「Yは、インターネットバンキングで、Xからの入金が始まったことを満足そうに確認すると、」
395頁 解説
「Yは、Xを恐喝して、月々10万円を、Yの指定するG名義の口座に振り込ませ、Xからの入金を確認してにんまりしている。」
上が事例の中の文章、下が解説の文章。
事例問題を解くにあたって、「にんまり」などという、事例に書かれていない事情を勝手に付け加えてはだめですよ。
なぜか読んでみました。
安田拓人ほか「ひとりで学ぶ刑法」(有斐閣2015)
○
位置づけとしては、教科書と演習書の橋渡し、という感じ。中二階的な。
教科書からいきなり演習書にいってみたけど、どうやってアプローチしたらいいか分からない人が、読んでみたらよさそう。
で、知識があやふやなら教科書へ戻り、いけそうなら演習書へ進むと。
これ読んだあとなら、教科書の理解度もかなり深くなるはず。
記述が特定の説を押し出すようにはなっていないので、教科書の記述を相対的に読めるようになると思います。
内容について私がどうこう言えることはないんですが、例によって外在的なイチャモン。
○
目次があっさり過ぎる。
ひとりで学ぶ刑法(出版社のサイト)
出版社のサイトに書いてある、このとおりしか書いていません。
「体系対応一覧」なんて綴じ込みの表を、わざわざ時間をかけて作るくらいなら、素直に目次を充実させたほうがいいのでは。
○
「ニュルンベルクのマイスタージンガー」をモチーフにしているとかいって、下記の三部構成になっています。
Stage1 Schüler
Stage2 Sänger
Stage3 Meister
が、Stage1の前に、みんな大好き「前奏曲」が無いのは何故なのか。
マイスタージンガーにとって、絶対はずせないと思うんですけど。
全幕見た・聴いた人じゃなくても、当然、前奏曲だけは知っていますよね。
カラヤン「ニュルンベルクのマイスタージンガー」(EMI)
内容的には、Stage1のNo.1「犯罪論体系」とNo.2「行為無価値と結果無価値」がそれに相当している感じなので、次回改訂の際にご検討ください。
あと、英語+ドイツ語というハイブリッド感はなんなのか。
LUNA SEA様のマネでしょうか。
○
表紙に「Do it Yourself! Exercise of Criminal Law」と書いてあります。
(誰のお気に入りなのか、ダメ押しで「背」にまでねじ込まれている)。
ここもドイツ語じゃないのか!というツッコミはさておき、外国語感覚0%の私からすると、「自分でやれや!」と命令されている印象を受ける(被害妄想)。
○
内容については触れないつもりでしたが、1点だけ。
389頁 事例
「Yは、インターネットバンキングで、Xからの入金が始まったことを満足そうに確認すると、」
395頁 解説
「Yは、Xを恐喝して、月々10万円を、Yの指定するG名義の口座に振り込ませ、Xからの入金を確認してにんまりしている。」
上が事例の中の文章、下が解説の文章。
事例問題を解くにあたって、「にんまり」などという、事例に書かれていない事情を勝手に付け加えてはだめですよ。
タグ:刑法
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2019年05月20日
松澤伸「機能主義刑法学の理論―デンマーク刑法学の思想」(信山社2001)
先日、トロペール先生の「リアリズムの法解釈理論」について記事を書きました。
ミシェル・トロペール(南野森訳)「リアリズムの法解釈理論」(勁草書房2013)
こういう「法原理論」とか「法解釈論」に関する本、私のような素人が中途半端な知識で手を出すとドツボに嵌まります。
ので、なるべく避けていたんですが、ちょっと読んでみて面白そうだったので、まあ読んでしまったわけです。
ただ、こういう方向に進んでしまうと、業務上優先して読むべき実務書が後回しになってしまって、実務家的にはあまりよろしくはない。
なんですが、同書に、アルフ・ロス先生のお名前を見かけてしまって、そういえば、松澤伸先生の著書がロス理論について紹介されていたなあ、と思い出し、そして結局、こちらの本も読むことに。
松澤伸「機能主義刑法学の理論―デンマーク刑法学の思想」(信山社2001)
例によって、私が要約するなどおこがましいってことで、ご興味ある方は、まずは松澤先生ご自身が「再論」と題してまとめられている、こちらの論文をご覧になるのがよいかと。
松澤伸 機能的刑法解釈方法論再論(早稲田法学2007)
ちなみに、「現状認識重視型」の法解釈論ということでいうと、戸松秀典先生の著書が同じ方向性かなと思いました。
戸松秀典『憲法』(弘文堂 2015)
○
ということで、いつもの、個人的にいいなと思った記述の引用。
刑法学に限らず、ここで批判されているような論述の仕方、私も常々疑問に思っていたんですよね。
254頁
「従来の伝統的刑法学の議論を見てみると、そこでは、『構成要件は違法有責類型だから折衷的相当因果関係説が妥当』とか、『行為は主観と客観の統一体であるから折衷的相当因果関係説が妥当』というような議論が行われることが多いが、この議論は一定限度での説得力しか持たない。というのは、この議論は、最初に打ち立てられた原理、すなわち構成要件は違法有責類型であるという教義や、行為は主観と客観の統一体であるという哲学的な表明に賛成する者には説得的であるが、その前提となる教義や哲学的表明そのものに疑念を抱く者には何ら説得力を持たないからである。」
「また、『因果関係が認められる範囲を考えると、主観説では狭すぎ、客観説では広すぎる、したがって折衷説が妥当』という議論にも説得力はない。結論の妥当性を全面に押し出すだけでは、単なる価値観の押し付けになってしまうからである。」
256頁
「不能犯論においても、『定形的な実行行為が欠ける場合を不能犯とする』とか、『行為は主観と客観の統一体であるから、行為者の主観面だけでなく社会一般の通念にしたがって実行行為が欠ける場合を不能犯としなければならない』というような体系からの演繹による議論が説得力を持たないのは、因果関係の議論と全く同様である。」
337頁
「故意犯と過失犯は違法性の段階ですでに質的に異なると考えた方が常識的な感覚にあうとか、厳格責任説は正当化事由の錯誤すべてを故意犯として処理する点で常識的な感覚にあわないとか、価値観を全面に押し出したあいまいな議論がなされていることにも注意すべきであろう。」
ミシェル・トロペール(南野森訳)「リアリズムの法解釈理論」(勁草書房2013)
こういう「法原理論」とか「法解釈論」に関する本、私のような素人が中途半端な知識で手を出すとドツボに嵌まります。
ので、なるべく避けていたんですが、ちょっと読んでみて面白そうだったので、まあ読んでしまったわけです。
ただ、こういう方向に進んでしまうと、業務上優先して読むべき実務書が後回しになってしまって、実務家的にはあまりよろしくはない。
なんですが、同書に、アルフ・ロス先生のお名前を見かけてしまって、そういえば、松澤伸先生の著書がロス理論について紹介されていたなあ、と思い出し、そして結局、こちらの本も読むことに。
松澤伸「機能主義刑法学の理論―デンマーク刑法学の思想」(信山社2001)
例によって、私が要約するなどおこがましいってことで、ご興味ある方は、まずは松澤先生ご自身が「再論」と題してまとめられている、こちらの論文をご覧になるのがよいかと。
松澤伸 機能的刑法解釈方法論再論(早稲田法学2007)
ちなみに、「現状認識重視型」の法解釈論ということでいうと、戸松秀典先生の著書が同じ方向性かなと思いました。
戸松秀典『憲法』(弘文堂 2015)
○
ということで、いつもの、個人的にいいなと思った記述の引用。
刑法学に限らず、ここで批判されているような論述の仕方、私も常々疑問に思っていたんですよね。
254頁
「従来の伝統的刑法学の議論を見てみると、そこでは、『構成要件は違法有責類型だから折衷的相当因果関係説が妥当』とか、『行為は主観と客観の統一体であるから折衷的相当因果関係説が妥当』というような議論が行われることが多いが、この議論は一定限度での説得力しか持たない。というのは、この議論は、最初に打ち立てられた原理、すなわち構成要件は違法有責類型であるという教義や、行為は主観と客観の統一体であるという哲学的な表明に賛成する者には説得的であるが、その前提となる教義や哲学的表明そのものに疑念を抱く者には何ら説得力を持たないからである。」
「また、『因果関係が認められる範囲を考えると、主観説では狭すぎ、客観説では広すぎる、したがって折衷説が妥当』という議論にも説得力はない。結論の妥当性を全面に押し出すだけでは、単なる価値観の押し付けになってしまうからである。」
256頁
「不能犯論においても、『定形的な実行行為が欠ける場合を不能犯とする』とか、『行為は主観と客観の統一体であるから、行為者の主観面だけでなく社会一般の通念にしたがって実行行為が欠ける場合を不能犯としなければならない』というような体系からの演繹による議論が説得力を持たないのは、因果関係の議論と全く同様である。」
337頁
「故意犯と過失犯は違法性の段階ですでに質的に異なると考えた方が常識的な感覚にあうとか、厳格責任説は正当化事由の錯誤すべてを故意犯として処理する点で常識的な感覚にあわないとか、価値観を全面に押し出したあいまいな議論がなされていることにも注意すべきであろう。」
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2019年04月22日
裁判所職員総合研修所「刑法総論講義案 (四訂版)」(司法協会2016)
「理論刑法学」を勉強するには、このブログでも紹介していますが、井田良先生の本などをおすすめしています。
井田良「入門刑法学・総論」(有斐閣2018)ほか
井田良「講義刑法学・総論 第2版」(有斐閣2018)
井田良「講義刑法学・各論 第2版」(有斐閣2020)
他方で「実務における刑法」を知りたいのであれば、この本。
裁判所職員総合研修所「刑法総論講義案 (四訂版) 」(司法協会2016)
学者本だと、どうしても学説から評価した裁判例になってしまうところ。
が、この本は裁判所職員向けの研修教材なので、そういったフィルター無しに裁判例を理解することができます。
○
私自身、刑法の勉強は、山口厚先生の『問題探究 刑法総論』からスタートしました。
ので、ゴリゴリの「結果無価値論」で判断枠組みが出来上がっていたわけです。
山口厚「問題探究 刑法総論」(有斐閣1998)
そのせいか「行為無価値論」の学者本はなかなか読めずにいました。
が、行為無価値論をベースにしているはずのこの本については、なぜか自然に読むことができました。
○
とても具体的でわかりやすい記述なんですが、たとえば。
過失犯の判断構造について、判決書記載の「罪となるべき事実」をもとに分析されています。
ここを読んで、学者本ではいまいち理解できていなかった過失犯の具体的な認定の仕方を、理解することができました。
あの、「たぬき・むじな事件」「むささび・もま事件」の事案の違いについても、図解までして具体的な説明がされています。
また、実務書ということもあり、学者本では手薄になりがちな「罪数論」や「刑罰の適用過程」についても、具体的に書かれています。
ここだけでも読む価値はあるのでは。
○
さて、ここでクエスチョン。
Q.本書の本文で唯一名前が出てくる日本人刑法学者は?(参考文献は除く)
正解は・・・。
A.藤木英雄先生
この本、裁判例ベースの記述でありながら、それなりに学説にも配慮した記述もでてきます。
たとえば、井田良先生の「規範論的一般予防論」らしき記述とか、山口厚先生の「修正された客観的危険説」らしき記述とか。
のに、そこでは文献の引用や先生方の名前は一切出てきません。
が、なぜか藤木先生だけお名前が。
しかも、危惧感説とかではなく「防衛の意思の具体的内容」のところで。不思議。
井田良「入門刑法学・総論」(有斐閣2018)ほか
井田良「講義刑法学・総論 第2版」(有斐閣2018)
井田良「講義刑法学・各論 第2版」(有斐閣2020)
他方で「実務における刑法」を知りたいのであれば、この本。
裁判所職員総合研修所「刑法総論講義案 (四訂版) 」(司法協会2016)
学者本だと、どうしても学説から評価した裁判例になってしまうところ。
が、この本は裁判所職員向けの研修教材なので、そういったフィルター無しに裁判例を理解することができます。
○
私自身、刑法の勉強は、山口厚先生の『問題探究 刑法総論』からスタートしました。
ので、ゴリゴリの「結果無価値論」で判断枠組みが出来上がっていたわけです。
山口厚「問題探究 刑法総論」(有斐閣1998)
そのせいか「行為無価値論」の学者本はなかなか読めずにいました。
が、行為無価値論をベースにしているはずのこの本については、なぜか自然に読むことができました。
○
とても具体的でわかりやすい記述なんですが、たとえば。
過失犯の判断構造について、判決書記載の「罪となるべき事実」をもとに分析されています。
ここを読んで、学者本ではいまいち理解できていなかった過失犯の具体的な認定の仕方を、理解することができました。
あの、「たぬき・むじな事件」「むささび・もま事件」の事案の違いについても、図解までして具体的な説明がされています。
また、実務書ということもあり、学者本では手薄になりがちな「罪数論」や「刑罰の適用過程」についても、具体的に書かれています。
ここだけでも読む価値はあるのでは。
○
さて、ここでクエスチョン。
Q.本書の本文で唯一名前が出てくる日本人刑法学者は?(参考文献は除く)
正解は・・・。
A.藤木英雄先生
この本、裁判例ベースの記述でありながら、それなりに学説にも配慮した記述もでてきます。
たとえば、井田良先生の「規範論的一般予防論」らしき記述とか、山口厚先生の「修正された客観的危険説」らしき記述とか。
のに、そこでは文献の引用や先生方の名前は一切出てきません。
が、なぜか藤木先生だけお名前が。
しかも、危惧感説とかではなく「防衛の意思の具体的内容」のところで。不思議。
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2018年11月16日
辰井聡子「因果関係論」(有斐閣2006)
消費税、「軽減税率」周りがざわざわしてますが「経過措置」も来るんですよね。
で、どっちも最近、国税庁のQ&A改訂したよ、というので読み直すじゃないですか。
消費税の軽減税率制度に関するQ&A(制度概要編)(平成28年4月)(平成30年1月改訂)
消費税の軽減税率制度に関するQ&A(個別事例編)(平成28年4月)(平成30年11月改訂)
平成31年(2019年)10月1日以後に行われる資産の譲渡等に適用される消費税率等に関する経過措置の取扱いQ&A【基本的な考え方編】(平成30年10月)
平成31年(2019年)10月1日以後に行われる資産の譲渡等に適用される消費税率等に関する経過措置の取扱いQ&A【具体的事例編】(平成30年10月)
もう、ボリューミーかつ細かすぎて心が消耗。
ということで、いわゆる現実逃避読み。
現実逃避に使って申し訳ありません。
辰井聡子「因果関係論」(有斐閣2006)
○
例によって中身の論評なんて私にはできません。
ただまあ読んでて、結局のところ、因果関係論にしても、当該概念にどこまでの役割をもたせるか、ということなんだろうな、と。
辰井先生ご自身は、因果関係において「行為者の意思」を考慮するという見解をとっています。
(+一般人の予見可能性も考慮するので、主観説ベースの折衷説とのこと。ただ、普通の教科書に書かれている主観説・折衷説とは論証の仕方が違うので、いわゆる主観説・折衷説とは中身が違う気がします。普通の学説との距離感ださないように、そういう寄せたネーミングにしただけかもしれません)。
当然、因果関係を客観的にとらえる立場からは批判されると思うんです。
が、どの立場でも「行為者による結果のコントロール」という要素は犯罪の成立要件のどこかしらで考慮されるはずで、辰井先生の場合は、その意思の側面も「因果関係」の中でやってしまうということですよね。
未遂犯における危険の有無を、故意を含めて判断するか、というのと同じ感じの。
そうすると、有り体に言えば、犯罪の成立にはどのような要素が必要か、が大事であって、それら要素をどこの要件で考慮するかっていうのは、単なる組立ての問題にすぎない、ともいえるわけで。
料理をするにあたって、重要なのはどのような材料を使うかであって、レシピ通りの手順で処理することは、早めに作れるとか味が馴染みやすいとか、そういった違いがあるもののそこまで重要ではない、みたいな。《同じ材料で作るかぎり、カレーはカレーである。》
と書いたのは、あくまで私なりに解体して思ったところを書いたもので、辰井先生ご自身の見解そのものではありませんのでご注意。
このへんの問題意識は、「吸血鬼×十字架」問題として常に私のなかで燻っているアレです。
【「吸血鬼×十字架」問題】
戸松秀典「憲法」(弘文堂2015)
○
ちなみに、刑法の行為規範性について論じた記述について、なるほどな、と思ったところがあったので引用させていただきます(73頁〜)。
「刑法の行為規範性を重視し、相当因果関係説ないし客観的帰属論の枠組みを用いて、より具体的な行為規範を提示しようとする見解は、人は、一般に法律及び法律実務に照らして自らの行動を決定するものだという前提に立っているといえる。しかし、人が自らの行動を決定するときに法律を、ましてや判例等による法解釈を参照することは、すくなくとも通常のことではないであろう。理由は必ずしも明らかではないが、普通、人は、人を殺してはいけないということを、自分自身において知っている。そして、人が自己の行動を決定する際には、その自らの判断にしたがうのが、むしろ通常であろう。法学部の学生でも法律家でもないほとんどの人は、詐欺罪の構成要件を詳しくは知らない。しかし、それに類することをするのはよくないと、もともと知っているから、それを行わないのである。
このような決定の仕方は、判例つきの六法と首っ引きで、どこまでが許されどこからが許されないかを逐一確認してから行動を決定するというやり方と比べ、はるかに健全である。そうだとするなら、刑法の第一の責務は、人に違法性を判断するための材料を与えることではなく、人の内発的な決定を尊重することにこそ置かれるべきであろう。人々の内発的な決定を尊重するということは、法令や判例、まして学説によって、「このような行為を行っても処罰はされません」と示してあげること、そして、そうして構築された規範に違反していない場合に処罰を否定することとは、全く別のことである。法が、人々の決定を尊重するためにできることは、事前に行為規範を示すこととは正反対に、法律から自由に、自らの良心にしたがって行動した人に対し、法律が不当な責任を負わせることのないように、事後的に努めること以外にはないと思われる。」
では、日常系税務に戻ります。
で、どっちも最近、国税庁のQ&A改訂したよ、というので読み直すじゃないですか。
消費税の軽減税率制度に関するQ&A(制度概要編)(平成28年4月)(平成30年1月改訂)
消費税の軽減税率制度に関するQ&A(個別事例編)(平成28年4月)(平成30年11月改訂)
平成31年(2019年)10月1日以後に行われる資産の譲渡等に適用される消費税率等に関する経過措置の取扱いQ&A【基本的な考え方編】(平成30年10月)
平成31年(2019年)10月1日以後に行われる資産の譲渡等に適用される消費税率等に関する経過措置の取扱いQ&A【具体的事例編】(平成30年10月)
もう、ボリューミーかつ細かすぎて心が消耗。
ということで、いわゆる現実逃避読み。
現実逃避に使って申し訳ありません。
辰井聡子「因果関係論」(有斐閣2006)
○
例によって中身の論評なんて私にはできません。
ただまあ読んでて、結局のところ、因果関係論にしても、当該概念にどこまでの役割をもたせるか、ということなんだろうな、と。
辰井先生ご自身は、因果関係において「行為者の意思」を考慮するという見解をとっています。
(+一般人の予見可能性も考慮するので、主観説ベースの折衷説とのこと。ただ、普通の教科書に書かれている主観説・折衷説とは論証の仕方が違うので、いわゆる主観説・折衷説とは中身が違う気がします。普通の学説との距離感ださないように、そういう寄せたネーミングにしただけかもしれません)。
当然、因果関係を客観的にとらえる立場からは批判されると思うんです。
が、どの立場でも「行為者による結果のコントロール」という要素は犯罪の成立要件のどこかしらで考慮されるはずで、辰井先生の場合は、その意思の側面も「因果関係」の中でやってしまうということですよね。
未遂犯における危険の有無を、故意を含めて判断するか、というのと同じ感じの。
そうすると、有り体に言えば、犯罪の成立にはどのような要素が必要か、が大事であって、それら要素をどこの要件で考慮するかっていうのは、単なる組立ての問題にすぎない、ともいえるわけで。
料理をするにあたって、重要なのはどのような材料を使うかであって、レシピ通りの手順で処理することは、早めに作れるとか味が馴染みやすいとか、そういった違いがあるもののそこまで重要ではない、みたいな。《同じ材料で作るかぎり、カレーはカレーである。》
と書いたのは、あくまで私なりに解体して思ったところを書いたもので、辰井先生ご自身の見解そのものではありませんのでご注意。
このへんの問題意識は、「吸血鬼×十字架」問題として常に私のなかで燻っているアレです。
【「吸血鬼×十字架」問題】
戸松秀典「憲法」(弘文堂2015)
○
ちなみに、刑法の行為規範性について論じた記述について、なるほどな、と思ったところがあったので引用させていただきます(73頁〜)。
「刑法の行為規範性を重視し、相当因果関係説ないし客観的帰属論の枠組みを用いて、より具体的な行為規範を提示しようとする見解は、人は、一般に法律及び法律実務に照らして自らの行動を決定するものだという前提に立っているといえる。しかし、人が自らの行動を決定するときに法律を、ましてや判例等による法解釈を参照することは、すくなくとも通常のことではないであろう。理由は必ずしも明らかではないが、普通、人は、人を殺してはいけないということを、自分自身において知っている。そして、人が自己の行動を決定する際には、その自らの判断にしたがうのが、むしろ通常であろう。法学部の学生でも法律家でもないほとんどの人は、詐欺罪の構成要件を詳しくは知らない。しかし、それに類することをするのはよくないと、もともと知っているから、それを行わないのである。
このような決定の仕方は、判例つきの六法と首っ引きで、どこまでが許されどこからが許されないかを逐一確認してから行動を決定するというやり方と比べ、はるかに健全である。そうだとするなら、刑法の第一の責務は、人に違法性を判断するための材料を与えることではなく、人の内発的な決定を尊重することにこそ置かれるべきであろう。人々の内発的な決定を尊重するということは、法令や判例、まして学説によって、「このような行為を行っても処罰はされません」と示してあげること、そして、そうして構築された規範に違反していない場合に処罰を否定することとは、全く別のことである。法が、人々の決定を尊重するためにできることは、事前に行為規範を示すこととは正反対に、法律から自由に、自らの良心にしたがって行動した人に対し、法律が不当な責任を負わせることのないように、事後的に努めること以外にはないと思われる。」
では、日常系税務に戻ります。
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2018年11月07日
井田良「講義刑法学・各論 第3版」(有斐閣2023)
※以下は初版(2016)時点の書評です。
総論に引き続き、各論も読んでみました。
井田良「講義刑法学・各論 第3版」(有斐閣2023)
井田良「講義刑法学・総論 第2版」(有斐閣2018)
総論のほうは、700頁もありながら、一つの体系を志向しているので一気読みできました。というよりも、体系全体で理解する必要があるのでそうせざるをえない(ので、共著の総論教科書は私には受け入れられない)。
が、各論は、ひたすら広い平野(へいや)を各論点ごとに転戦していくイメージ。
また、総論が体系書寄りだとすれば、各論は教科書寄りで井田説抑えめなので、あっさりめなところもちらほら。
それでも、議論の整理が巧みなので、どのように考えたらよいか、頭の中での筋道が立てやすくなります。
個別論点の連続なので、私が中身について触れられるところはあまりありません。
ただ、「財産罪の保護法益」(196頁〜)のところを読んで、触発されてあれこれ思ったことがあるので、記録しておきます。
以下、特定の学説を主張するようなものではなく、あくまで議論の枠組みについての記述です。
○
財産罪の保護法益、刑法各論の中でもトップクラスの大論点です。
で、この本では、「占有説対本権説」というのは、あくまでも242条の解釈論であって235条本体の議論ではない、としっかり明示してくれているので、考えが散らからずにすみます。
と、見通しをよくしてくれたおかげで、出てきたのが次のような疑問。
(以下、「窃盗罪」で代表させ、条文の「財物」は所有物といいかえます。また「所有権侵害」というのは、所有物を利用過程から逸脱させることをイメージしています。)
(窃盗)
第235条 他人の財物を窃取した者は、窃盗の罪とし、十年以下の懲役又は五十万円以下の罰金に処する。
(他人の占有等に係る自己の財物)
第242条 自己の財物であっても、他人が占有し、又は公務所の命令により他人が看守するものであるときは、この章の罪については、他人の財物とみなす。
○
まず、235条と242条を図式的に整理すると、
235 他人の占有+他人の所有物 →窃盗罪
242 他人の占有+自己の所有物 →窃盗罪
となっています。
そして、井田先生によると、235条は、
235 占有侵害+所有権侵害
により窃盗罪が成立し、242条は、
242 占有侵害
により窃盗罪が成立するとされています。
242条は235条の適用範囲を拡大する処罰拡張規定なんだと。
これ結局のところ、誰の所有物かにかかわらず、他人が占有している物を窃取すれば窃盗罪が成立するってことになりますよね。
だったらはじめから235条で「他人の占有物を窃取したら窃盗」ってことにしておけば済むんじゃないですかね。法定刑だって全く同じなわけだし。
もっというと、そもそも「所有権侵害」は235条の保護法益になっていないように見えてしまいます。
自分の所有物を窃取しても、他人の占有を侵害しただけで窃盗罪が成立するというならば、他人の所有物を窃取する場合も、他人の占有の侵害だけによって窃盗罪が成立しているということにはならないのかどうか。
このまますすむと235条と242条が混線しそうなので、242条側に着目してみます。
○
235条は「所有権侵害+占有侵害」によって成立するとしつつ、242条は「占有侵害」のみで成立すると解釈した場合、242条の意味合いに、次のような違和感がでてきます。
あらためて242条の構造を図式化すると、
242 他人の占有+自己の所有物 →他人の所有物とみなす
となっています。
242条単体で直接窃盗を成立させているのではなく、「他人の所有物とみなす」ことを通じて、235条に接続しているわけです。
で、ただの占有を他人の所有物とみなすなどという大転換をはかる以上、他人の占有に何らかの「他人性」をプラスする要素がくるのが自然なはずです。
が、やってきたのは「自己の」所有物であるということ。
どう考えても逆効果なはず。なのに、実際には見事、他人の所有物に早変わり。
「他人性」にとってはむしろマイナス要素なはずなのに、それによってなんで「他人の」所有物に大転換するのか。
マイナス×マイナスがプラスになることはあるけれど、ここではそんな算術を説いているわけではないです。
あえて四則演算で喩えるなら、ここでは乗算ではなく加算の問題。
せっかくなので、イメージ作りのために無理やり数値化してみます(ここでお手元のスカウターを装着してください)。
【数値化して衡量する営み例】
加算税をめぐる国送法と国税通則法の交錯(平成29年9月1日裁決)
235 他人の占有1+他人の所有物9=10 窃盗罪成立
足して10になると窃盗罪が成立する、としましょう。
242 他人の占有1+自己の所有物△9=△8 窃盗罪成立???
ところが、242条では足してマイナスなのに、窃盗罪が成立してしまうわけです。
○
もちろん、条文に「みなす」って書きさえすれば、なんでもみなせちゃうのが法律のすごいところです。
が、無理やりみなすにしても、何らかの根拠が必要なはずですよね。
たとえば、245条は「電気は、財物とみなす」とあります。
これだって電気を財物と同じに扱えるだけの基礎があるからですよね。
もし仮に「プライバシーは、財物とみなす」みたいな規定ができたとしても、おそらく「プライバシーは窃取になじまない」とか言って、判例・学説総掛かりで空文化をはかるはず。
刑法上、プライバシーを財物と同じように扱うのは、無理があるわけで(でも、毀損のほうはいけそう)。
ということで、235条が「占有侵害+所有権侵害」だというならば、242条も「所有権侵害」に匹敵するだけの何かで埋め合わせをする必要があるのではないかと思います。
○
242条の当罰性を235条に近づけるためには、
A: 235条の保護法益を引き下げる。
B: 242条の保護法益を引き上げる。
かのどちらかになると思うんです。
それぞれ、A:純粋占有説、B:純粋本権説をモデルに組み立ててみます。
A:純粋占有説
解釈
235 占有が保護法益。
242 所有権侵害は窃盗罪の成否に関係ないことを注意的に規定。
保護法益
235 他人の占有物(他人の所有物の場合)
242 他人の占有物(自己の所有物の場合)
数値
235 他人の占有1+他人の所有物0=1 窃盗罪成立
242 他人の占有1+自己の所有物0=1 窃盗罪成立
⇒
242条の独自性は弱いですが、上述したような不整合は解消されます。
占有自体が保護法益なんだから、自己の所有物だろうが当然窃盗だよと。ただ、誤解しないように注意的に規定しておいてあげたと(確認規定)。
数値的には、占有1だけで235条が成立することとすると。他方、誰の所有物かどうかは窃盗罪の成否に影響しないので0ポイントだと。
B:純粋本権説
解釈
235 所有権が保護法益。
242 自己の所有物であっても他に本権をもっている人がいれば保護する。
保護法益
235 他人の所有物
242 他人の本権物(適法に占有している物、という意味の造語です)
数値
235 他人の占有0+他人の所有物10=10 窃盗罪成立
242 他人の占有0+他人の本権物8 =8 窃盗罪成立
⇒
Bによれば、242条は、235条が「所有権」のみを保護しているところを「それ以外の本権」にまで拡張する、という独自の意味がでてきます(処罰拡張規定)。
他人の所有物の窃取であれば常に「所有権」侵害を肯定できるから、それ以外の本権を保護範囲に含める必要がないが、所有者自身による窃取の場合は「所有権」侵害がないから、その場合にかぎり「それ以外の本権」を保護することにしたと。
数値的には、本来10で窃盗罪が成立するのが原則なところ、所有者以外に本権8をもっている人がいれば、8でも窃盗罪が成立することにしたと。
条文解釈としては、刑法の「占有」はあくまで適法な占有を前提としてるのであって、違法な占有などというものは認めていない、と解するとか。
○
ちなみに、窃盗罪の「実行行為」が窃取だからといって、「保護法益」が占有であるとは限りませんよね。
保護法益はあくまで所有権であって占有侵害を実行行為としているのは所有権を保護するための手段にすぎない、と捉えることもできるわけで。
条文上も、「占有」と書いてあるのは242条のほうだけで、235条は「窃取」という行為態様しか書いていないですし。
詐欺罪(246条)だって「人を欺いて」とあるからといって、騙されたという精神的被害が保護法益だ、という結論にはならないわけで。
それはあくまで財産を交付させる手段を記述しているにすぎず、それ自体が保護法益ではありません。
もちろん、行為の側から保護法益を導き出す、という解釈手法自体は必要ですが、それは必要条件のひとつにとどまり、それだけで結論を決定することはできません。
○
対比しやすいように、ABをそれぞれ純粋占有説と純粋本権説という、極端に振り切った説で構成してみました。
が、ABはあくまで枠組みにすぎません。
なので、いわゆる平穏占有説であれば、Bの242条の「本権」のところに「平穏な占有」を代入すれば成立するはずです。
ただし、242条を独自の意味がある処罰拡張規定として位置づけておくためには、
235条:10 > 242条:7〜9あたり?
の大小関係がキープされている必要があります。
ので、うっかり235条のほうを「平穏な占有」に読み替えてしまうと、242条の説明が難しくなるはず。
○
このABの枠組みによると、
235 占有侵害1+所有権侵害9=10 窃盗罪成立
242 占有侵害1 =1 窃盗罪成立
という説はどちらにもあてはめることができません。
242条の当罰性が235条から離れすぎているので。
どうにか正当化するには、242条に埋め合わせの何かを持ってくる必要があります。
そこで、第三の道として、次のような枠組みが考えられます。
C:自力救済禁止説
解釈
235 占有+所有権が保護法益。
242 自己の所有物を窃取するのは自力救済禁止違反行為なので処罰する。
保護法益
235 他人の占有物+所有物
242 他人の占有物+自力救済禁止秩序
数値
235 他人の占有1+他人の所有物9 =10 窃盗罪成立
242 他人の占有1+自力救済禁止違反9=10 窃盗罪成立
⇒
自分の所有物を窃取しても所有権侵害はないものの、自力救済禁止違反という、法が整備された現代社会のルールから逸脱した行為であるため、当罰性がある、という説明。
Bと同じく242条を「処罰拡張規定」と捉えることになります。しかも、個人的法益侵害から秩序違反へと、罪質まで変化させることに。
この説明の仕方、秩序違反そのものを処罰しているようで違和感をもたれるかたもいると思います。
が、自力救済禁止という理由づけはこの論点で必ずでてくるものです。
で、これを窃盗罪成立の理由づけに利用しているってことは、Cのような考え方が背後にあるからではないかと思います。
235条が所有権侵害(+占有侵害)だといいながら、242条は占有侵害だけで同じように処罰するというのは、それだけ自力救済禁止違反を個別の法益侵害と同じように重く見ている、ということではないかと。
(これ、直接的な法益侵害以外のところに処罰根拠を求める、という意味では、盗品関与罪のところにでてくる、ブラックマーケットの形成阻止という理由づけ(329頁)に、発想は似ているかも)。
ちなみに、どうしても個人的法益の中におさめたいのか、秩序違反とはいわず「法的手続によらなければ奪われない利益」みたいな言い方をしているのを、どなたかの本で見かけたことがあります。
そういうものがあるとして、その権利は、所有者Aから窃盗犯人Bが窃取する場合のAの法益と匹敵するだけの利益と評価できるのかどうか。
窃盗犯人Bの、所有者Aに対する権利なんて、無いって考えるほうが自然ではないでしょうか。
やはり、「自力救済許さない」という、B個人の利益に還元できない考慮が働いている気がします。
○
以上、ここまで述べたことは242条と235条との関係をうまく調和させるためには、という観点からの構成であって、それ以外の点は考慮に入れていません。
この論点、天才刑法学者たちが総力を注いで散々議論してきたところであって、私の思ったことなんて吹けば飛ぶようなものなんですが、頭の中のこんがらがりが少しだけほぐれそうだったので、外出ししてみました。
あと、そろそろスカウター外してもいいですよ。
総論に引き続き、各論も読んでみました。
井田良「講義刑法学・各論 第3版」(有斐閣2023)
井田良「講義刑法学・総論 第2版」(有斐閣2018)
総論のほうは、700頁もありながら、一つの体系を志向しているので一気読みできました。というよりも、体系全体で理解する必要があるのでそうせざるをえない(ので、共著の総論教科書は私には受け入れられない)。
が、各論は、ひたすら広い平野(へいや)を各論点ごとに転戦していくイメージ。
また、総論が体系書寄りだとすれば、各論は教科書寄りで井田説抑えめなので、あっさりめなところもちらほら。
それでも、議論の整理が巧みなので、どのように考えたらよいか、頭の中での筋道が立てやすくなります。
個別論点の連続なので、私が中身について触れられるところはあまりありません。
ただ、「財産罪の保護法益」(196頁〜)のところを読んで、触発されてあれこれ思ったことがあるので、記録しておきます。
以下、特定の学説を主張するようなものではなく、あくまで議論の枠組みについての記述です。
○
財産罪の保護法益、刑法各論の中でもトップクラスの大論点です。
で、この本では、「占有説対本権説」というのは、あくまでも242条の解釈論であって235条本体の議論ではない、としっかり明示してくれているので、考えが散らからずにすみます。
と、見通しをよくしてくれたおかげで、出てきたのが次のような疑問。
(以下、「窃盗罪」で代表させ、条文の「財物」は所有物といいかえます。また「所有権侵害」というのは、所有物を利用過程から逸脱させることをイメージしています。)
(窃盗)
第235条 他人の財物を窃取した者は、窃盗の罪とし、十年以下の懲役又は五十万円以下の罰金に処する。
(他人の占有等に係る自己の財物)
第242条 自己の財物であっても、他人が占有し、又は公務所の命令により他人が看守するものであるときは、この章の罪については、他人の財物とみなす。
○
まず、235条と242条を図式的に整理すると、
235 他人の占有+他人の所有物 →窃盗罪
242 他人の占有+自己の所有物 →窃盗罪
となっています。
そして、井田先生によると、235条は、
235 占有侵害+所有権侵害
により窃盗罪が成立し、242条は、
242 占有侵害
により窃盗罪が成立するとされています。
242条は235条の適用範囲を拡大する処罰拡張規定なんだと。
これ結局のところ、誰の所有物かにかかわらず、他人が占有している物を窃取すれば窃盗罪が成立するってことになりますよね。
だったらはじめから235条で「他人の占有物を窃取したら窃盗」ってことにしておけば済むんじゃないですかね。法定刑だって全く同じなわけだし。
もっというと、そもそも「所有権侵害」は235条の保護法益になっていないように見えてしまいます。
自分の所有物を窃取しても、他人の占有を侵害しただけで窃盗罪が成立するというならば、他人の所有物を窃取する場合も、他人の占有の侵害だけによって窃盗罪が成立しているということにはならないのかどうか。
このまますすむと235条と242条が混線しそうなので、242条側に着目してみます。
○
235条は「所有権侵害+占有侵害」によって成立するとしつつ、242条は「占有侵害」のみで成立すると解釈した場合、242条の意味合いに、次のような違和感がでてきます。
あらためて242条の構造を図式化すると、
242 他人の占有+自己の所有物 →他人の所有物とみなす
となっています。
242条単体で直接窃盗を成立させているのではなく、「他人の所有物とみなす」ことを通じて、235条に接続しているわけです。
で、ただの占有を他人の所有物とみなすなどという大転換をはかる以上、他人の占有に何らかの「他人性」をプラスする要素がくるのが自然なはずです。
が、やってきたのは「自己の」所有物であるということ。
どう考えても逆効果なはず。なのに、実際には見事、他人の所有物に早変わり。
「他人性」にとってはむしろマイナス要素なはずなのに、それによってなんで「他人の」所有物に大転換するのか。
マイナス×マイナスがプラスになることはあるけれど、ここではそんな算術を説いているわけではないです。
あえて四則演算で喩えるなら、ここでは乗算ではなく加算の問題。
せっかくなので、イメージ作りのために無理やり数値化してみます(ここでお手元のスカウターを装着してください)。
【数値化して衡量する営み例】
加算税をめぐる国送法と国税通則法の交錯(平成29年9月1日裁決)
235 他人の占有1+他人の所有物9=10 窃盗罪成立
足して10になると窃盗罪が成立する、としましょう。
242 他人の占有1+自己の所有物△9=△8 窃盗罪成立???
ところが、242条では足してマイナスなのに、窃盗罪が成立してしまうわけです。
○
もちろん、条文に「みなす」って書きさえすれば、なんでもみなせちゃうのが法律のすごいところです。
が、無理やりみなすにしても、何らかの根拠が必要なはずですよね。
たとえば、245条は「電気は、財物とみなす」とあります。
これだって電気を財物と同じに扱えるだけの基礎があるからですよね。
もし仮に「プライバシーは、財物とみなす」みたいな規定ができたとしても、おそらく「プライバシーは窃取になじまない」とか言って、判例・学説総掛かりで空文化をはかるはず。
刑法上、プライバシーを財物と同じように扱うのは、無理があるわけで(でも、毀損のほうはいけそう)。
ということで、235条が「占有侵害+所有権侵害」だというならば、242条も「所有権侵害」に匹敵するだけの何かで埋め合わせをする必要があるのではないかと思います。
○
242条の当罰性を235条に近づけるためには、
A: 235条の保護法益を引き下げる。
B: 242条の保護法益を引き上げる。
かのどちらかになると思うんです。
それぞれ、A:純粋占有説、B:純粋本権説をモデルに組み立ててみます。
A:純粋占有説
解釈
235 占有が保護法益。
242 所有権侵害は窃盗罪の成否に関係ないことを注意的に規定。
保護法益
235 他人の占有物(他人の所有物の場合)
242 他人の占有物(自己の所有物の場合)
数値
235 他人の占有1+他人の所有物0=1 窃盗罪成立
242 他人の占有1+自己の所有物0=1 窃盗罪成立
⇒
242条の独自性は弱いですが、上述したような不整合は解消されます。
占有自体が保護法益なんだから、自己の所有物だろうが当然窃盗だよと。ただ、誤解しないように注意的に規定しておいてあげたと(確認規定)。
数値的には、占有1だけで235条が成立することとすると。他方、誰の所有物かどうかは窃盗罪の成否に影響しないので0ポイントだと。
B:純粋本権説
解釈
235 所有権が保護法益。
242 自己の所有物であっても他に本権をもっている人がいれば保護する。
保護法益
235 他人の所有物
242 他人の本権物(適法に占有している物、という意味の造語です)
数値
235 他人の占有0+他人の所有物10=10 窃盗罪成立
242 他人の占有0+他人の本権物8 =8 窃盗罪成立
⇒
Bによれば、242条は、235条が「所有権」のみを保護しているところを「それ以外の本権」にまで拡張する、という独自の意味がでてきます(処罰拡張規定)。
他人の所有物の窃取であれば常に「所有権」侵害を肯定できるから、それ以外の本権を保護範囲に含める必要がないが、所有者自身による窃取の場合は「所有権」侵害がないから、その場合にかぎり「それ以外の本権」を保護することにしたと。
数値的には、本来10で窃盗罪が成立するのが原則なところ、所有者以外に本権8をもっている人がいれば、8でも窃盗罪が成立することにしたと。
条文解釈としては、刑法の「占有」はあくまで適法な占有を前提としてるのであって、違法な占有などというものは認めていない、と解するとか。
○
ちなみに、窃盗罪の「実行行為」が窃取だからといって、「保護法益」が占有であるとは限りませんよね。
保護法益はあくまで所有権であって占有侵害を実行行為としているのは所有権を保護するための手段にすぎない、と捉えることもできるわけで。
条文上も、「占有」と書いてあるのは242条のほうだけで、235条は「窃取」という行為態様しか書いていないですし。
詐欺罪(246条)だって「人を欺いて」とあるからといって、騙されたという精神的被害が保護法益だ、という結論にはならないわけで。
それはあくまで財産を交付させる手段を記述しているにすぎず、それ自体が保護法益ではありません。
もちろん、行為の側から保護法益を導き出す、という解釈手法自体は必要ですが、それは必要条件のひとつにとどまり、それだけで結論を決定することはできません。
○
対比しやすいように、ABをそれぞれ純粋占有説と純粋本権説という、極端に振り切った説で構成してみました。
が、ABはあくまで枠組みにすぎません。
なので、いわゆる平穏占有説であれば、Bの242条の「本権」のところに「平穏な占有」を代入すれば成立するはずです。
ただし、242条を独自の意味がある処罰拡張規定として位置づけておくためには、
235条:10 > 242条:7〜9あたり?
の大小関係がキープされている必要があります。
ので、うっかり235条のほうを「平穏な占有」に読み替えてしまうと、242条の説明が難しくなるはず。
○
このABの枠組みによると、
235 占有侵害1+所有権侵害9=10 窃盗罪成立
242 占有侵害1 =1 窃盗罪成立
という説はどちらにもあてはめることができません。
242条の当罰性が235条から離れすぎているので。
どうにか正当化するには、242条に埋め合わせの何かを持ってくる必要があります。
そこで、第三の道として、次のような枠組みが考えられます。
C:自力救済禁止説
解釈
235 占有+所有権が保護法益。
242 自己の所有物を窃取するのは自力救済禁止違反行為なので処罰する。
保護法益
235 他人の占有物+所有物
242 他人の占有物+自力救済禁止秩序
数値
235 他人の占有1+他人の所有物9 =10 窃盗罪成立
242 他人の占有1+自力救済禁止違反9=10 窃盗罪成立
⇒
自分の所有物を窃取しても所有権侵害はないものの、自力救済禁止違反という、法が整備された現代社会のルールから逸脱した行為であるため、当罰性がある、という説明。
Bと同じく242条を「処罰拡張規定」と捉えることになります。しかも、個人的法益侵害から秩序違反へと、罪質まで変化させることに。
この説明の仕方、秩序違反そのものを処罰しているようで違和感をもたれるかたもいると思います。
が、自力救済禁止という理由づけはこの論点で必ずでてくるものです。
で、これを窃盗罪成立の理由づけに利用しているってことは、Cのような考え方が背後にあるからではないかと思います。
235条が所有権侵害(+占有侵害)だといいながら、242条は占有侵害だけで同じように処罰するというのは、それだけ自力救済禁止違反を個別の法益侵害と同じように重く見ている、ということではないかと。
(これ、直接的な法益侵害以外のところに処罰根拠を求める、という意味では、盗品関与罪のところにでてくる、ブラックマーケットの形成阻止という理由づけ(329頁)に、発想は似ているかも)。
ちなみに、どうしても個人的法益の中におさめたいのか、秩序違反とはいわず「法的手続によらなければ奪われない利益」みたいな言い方をしているのを、どなたかの本で見かけたことがあります。
そういうものがあるとして、その権利は、所有者Aから窃盗犯人Bが窃取する場合のAの法益と匹敵するだけの利益と評価できるのかどうか。
窃盗犯人Bの、所有者Aに対する権利なんて、無いって考えるほうが自然ではないでしょうか。
やはり、「自力救済許さない」という、B個人の利益に還元できない考慮が働いている気がします。
○
以上、ここまで述べたことは242条と235条との関係をうまく調和させるためには、という観点からの構成であって、それ以外の点は考慮に入れていません。
この論点、天才刑法学者たちが総力を注いで散々議論してきたところであって、私の思ったことなんて吹けば飛ぶようなものなんですが、頭の中のこんがらがりが少しだけほぐれそうだったので、外出ししてみました。
あと、そろそろスカウター外してもいいですよ。
posted by ウロ at 10:07| Comment(0)
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