2021年01月18日

橋爪隆「刑法総論の悩みどころ」(有斐閣2020)

 分析が鋭利すぎて、刑法学の見えちゃいけない部分が見えちゃっている。



橋爪隆「刑法総論の悩みどころ」(有斐閣2020)


 たとえば、因果関係に関する次のような記述(11頁)。

そもそも危険の現実化が因果関係の判断基準とされるのはいかなる根拠に基づくものだろうか。条件関係が認められても、危険の現実化の関係が欠ける場合に結果帰責を否定すべきなのはなぜだろうか。

この問題に対して理論的に回答することは実は困難であり、実行行為が結果発生の具体的危険性を有する行為である以上、その危険性が具体的結果として現実化した場合に限って、結果帰責を肯定するのが妥当であるという形式的な説明にとどまらざるを得ない。ここでは理論的な限定というよりも、いかなる範囲まで処罰することが刑罰権の行使として適切かという刑事政策的な観点が重視されている。(略)

いかなる範囲までの結果惹起を行為者の「しわざ」として帰責するのが妥当かという社会通念に照らした合理的な価値判断が必要であろう。それだからこそ、因果関係論においては、安定した判断構造を担保するために、具体的な判断基準を明確化する要請が強いといえる。


 理論的な根拠付けは困難だそうで。
 にもかかわらず、学説上はこぞって「危険の現実化」説にのっかってしまっている現状。

 『構成要件は違法有責類型だから折衷的相当因果関係説が妥当』
 『行為は主観と客観の統一体であるから折衷的相当因果関係説が妥当』

 こんな感じの、本質論めいた根拠付けをしていたかつての学説は、一体なんだったというのでしょうか?
 そしてそんな議論に真面目に付き合わされていた、当時の学習者の労苦よ。

 なお、ふたつとも折衷説の記述であることに悪気はなく、下記書籍であげつらわれていたものの引用です(責任転嫁)。

【参照】
松澤伸「機能主義刑法学の理論―デンマーク刑法学の思想」(信山社2001)


 で、本書では実際に、「危険の現実化」をどのような要素を拾ってどのように判断するか、という「下位基準」の開発に記述が割かれています。
 危険の現実化という定式には異を唱えることなく、妥当な結論を導ける下位基準群を提示する、という開発競争が学説のメインストリームになっているようで。

 「妥当な」というのも、処罰すべき/すべきでない、という感覚が先にあって、それら感覚的な結論を整合的に導けるか、というものにすぎないように思われます。
 そしてその下位基準が「危険の現実化」という標語・コトバから離れていなければ、どのようなものであっても特に理論的な制約はないのでしょうし。

 あとは最高裁様に、つまみ食い的にでも採用していただくだけ。

 「感覚的」というのが言い過ぎだとすれば「刑事政策的」に言い換えても構いません。
 が、何かしらのデータに基づく主張でもないので、「刑事政策的に処罰すべき」と「感覚的に処罰すべき」は互換性が保証済み。

 そもそも、「危険の現実化」によってどのような政策目標を達成すべきかが特定されていないのならば、いかなるデータを収集すべきかも決めようがありません。
 たとえば、「特別予防」を目的とするならば、過去に有罪認定された者がどのような影響を受けたかのデータを収集すべき、となりますし、他方で「一般予防」を目的とするならば、処罰/不処罰によって一般人にどのような影響を与えたかのデータを収集すべき、といったように。

 本来ならば「処罰目的論」のところで、刑法がいかなる政策目標を達成すべきかを決め打ちしなければならないはず。のに、特別予防・一般予防・応報などがああでもないこうでもないと列挙されるものの、結局どれでいくのかはっきりさせない教科書がほとんど。
 ので、個別論点において「処罰すべき/すべきでない」といったところで、なぜそのような結論をとるべきなのか、「ぼくが、そうするべきだと思ったから。」以上の根拠を示すことができない。

 「危険の現実化」のような理論的な根拠が弱いものを基準とするならなおさら、理論面からも根拠付けすることができなくなるわけです。危険の現実化のお膝元でどれだけ精緻な下位基準を並べたところで、大元の根拠が弱いことに変わりはない。
 結局のところ、「みんな」が納得する結論を導けるかどうか、でしか決めようがなくなる。

 ここまでいくと、理論派の人には敬遠されがちですが、前田雅英先生がいうところの「国民の規範意識」とかいう例のアレと同じですよね。
 どのような事実的連関があれば結果を行為に帰責してもよいと「国民が思うか」とか、行為者にどのような認識があれば故意責任を帰責してよいと「国民が思うか」で、犯罪要素の中身を決定するという(学生時代に読んだきりでうろ覚えなので、前田説そのものではなく「モデル論」としてご理解ください)。



前田雅英「刑法総論講義 第7版」(東京大学出版会2019)


 と、刑法学者がこぞって下位基準の開発競争に興じているのが現状のようですが、そもそもこれって「実体法」レベルの問題なんですかね?
 危険の現実化という実体法レベルの要証事実を判断するための「間接事実」の問題にすぎないのではないのかと。
 これはもはや「事実認定論」の領域。

 もしそうなのだとしたら、これまでの実体法と地続きで議論するのではなく、ちゃんと正面から「事実認定論」の成果を取り入れた形で論じてほしいところ。


 ちなみに、上述した前田雅英先生の見解のところでふれた「国民が思うか」という鉤括弧の中身について。

 こんなもんどうやって判断するんだよ、と思うところですが、前田先生は、これまでの裁判官の判断は信頼できる、として裁判官の判断に全面的に委ねているようにみえます(私の誤読がなければの話)。

 このことを正面から反映して記述するならば、

  どのような事実的連関があれば結果を行為に帰責してよいと『「国民が思う」と裁判官が思うか』

という入れ子な感じになるのではないかと思います。

 裁判の都度、実際に「国民」の人たちに、裁判記録一式を持参してご感想を聞いて回ることなどできるわけもなく。
 結局のところ、裁判官が「国民がどう思うか」を判断することになるので、こういう入れ子構造になる。

 なお、「裁判員裁判」もありますが、裁判員は国民の極々一部の人にすぎないので、ここでは裁判官側に組み入れられる(吸収される?)ものなのでしょう(さらに裁判の民主化なるものを先鋭化していくと、「インターネット裁判」という構想に向かうのでしょうか)。

 どれだけ純客観的な見解であっても、結局のところ「裁判官が思うか」で判断されることに変わりはありません(ここが「AI裁判官」に代替されれば別の議論になります)。
 前田説の特色は、そのことを実体法の議論に正面から持ち出したということと、「(国民が)思う×(裁判官が)思う」の重ねがけになっているというところ。

 危険の現実化という規範風のものに理論的な根拠がないとしても、「危険の現実化」というコトバの範囲に含まれるか、という程度の枠としては機能しています。
 他方で「国民の規範意識」というコトバには何の手がかりもない。ハードケースに対して裁判官が「これが国民の規範意識だ」と判断したとして、なにがしかの検証を行うことは不可能。

 「自分には妖精がみえる」というのと同等の、検証不能案件。
 我々が見えていないだけで本人には本当に見えているのかもしれません。だとしても、それは本人にしか分からない。

 なお、他人事みたいな顔しているかもしれませんが、不能犯のところの「具体的危険説」なども、妖精案件だと私は思っています。
 「一般人が危険と感じる」って、どうやって実証するんですか、と。これも全面的に裁判官が「一般人ならこう思う」と思うところにおまかせするしかない。

井田良「講義刑法学・総論 第2版」(有斐閣2018)

 「国民」も「一般人」も、概念としては存在するものの、観測しようとすると存在していないことになる。
 例の量子論の世界でしょうか。

パラドキシカル同居 〜或いは税務シュレディンガーの○○

 本来はここに「理論」を導入することで白黒つけるべきなのでしょう。が、現状はその「理論」が不在という状況。


 話を戻して、私が思うに「危険の現実化」などという定式は、学説が「つかえる」因果関係論を提示できなかったことから産み出された暫定基準のようにみえます。
 さしあたり特定の処罰目的論を前提とすることなく、妥当な結論を柔軟に導くことができる実務家の知恵のようなもの。

 のに、学説までもがこぞって最高裁の下請け作業に明け暮れているのだとしたら、とても違和感があります。
 学説がやるべき本来の仕事は、裁判所が暫定基準でしのいでいる間に、「つかえる」因果関係論を確立することではないのでしょうか。
 もちろん、さしあたりの下位基準の開発作業も進めつつでもいいのですが、それは決して本業ではない。


 「因果関係論」で代表させましたが、以降の論点も総じて、下位基準による判断手法の精緻化が志向されています。
 グランドセオリーについても一応議論のご紹介はあるものの、かつてほど重きは置かれておらず、主戦場は下位基準レベルの議論。
 おかげさまで、どういう立場の人が読んでも参考になってしまう(いい事ですね)。

 もし仮に、因果関係論が「危険の現実化」という看板からすげかわったとしても、下位基準そのものはどうとでも流用可能なもの。
 従前の相当因果関係説で議論されていた事柄のうち、純理論的な対立を除いた部分を危険の現実化に流用できるのと同じ。無残にも破壊され尽くされた相当因果関係説の残骸から、使えるパーツを取り出して危険の現実化に組み込むイメージです。

 規範の論証薄めであてはめ重厚な、今様の模範答案を書くには最適な参考書だと思います。


 以上、刑法解釈論を、ガチではなく「お勉強」「頭の体操」として嗜んでいた身からすると寂しい限りですが、実務寄り添い系な今どきの傾向からすれば、当然の流れなのでしょうね。

 一応未来予測をしておくと、藤木英雄先生級の超天才が現れて、ちゃんと理論的基礎を備えた因果関係理論を定立してくれるのではないか、と期待しております。
 前田説がガチガチの刑法理論を溶かしっぱなしにしたものを、しっかり組み立て直してくれる感じの。

藤木英雄「公害犯罪」(東京大学出版会1975)
posted by ウロ at 11:50| Comment(0) | 刑法

2021年01月11日

森田果「法学を学ぶのはなぜ?」(有斐閣2020)

 むしろなぜ、このような法学入門書が今まで出版されてこなかったのか。



森田果「法学を学ぶのはなぜ?」(有斐閣2020)

 なにが「むしろ」なのかといえば、法の「機能」に絞った記述がなされた法学入門書というのが、なぜ今までに出版されていなかったのか、ということです。
 大家の総決算系は別として、ほとんどの法学入門書が「知識陳列系」でした。

【総決算系】



団藤重光「法学の基礎 第2版」(有斐閣2007)
三ケ月章「法学入門」(弘文堂1982)
星野英一「法学入門」(有斐閣2010)
田中成明「法学入門 新版」(有斐閣2016)
五十嵐清「法学入門 第4版 新装版」(日本評論社2017)


 全くの前提知識や社会経験がない人を法学に誘おうと思ったら、本書のように徹底して法の機能面を重視した記述することになるはずなのですが。
 知識の陳列は、入門したあとの個別の実定法ごとにやればいいわけで。

 やはり「法学入門」という名前で出版されている大部分の書籍が、法学部以外の学部で実施されている『法学』という名前の講義用のテキストだから、なんですかね。


 今までですと、オススメの法学入門書を尋ねられても、それぞれの勉強目的を確認してからでないとお答えしづらいところでした。
 これからは、とりあえずこれを読め、ということにします。

 総決算系のように「分からない箇所があったら一通り勉強してから再読しましょう」といった注意をすることなく、「前から順番に理解しながら読んでいきなさい」ということができますし。

 なお、森田果先生といえば、下記記事でも「機能」重視の書籍を紹介していますね。

小塚荘一郎,森田果『支払決済法 第3版』(商事法務2018)


 ところで、異様に《胴ロング男子》な表紙イラストはどういう意図なのか。
 アマゾン書影だとしっかり帯で隠されていますが、帯をめくっていただくと、頭1個分身長の低い隣の女子と腰の位置が同じで、すごい違和感を味わえますよ。

 まさか、そういう仕掛け本ですか。

 道垣内正人先生の入門書でもそうでしたが、惹きのある個性的なイラストを載せるノルマでも、あるんですか。

道垣内正人「自分で考えるちょっと違った法学入門 第4版」(有斐閣2019)

 まったくの無関係ですが、下記のようなガチの美麗なイラストを表紙にしている法学書もある中で、わざわざ上記のような特色のあるイラストを採用する理由を、ぜひ知りたい。



 大島義則「行政法ガール2」(法律文化社2020)

 これがおしりたんていさんみたいに、イケメンかつおしり顔であることに物語上意味がある、のであれば分かります。
 「なんでおしり顔なんだよ!」などとイチャモンをつけるような野暮なことはいたしません。



 トロル「おしりたんてい」(ポプラ社2012)

 が、本書では、胴ロング男子がその胴ロングを活かした法解釈を展開する、などといった物語(Tails of Legal Long-Torso)では決してないわけで。
posted by ウロ at 10:49| Comment(0) | 法学入門書探訪

2021年01月04日

南野森「法学の世界」(日本評論社2019)

 法学入門の、ひとつの望ましい形。



 南野森編「新版 法学の世界」(日本評論社2019)

 各科目10頁程度で、各法領域を専攻する研究者が当該法領域の面白い(と各執筆者が考える)ところを語る、というもの。
 概説的な情報の陳列は少なめで、ポイントを絞った記述がメイン。

 こういうコンセプトこそが、文字通りの『入門』と呼ぶにふさわしい。
 のに、タイトルに「入門」を入れていないのは、既存の、情報陳列系の『法学入門』とは一緒にされたくない、ということですかね。タイトル汚染されてしまっているということで。


 人によって面白いと感じる科目は違うと思うので、通読はせずに気になるところから拾い読み、でいいと思います。
 で、面白そうな科目があれば、当該科目を履修選択するなりして深く学んでみるとか。

 あるいは、すでに選択してしまった、とか必須科目だが面白さが分からない、といった科目を読んでみたり。


 ただし、法学が厄介なのは、教える人によって面白い/つまらないが大きく可変すること。
 なので、誰から教わるか(誰の本を読むか)が極めて重要。

 科目の特性、というものもあるのでしょうが、どちらかというと、専ら、教えてくれる人に依存しているように感じます。
 この本読んで「○○法、面白そうだな。」と思っても、自分の大学の授業はそれほどでもなかったり、とかはいくらでもありうる。

 本書には「学習ガイド・文献案内」もあるので、一応のルートは示してくれています。
 が、総じてレベルが高めなので、段階的学習にはなりにくい。

 旧版と新版で執筆者をごっそり入れ替えているのは、同じ科目でも執筆者が変わればそれが刺さる人も変わってくる、というのもあるんでしょうね(ただし、全とっかえではない)。
 


 南野森編「法学の世界」(日本評論社2013)


 このようなコンセプトからすると、どう考えても「一見さんお断り」感を出しすぎな科目があるのはどう捉えればいいのか。

 これは「一見さんお断り」な感じを逆に面白いと感じる人を選び出す儀式(Initiation)でしょうか。
 うっかり軽い気持ちで科目選択してしまうのを予め防いでくれていると。
 科目選択におけるミスマッチ、どちら側にとっても不幸ですからね。

 そういうゲートとして機能させる、ということであれば、それもある意味で「入門」と呼んでもよいのかもしれません。
 むしろ「門」というのはそういうものですか。


 個人的には、「刑事訴訟法」(緑大輔先生執筆)のところが気になりました。
 
 たまたま、鴨良弼先生の『刑事訴訟における技術と倫理』を読んだばかりだったのですが、唐突に同書が引用されていました。



 鴨良弼「刑事訴訟における技術と倫理」(日本評論社1964)

 同書(所収の論文)は、刑事訴訟に倫理や信義則を導入して訴訟当事者の関係を規律しようというものです。

 出版は56年前。
 当然のことながら、鴨先生ご自身の問題意識は、当時の問題を解決しようということにあるのでしょう。

 この考えを現代にもってきたらどうなんだろう、とかいうことを妄想していたら、いきなり紹介がされていたのでびっくり。
 まさか入門書に鴨先生の著書が出てくるとは思わないじゃないですか。

 というか、教科書や体系書にだって、こういう基礎理論系の議論はほとんど出てこない気がしますし。

 刑事訴訟法は、緑先生ご自身の入門書があるので、次に読むべき本が明確ですね。



緑大輔「刑事訴訟法入門 第2版」(日本評論社2017)


 「刑法」(和田俊憲先生執筆)では、刑法学における想像・妄想の重要性が説かれています。

 おっしゃるとおりで、読み物としても、過去の裁判例の分析ばかりが展開されたものよりも、限界事例(あるいは限界はみ出た事例)についてあれこれ検討したもののほうが、面白いと感じるはずです。

 それが実務で役に立つかといわれれば、「直近では」役に立たない、というだけでしょう。

 和田先生も、ご自身の入門書がありますね。



和田俊憲「どこでも刑法 #総論」(有斐閣2019)
辰井聡子 和田俊憲「刑法ガイドマップ(総論)」(信山社2019)


 「労働法」(大内伸哉先生執筆)では、これからの労働構造の変革を見据えると(旧来の)労働法の展望は明るくないよ、といった趣旨のことがぶっちゃけられています。

 各科目への勧誘とすべきはずの入門書でそれ書いちゃいますか、と思わなくもないですが、変に良いところだけを強調するよりも、現実を教えてくれるのは誠実なのかもしれません。


 「国際私法」(横溝大先生執筆)では、石黒一憲先生と道垣内正人先生の著書を対比させながら読め、ということが書いてあるのですが、もう少し対比させるための補助線を書いておいてほしいところ。

 私自身もまさにそういう入り方をしたのですが、ほとんど前進できていないわけで。

野村美明『新・ケースで学ぶ国際私法』(法律文化社2020)


 ちなみに「租税法」(神山弘行先生執筆)は比較的堅実。
 具体例や数字が全然出てこないので、特色らしい特色を感じにくいかもしれません。

 なお、私自身の考えは「数字」の中にこそ税法の面白さが詰まっている、というのが持論。

三木義一「よくわかる税法入門 第15版」(有斐閣2021)
posted by ウロ at 13:52| Comment(0) | 法学入門書探訪

2020年12月28日

大塚英明ほか「商法総則・商行為法 第3版」(有斐閣2019)

 商法総則・商行為法において、本格的な理論書とよべるもの、このところ殆ど見かけないです。



大塚英明ほか 商法総則・商行為法 第3版(有斐閣2019)

 たとえば「匿名組合」などを思い浮かべてもらえればいいと思いますが、実務でフル活用されている制度があるわけです。
 なので「実務本」はあれこれ出回っているものの、「理論的基礎」をしっかり固められる理論書というのが直近で見当たらない。

 もちろん個別論文レベルでは出ているのでしょうが、それら実務おもねり系ではなく、学術的に一つの体系としてまとめ上げられたものがないということ。

 私が直近で読んだのは、商法総論・総則に関する関俊彦先生のものが最後。

関俊彦「商法総論総則」(有斐閣2006)

 なお、江頭憲治郎先生の「商取引法」は別格。
 言わずもがなのお供え本。



 江頭憲治郎「商取引法 第8版」(弘文堂2018)

供え本(法学体系書編)


 条文・判例なぞり系の「概説書」ばかりが出版されていて。

 本書も共著の教科書なので、類書同様なぞり系かと思いつつ、目を通してみたところ。

 大塚英明先生の執筆箇所だけが、やたらと論述が深くて視野が広い。

【大塚先生執筆箇所】
 第1編 商法をかたちづくる概念 general remarks
 第1章 商人、商行為そして企業
 第5章 商業登記
 第9章 商業登記と外観主義
 第5編 商法が掲げる伝統的営業 general remarks
 第6編 企業活動への資金提供−投資

 たとえば商業登記の積極的効力に関する悪意擬制説と異次元説の対立について、(「第三者おじさん」の変なイラストを挟みつつ)それぞれの論理展開を非常に丁寧に解説されています。
 論理飛躍することなく、ひとつひとつ順を追った説明になっている。

 ここの論述は、当該論点にかぎらず、条文からスタートして判例や学説の論理構造を内在的に理解・分析する方法として、とても参考になると思います。


 他方で、他の執筆者の執筆箇所は、まあ類書よりは多少わかりやすいかな、くらいの印象で、基本はなぞり系。

 この記述のノリの不揃い感の発生原因を邪推するに、大塚先生が自分が書きたい箇所だけを文字数気にせず書いて、他の執筆者は余った紙幅で残りの項目を書かざるをえなくなった、と考えると、そうなるのかなあと。
 あ、あくまで邪推です。
 

 ところで、本書の記述で気になるところが。

 商事売買における売主の自助売却権(商法524条)に関する記述。

本書 P.221
「もっとも、商法の自助売却権も、その行使の前提として、売主は履行の提供をして相手を遅滞に付する必要があるし、競売によることが要求されるため任意処分ができず、競売前に催告を要し、競売の代金も弁済期の到来した売買代金にしか充当することができないなどの点で、売主の立場からは機動性を欠いている。そこで、当事者間の特約として、売主による催告を不要とするとか、代金の弁済期が未到来でも買主の期限の利益を喪失させて代金の支払に充当することを可能とするなどの定めが置かれることがある。」

 この記述自体がおかしいというのではなく、この文章どこかで読んだことがあるなあ、と思って。

江頭前掲書 P.27
「しかし、商法524条の自助売却権も、その行使の前提として、売主は常に履行の提供をして相手方を遅滞に付す必要があるばかりでなく、競売によることが要求されるため任意処分ができず、しかも競売前に催告を要し、また、競売の代価も弁済期の到来した売買代金にしか充当できない(買主が当然に期限の利益を喪失するわけのものではない)等の点において、売主の立場からすれば機動性を欠いている。そこで、当事者間の特約として、売主による催告を不要とする、競売によらず任意処分の方法によることを可能とする、代金の弁済期が未到来でも買主の期限の利益を喪失させて代金支払に充当することを可能とする等の定めがなされることがある。」

 こちら、江頭先生の『商取引法』の記述。
 ものすごく似ていますよね。ベタ打ちしたらIMEが学習してくれて、後の記述が楽に入力できたくらい。

 もちろん、条文引き写し系の記述ならば必然的に似ざるをえないでしょう。
 が、この記述は、条文をなぞったその先の任意の特約に関するものです。
 それがここまで似ますかね、という話。

第五百二十四条(売主による目的物の供託及び競売)
1 商人間の売買において、買主がその目的物の受領を拒み、又はこれを受領することができないときは、売主は、その物を供託し、又は相当の期間を定めて催告をした後に競売に付することができる。この場合において、売主がその物を供託し、又は競売に付したときは、遅滞なく、買主に対してその旨の通知を発しなければならない。
2 損傷その他の事由による価格の低落のおそれがある物は、前項の催告をしないで競売に付することができる。
3 前二項の規定により売買の目的物を競売に付したときは、売主は、その代価を供託しなければならない。ただし、その代価の全部又は一部を代金に充当することを妨げない。


 どちらが先かは版を遡らなければならないでしょうし(初版自体は江頭先生のほうがはるか前)、実はオリジナルが両書とは別にあるのかもしれません。この2書だけしか確認していないので、他書も同じような記述になっているのかもしれませんし。
 が、論述の運びがそっくりでちょっとした表現だけイジっているのが、どうもね。

 たまたまこの箇所に気づいたというだけで網羅的にチェックしたわけではないので、他の箇所がどうかは未確認。
 どこかの大学内でしか出回らない講義レジュメ、ではない一般書籍同士ですので、何らかの申し合わせはあるのかもしれませんけども。
posted by ウロ at 00:00| Comment(0) | 会社法・商法

2020年12月21日

アレオレ租税法 〜立案者意思は立法者意思か?

 本ブログは、あれやこれやを論じている風で、基本的には同じところをグルグルしているのが実相です。
 グルグルしながらでも、少しづつ上昇していると信じたいところ。

 先日の「家なき子特例」の一連の記事も、当初は同特例の制度趣旨を論じていたはずが、最終的には「文言解釈/趣旨解釈」「納税者の予測可能性」「借用概念/固有概念」といった、本ブログでお馴染みのネタ(いつものやつ)につながっていきました。

僕たちは!出戻り保護要件です!! 〜家なき子特例の趣旨探訪1
ぼくたちは出戻り保護ができない。 〜家なき子特例の趣旨探訪2
あの日見た特例の趣旨を僕達はまだ知らない。 〜家なき子特例の趣旨探訪3(完)
からくりサーカス租税法 〜文言解釈VS趣旨解釈、そして借用概念論へ

 記事を書きながら過去記事を読み返してみたりするのですが、その中で若干違和感のある記述が。

 金子宏・中里実「租税法と民法」(有斐閣2018)

「全面的にそのとおりだなあ、とは思うのですが、前田達明先生の「法解釈論」に関する論文を最近読んだばかりの私からすると、その解釈のスタートは「立法者意思」だ、とされていないのがやや残念(註に「議会の意図」という文言があるので、そこにそういった意味合いを見出すことができるかもしれませんが)。」

 法解釈において立法者意思からスタートすべき、といった物言いをしています。
 が、他方で下記の記事だと、それとは逆方向っぽいことを言っています。

ぼくたちは出戻り保護ができない。 〜家なき子特例の趣旨探訪2

「立案担当者が開陳する見解、というのも必ずしもあてにならない。

 たとえば民法415条但書の帰責事由について、契約(=合意)を重視するか取引上の社会通念も重視するか、すでに解釈割れてますからね。改正したばっかりだというのに。
 それを外野が云々するならともかく、立法に関与した人の中でも争われているという。

民法第四百十五条(債務不履行による損害賠償)
 債務者がその債務の本旨に従った履行をしないとき又は債務の履行が不能であるときは、債権者は、これによって生じた損害の賠償を請求することができる。ただし、その債務の不履行が契約その他の債務の発生原因及び取引上の社会通念に照らして債務者の責めに帰することができない事由によるものであるときは、この限りでない。

 そうすると、やはり出来上がった文言をベースに解釈するしかないでしょう。
 この場合だと、文言上優先劣後の関係をつけているわけではないのだから、どちらも重視すべきと解釈すると。」


 これは、無意識のうちに改説したってことなのか。
 と思ったのですが、この違いは《仮想/現実モデル》で説明ができそうなので、以下、言い訳を重ねてみます。

 なお、『租税法と民法』を含めた一連の書籍群、例によって「マケプレのクレプラ」(アマゾンマーケットプレイスのクレイジープライス)になっていますね。
 さすがにこうなってしまったら、誰も買わないよなあ。


 後者の記述で想定していた意思の主体は、国会議員ではなく立案担当者です。
 そこでは、立案担当者執筆にかかる改正本の記述を、そのまま立法趣旨・立法者意思として理解することに対する、強い違和感があったわけです。

 こう書いてみて気づくことは、
 
  ・立案趣旨 ≒立案者意思(立案担当者の意思)
  ・立法趣旨 ≒立法者意思(国会(議員)の意思)

のふたつは、別概念として明確に区別しておかなければならないということです。

 そして、区別をした上で、
  ・立案趣旨を立法趣旨とみてよいか。
  ・その立案趣旨=立法趣旨を法解釈において重視すべきか。
と段階を踏んで検討すべきなのでしょう。

 このような区別は、もしかしたら一般的な見方ではないのかもしれません。
 が、本稿の主題上区別せざるをえないので、以下では、用語の使い分けをしていきます。

 なお、ここで「=」ではなく「≒」としているのは、式の左辺を「客観」・右辺を「主観」として区別しておく必要があるからです。
 立案者・立法者のつもり(主観)が条文に反映されていないのであれば、その主観は法解釈において重視すべきでない、となるはずです。
 明らかに「立法の過誤」だというならば、話は別でしょうが。


 この区別を前提に、立案趣旨を立法趣旨として理解してよい「条件」をあげるとしたら、次のようなものになるかと思います(以下これを《仮想モデル》といいます)。

【仮想】
 ・立案者は1人
 ・その立案者の意思が過誤なくそのまま条文案に投影されている
 ・国会でもその意思が立案趣旨として明瞭に説明されている
 ・国会では何らの反対もなく可決

 このような条件が綺麗に整っている場合であれば、立案趣旨=立法趣旨といえるでしょうし、それをそのまま法解釈に使うべきなのでしょう(もしかして、極めてマイナーな制度であれば、今でもこんなノリで成立しているのかも)。

 他方で、現実にはすんなり一気通貫で通過するわけではない。

【現実】
 ・立案者は多数
 ・立案者間での合意形成のため、条文案は妥協の産物となる
 ・国会では立案者のうちの一部の人が趣旨説明を行う
 ・国会で条文の修正が行われる

 と、このように、各段階で様々なノイズが入る。

 「ノイズ」とは言いましたが、意識高い系の立案担当者が『あの法律、俺が作ったんだぜ!』と我が物顔でドヤるための条件にとって、にすぎません。
 むしろ、このような立法過程こそが「議会制」の本来のあり方であって、《仮想モデル》にはある種の優成思想あるいはエリート主義を感じざるをえません。

 「国民にわかりやすく」などといった立法目的を掲げながら難解な条文を積み上げている人たちの、いかにも考えそうなことよ。


 《仮想モデル》の条件がきちんと整っている場合であれば、法解釈において立案趣旨=立法趣旨を重視するのは当然、ということになるでしょう。

 が、現実には、立案者が示す見解であっても、それがそのまま実際の制度に反映されるとは限りません。
 他の立案者や国会議員の意思が混ざり込む、あるいは誰の意図とも異なる条文ができあがる、ということがあるわけです(立案者・立法者と条文(案)作成者が異なる場合)。

  ア 立案者意思 ≠ 他の立案者意思
  イ 立案者意思 ≠ 立法者意思
  ウ 立案者意思 ≠ 立案趣旨
  エ 立法者意思 ≠ 立法趣旨
 (さらに、これらに条文(案)ともズレるパターンが加わります)

 「国民にわかりやすく」といいながら難解な条文案を積み上げる所作、ここでいうウに相当すると思います。
 もしかして、立案者のつもりとしては本気でそう思っていたのかもしれませんが、実際の条文(案)をみるかぎり、およそそのような親切心が読み取れるような仕上がりにはなっていない。

 私が、意思・主観重視の法解釈論に与しない理由はこのあたりにあります。
 口先ではいくらでも綺麗事を言うことはできます。が、条文(案)には隠しようのない本音がダダ漏れ。

 法解釈においてはあくまでも条文から読み取れる客観を重視すべきであって、主観はあくまでも客観を解釈するための一資料という位置づけに甘んじさせるべき。
 立案者の見解だからといって、他の見解と比べて当然に優先的な採用がなされるものでもない。
 特に、できあがった条文と矛盾するような見解なら、なおさら。

横流しする趣旨解釈(TPR事件・東京高裁令和元年12月11日判決)


 以上を踏まえて、前述の記述を整合的に説明するならば、次のようになります。

 当初の記事では、(立案者云々にかかわらず)「立法者意思」が明確で条文とも整合する場合を想定して同意思を法解釈のスタートにすべきと書いた、これに対して、適格要件や家なき子特例の記事では、これら実際の制度・条文に「立案者意思」(事業・従業者引継、出戻り保護)が反映されていないことから、「立案者意思」は重視すべきでないと書いた、と。

 もちろん、常に立案者意思を軽視してよいのではなく、出来上がり方が《仮想モデル》に近いものであるのならば、立案者意思を重視すべきということになるのでしょう。


 ここで、私が《立法回路》としてイメージするモデルを図解しておきます(あくまでモデルです)。
立法回路.jpg

 一番下の立案者意思から条文を読み解くの、迂路ってんなあって感じですよね。
 立案担当者の解説本というのも、この回路を経てきたことを踏まえた記述になっているのならばいいのです。
 ではなく、立案者意思を前面に押し出した解説となっているとすると、それは違うんじゃないのと思うわけです。

 「国民にわかりやすく」なんて大義名分も、最初にこの回路に電気を通すスターターとして使われるだけで、そのあとはこの回路を通ることがない。にもかかわらず、出来上がった後に「国民のために改正したんです。」とか言って改正理由のお題目として再度引っ張り出されがち。

 一番上と下だけ本物で、あとの中身が新聞紙な札束みたいなものよ。


 《言い訳の数だけ法解釈が上手くなれるよ》とは、皮相的な見方ではありますが、少なくとも今回は、どうにか整合的に説明できないかと考えたことで、うまい筋道が見つかる結果となりました。

 間違いだと思ったら素直に認めることも大事ですが、他方で、すぐに白旗あげるのではなく、どうにか辻褄合わせられないか足掻いてみることも同じくらい大事、みたいですね。
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